2013/2/3
知人からのメール
今日も春分の頃のような穏やかな日中でした。
ここ数日の暖かさで,皿ケ嶺周辺の山々の雪は解けてしまい,石鎚山系の残雪だけが唯一冬の名残を留めており,我が故郷にも春の足音が聞こえる頃となった。
午前中は家でゴロゴロしていたので,一日中ブラブラも出来ず,午後からは畑へ出掛けニンニクを植えている畝の草引きを行っていた。
家を出る際,仕事着に着替え居間へ顔を出すと,子供から「先程までは眠い顔やったのに仕事人の顔に変身しとるねえ」と話しかけてきたので,「人は服装によって気分一新するもんよ」と返したら,「分かったけん畑へ行ってくれ」と一蹴されてしまった。
ところで,知人からのメールによると,退職後は「無理をしない。見栄を張らない。頑張りすぎない」「短期の目標を持って生活する」を心掛けて生活しています。
こんな生活信条のような内容が書かれており,小生には真似の出来ない項目(頑張りすぎない)もあったが,手本にしたい中身であった。
小生なぞ表向きには,過ぎ去った日々は水に流し,毎日を淡々と生き,新しい発見に感動するよう心がけていると公言しているが,
実際には,昔のことは忘れ難く,時には迷い,感動するような発見は少ないところ,何より健康で毎日が過ごせるのは有難いと思っている。
今朝の犬の散歩時には,秋川雅史の,千の風になってのメロディが頭に浮かんできた。
何やら今夜も早目の寝言になったようだ。
2013/11/18
深まりゆく秋
西からの風が冷たい一日でした。
冬の訪れを告げるような寒波が5日前に来襲した際には,石鎚山系に初冠雪があり,薄っすらと雪化粧した山肌から冬の到来を感じていたところ,
その雪も翌日には融けてしまい,この季節の名残である裏庭の柿の実をながめては深まりゆく秋を感じていたが,
昨日あたりから再度の冷え込みとなり,本日においては山々では石鎚山系のみならず,皿ヶ嶺から三坂峠周辺までもが薄白くなっており,小雨から霙となり粉雪へと変化していった情景を思い浮かべておりました。
この寒さで畑仕事は出来ず,本日においても昨日に引き続いてゆるりとした時間を過ごすこととなり,午前中は自己が所有している精米機で玄米をついたり,今年度に作ったニンニクの黒焼きを,新しく購入した容器へ入れ替える作業を行っていた。
玄米は7分つきであり1回に8㎏ずつを精米しているが,つきたての白米を食べられるのは有難く,ニンニクの黒焼きについては今年度は5回(1回に7日から10日の日時がかかる)も熟成させており,知人にお裾分けしても残りが200個ほどあり,来年の夏まで常温にて保存できるので滋養品として食したいと思っています。
午後からは,久しぶりに温泉ていれぎの湯へ出掛け,樽風呂や露天風呂に入り日頃の疲れを癒しながら,今までの農業について振り返り,これから先いつまで続けられるのだろうかと思いを巡らせておりました。
この農業ですが,稲作を始めてから13年が過ぎ,5年前に仕事を早期退職してからは稲作だけでなく野菜作りを本格的に始めており,そこには四季があり大自然の恵みを受けながら,野菜たちと会話しつつ数年が過ぎてしまったようであります。
また,父から子へと稲作を受け継いだ年(平成12年)には,父の身体は弱っていたのですが,無理をして水田まで足を運び,小生において歩行型二条田植機で田植えを行なう様子を,セメントの畦に腰を掛けて見届けておりました。
その数日後に父は入院したのですが,秋になり自分の力で稲の収穫を終えたことを病室にて報告すると,父から「心配しとったけど,ようやったのう」と,誉めてくれたのを思い出していた。
そんな稲作と野菜作りへの愛着を子供たちに伝えたいと思うものの,自分でやってみようとの気持ちが起こらない限り,田畑で土と戯れることは出来ないのであろうと温泉に浸かりながら考えておりました。
こんな一日でしたが健康で事故なく過ごせたことに感謝している。
2014/5/3
生きる
そよ風が心地よく感じられ,初夏の太陽が眩しい一日でした。
畑では,トマト・ナス・キュウリ等の苗の植付けを終了し,そろそろ田植えの準備をする季節になりました。
本日においては,農作業が一段落したのでトラクターの修理を行っていた。
寝言301に書いたトラクターであり,副変速のギアが入り業務に差し支えはなかったが,路上走行時に速度が遅いので(耕耘時の速度),以前から何とかならないものかと思っていたので,色々と考えた挙句に再度の荒療法を行い,ギアが高速へも入るようになりました。
方法は,ギアのシャフトが折れた際に,シャフトの中央へ電動サンダ―で溝を付け,ドライバーを溝に当てて左右に回すべく力を入れていたら,偶然に低速の位置へギアが入り,そのまま使っていたが,
今回は,その溝を深く掘り,シャフトが簡単に回るようにするため,鉄筋の端切れを使い工具を作成しておりました。
工具作成の理由は,深くなった溝へ太めのドライバーを当てて回そうとしていたが,ギアを回転させるためにはトルク不足なのか動かなかったので,専用の工具を作成したのです。
専用の工具を使用すると,いとも簡単にギアを高速へ入れることが出来て,路上走行は以前のようにスムーズであり,修理は大変でしたが達成感はありました。
ところで,社会では相変わらず事件・事故が発生しており,その実態は人間の我儘な気持ちが原因となり惹起させているようでもあり,命の大切さについて改めて考えていた一日でもありました。
寝言のネタが尽きようとしており,今回においても以前に書き記した内容をまとめて再度の掲載をしておきたい。
(2012/2/2)
生きよう
この頃の報道に接していると,殺人事件や自殺したとのニュースが以前より多く聞こえてくるようだ。
人を殺せば刑法の殺人罪が適用され,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処せられるのを覚悟の上で犯行に及んでいるとしても,何故に殺人を犯してしまったのか,犯行に及んだ者の心境は複雑であろうが,殺しても誰の為にもならないのは明白である。
それはさておき昔からの言い伝えに,家族の者が人を殺したり自殺すると家系が途絶えると聞くが,途絶えないにしても,殺せば本人の人生はなく,自殺なら尚更であろう。
何れにせよ人の命がこの世から消えてしまうのは無常の限りである。
殺すな,自殺するな,命を大切にしよう。
ところで凶悪事犯の現場では,これほどまでに惨い仕打ちの必要があったのだろうかと,人間の愚かさや醜さを思い知らされる時もあるのでしょうが,殺さずとも解決する道は残っていたはず。
自殺にしても,わざわざ自ら死を選らばなくても生まれたからには何時かは死んでゆくのである。
腹を立てて自殺するなかれ。
思いとどまって家族や友人のためにも生きてみよう。
死ねば全てが止まってしまう。
苦しみの多い人生も楽しいものですよ。
それでも神々が苦しみを与えるなら,身も心もボロボロになりながらも,なお生き抜くのが人生なのでしょう。
(2012/10/10)
乗り超えよう
今日は午前・午後と畑仕事に精を出しておりました。
午前中は残暑甚だしく,鍬で除草作業をしていたら久しぶりに大汗をかいたが,
午後からは,太陽が雲に隠れて過ごしやすく,畑仕事は楽であった。
社会では,事件・事故が多発し,「ええ加減にせい」と喝を入れたくなるが,一農夫の喝では何の役にも立たないのでしょう。
人を殺して己の生命も断つ覚悟は立派にも思えるが,実はこれほど愚かな所業はない。
諸先輩の言葉を借りるなら,「親が己に対し,指導したり意見する事に関し,いちいち腹を立てるな」「親の言っている事に腹が立つ間は,親を乗り越えてない証拠である」ようだ。
社会人なら,職場・近隣・友人関係で腹の立つ事もあろうが,他人を超えたいなら,許す気持ちと,真理を探究し,道理を極めるに尽きると思われる。
どん底の人生が続いていても,そこから這い上がった人生もある。
神さんは,よう見とるけん。
(2012/12/27)
その一言で救われることがある
昨晩のこと,NHKのテレビ番組を見ていたら,子供の自殺について放送されていました。
子供の自殺原因は様々であるところ,死を選ぶほど深刻な動機ではないと思われるケースがほとんどであるが,テレビでは現場教師の行き過ぎた指導が原因だと考えさせられる自殺について報じられていた。
内容として,生徒が死を選択したであろう原因を掲げ,生徒の死について,本人の家族と学校側との意見に食い違いがある旨の説明がなされておりました。
学校側は生徒の死について,教師の指導に落ち度はなかったと結論付けているが,警察の捜査で疑わしいと判断され,裁判で指導に行き過ぎがあった結果での自殺だと認定されても,学校が作成した調査結果を修正せず,現在に至っているケースもあると補足していた。
一方で,ある教師の反省点として,高校生がタバコ事犯で停学処分を受けた翌日に自殺した事案では,処分を下した先生方の部屋を生徒が退室する際に,何らかの言葉を掛けてやればよかったとの気持ちを述べていたが,人はその一言で救われることがあり,教育の現場で生徒を指導する時には,一方的に叱るだけでなく,心の中に逃げ場を確保してやるくらいの寛容さというのか指導方法が必要かと思われた。