2013/7/31
日本国憲法の暗記
今日も暮れゆく真夏の夕日に,7月も本日で終わりだと呟いてみた。
嫁が,午前中にストレートパーマをかけると言い,午前9時に家を出発し,美容院に出掛けたので,留守番を兼ねて家でのんびりしていたところ,
パーマをかけて家に帰ったのが午後2時であり,
中途半端な時間帯だったので,そのまま畑仕事を休んでいたが,
午後3時30分頃になって,このままでは今夜は美味しいビールが飲めないと思いつき,早速に畑へ出掛けて,草刈り機にて除草作業を行っていた。
草刈りの作業を始めて10分くらいは,汗をかかず,このままではビールが不味いぞと思いながら作業を続けていたら,
以後は徐々に発汗があり,30分も過ぎれば,サウナに入った時のように全身へ汗をかき,何となくですが,ビールを飲んでも良いとの汗のサインが出たのを感じたので,あと少し頑張ろうと思い,計1時間くらい除草作業を続けていました。
その後は,除草作業を終えて他に仕事を行うことなく家に帰り,入浴の後に美味しいビールを飲みながら,
昼間に考えていた寝言のネタを文章として綴るべく,パソコンの前でキーボードを叩いていている。
ちなみに,30年以上も前の話になりますが,
日本国憲法の前文を覚えてみたいと思いつき,何回も読んでいたら,さだまさしさんの『雨やどり』の曲に合わせて歌えそうだと気づき,練習していたら何とか記憶することができました。
2年前に,その内容を子供に話したら,テープに入れてみいやとの事になり,畑倉庫の二階で録音し,現在はminiSDカードに取り込んで保管しております。
また,子供からユーチューブに投稿しいやとも勧められたが,「誰も聞かへんし,もし聞いても,このオイサン大丈夫か」と思われるのが嫌で放置していました。
それはさておき,今でも記憶している日本国憲法前文の覚え方について,何の役にも立ちませんが,下記のとおりでしたので,参考までに記録しておきたい。
さださん,歌詞を勝手に使用させていただきます!
それは,まだ私が神様を,信じなかった頃
日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を,通じて行動し(少し早口で曲に合わせて歌う)
9月の,とある木曜日に,雨が降りまして
われらと,われらの子孫のために,諸国民との協和による成果と
こんな日に素敵な彼が現れないかと
我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し
思ったところへあなたが雨やどり
政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。(早口で歌いあげる)
すいませんねと笑うあなたの笑顔とても凛凛しくて
そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって
前歯から右に四本目に虫歯がありまして
その権威は国民に由来し(ゆっくりと曲に合わせて歌う)
しかたがないので買ったばかりのスヌーピーのハンカチ
その権力は国民の代表者これを行使し(ゆっくりと曲に合わせて歌う)
貸してあげたけど傘の方が良かったかしら
その福利は国民がこれを享受する。(ゆっくりと曲に合わせて歌う)
でも爽やかさかとても素敵だったので
これは人類普遍の原理であり(ゆっくりと曲に合わせて,・・・あ~りと歌う)
そこは苦しい時だけの神だのみ
この憲法はかかる原理に基づくものである。(この憲法はかかる原理に基づくものであ~りと替えて歌う)
もしももしも出来ることでしたれば
われらは,これに反する(われらは,これに反する~ううと歌う)
あの人にも一度逢わせてちょうだいませませ
一切の憲法法令及び詔勅を排除する。
以下,メロディを前後に重複させたりしながら,今度は日本国憲法の前文にあわせて口ずさむと,暗記できました。
こんな寝言になりましたが,
日本国憲法については,戦後67年もの長きにわたり,その普遍的価値を守りながら,国家や国民生活の基本となってきた国家の最高法規であり,この憲法があったからこそ現在まで平和に暮らせてこれたと言っても過言ではないが,
近年の東アジア情勢や,国際社会の中における我が国の立場を明確にしてゆこうとするなら,憲法第9条については,全面改正すべき時期に達しているものと思われた。
2015/1/2
新年を迎えて
どんよりとした厚い雲に覆われていた一日でした。
2015年も二日目の夜となり,久しぶりに寝言を更新しておこうとパソコンのキーボードをたいている。
年の初めに,今年こそはと誓いを立てていた頃には,早朝に起床し風呂場へ行き全身に水をかぶり身を清めつつ決意を新たにしていたが,6年前の夏に職を辞してからは目標に向けた決意もなく,ただただ静かでゆっくりとした年明けを過ごしております。
そんな訳ではないけれど,昨日なぞは寝正月を決め込んで,食べては寝る一日を過ごしており,
このまま寝正月で終わらせるのは勿体無くもあり,今朝は突然に思いついて,四国八十八箇所の掛け軸と西国巡礼の掛け軸を数年ぶりに箱から出してみました。
掛け軸は,生前の父と母が巡礼した際に,行き先々の寺で一筆と朱印を頂いた掛け軸となっており,我が家では唯一の宝物となっております。
今朝はこの掛け軸に向かい,それぞれ般若心経を唱えて,本年の家族一同の無病息災と世界の人々が平和に暮らせますようにと祈願したところでもありました。
久しぶりに座敷の鴨居に掛けられた掛け軸は傷んでおらず,桐の箱へ戻す時には新しいショウノウも入れて保管することにしました。
この掛け軸を何年先に出すのか予定はありませんが,仏事だけでなく自身の魂が曇り自浄できない時には,箱から出して今朝のような気持ちで掛け軸に向かいたいと思ったところでもあります。
さてさて,社会では本年もアベノミクス・原発問題・沖縄の米軍基地移設問題・集団的自衛権の行使容認の件・拉致問題・韓国や中国との関係改善など諸問題が山積されているようであるが,これらの問題を政権与党が如何なる方法で解決してゆくのか一農夫でも気にかかるところである。
2015/1/14
知人への手紙
今日も淡々とした一日でした。
書き出しに,3回も続けて同じ文句を使ってしまったが,日々の生活に大きな変化はないところ,本日においては午前中に知人へ手紙を書き,午後からは畑にて甘夏みかんの収穫を行なっていた。
知人への手紙は下記のとおりですが,母が病死した際に,生前に本人が希望していた家族葬を行なったことで,ご近所では小生が何か隠し事(死因?)でもしているように感じられたのか,母の死について一切触れなかったので,こんな事であったと記録しておきたくキーボードを叩いている。
拝啓
寒さ厳しき毎日ですが,いかがお過ごしでしょうか。
年始には,母○○に年賀状を頂きありがとうございました。
実は,突然の連絡になりますが,母は昨年8月30日に病死し,家族葬にて天国へ旅立ちました。
生前の○○子は○○様のことを心の友であると子供たちに話しており,入院中には私から本人に対し「○○さんに連絡して,会いに来てもらうかな」と問いかけた事もありましたが,本人は「元気になったら家に帰るので,その時に電話するけん,連絡せんでええよ」と答えておりました。
そんなことで入院生活を過ごし,癌であることは医師から本人に告知せず,家族においても一日でも早く元気になるよう励ましておりましたが,帰らぬ人となりました。
○○子の生前中は大変お世話になりました。
元気だった頃の本人は,何かと言えば昔の辛かった時代を思い出して,時には他人の悪口を言っておりましたが,入院中は仏様のように心が穏やかとなり,一度だけ転院したいと我がままを言ったものの,その他は家族や病院スタッフの言葉に耳を傾けつつ残された日々を静かに過ごしておりました。
以下は,家族葬(子供と孫が集まっての通夜)の際に私が挨拶した内容となっており,よろしかったら本人を偲んでやって下さいませ。
只今から,8月30日の午後10時3分に,胃癌のため逝去した,母○○子の通夜式を執り行います。
皆様には,ご多忙中にもかかわらず御出席いただき誠に有り難うございます。
母○○子におきましては,本年7月10日頃から身体がだるく食欲不振があったので伊予病院へ通院し血液検査を受けたところ赤血球の数が極端に少なく,紹介状にて県立病院で専門的な検査を受けた結果胃に癌があり肝臓へ移転していると診断され,
その後7月16日に伊予病院へ入院し療養を続けておりました。
入院中の経過として,最初の1週間は普通に食事し元気な様子を見せておりましたが,
その後は食欲が徐々に減退し,1日に点滴二本と牛乳100CCを摂取するだけの日が2週間も続き,身体が目に見えて痩せてゆきました。
そんな状態が続けば命に危険を及ぼすとのことから輸血(一回)を受け,病院の食事指導に一切応じなかった本人に対し,点滴二本は引き続き受けると共に,牛乳は飲み辛くなったとのことでエネルギー補給ゼリー180キロカロリーを毎日飲ませ,20日ほどは補助を受けながらもトイレへ行き用を足す等しておりました。
しかしながら8月26日頃から急に弱り込み,点滴二本は毎日受けるものの,頼みの綱であったエネルギー補助ゼリーも牛乳も一切口にせず,意識はあり多少の会話は出来るものの寝たきりとなり,
8月30日には朝から意識がもうろう状態となり,午後4時47分に伊予病院から本人が危篤状態であるとの電話があり駆け付けたところ,その時には「妹が見舞いに来てくれてるよ」と話し掛けたら,僅かに頭を上下に動かして目で返事しておりましたが,
その後は意識が薄れ,最後には呼吸の回数が減ってゆき,炭に付いた火が消えるように,ゆっくりと静かに命の灯火も消えてゆきました。
ところで,母○○子の生涯については,
昭和7年○○月○日に松山市で出生し,父親が日本海軍の兵隊であったことから広島県呉市で幼少期を過ごして,10歳になった頃に母親が病気で亡くなったので松山市内の祖母の家に預けられて10代を過ごしておりました。
そして,18歳頃に本人の夫である☆☆と松山市内で知り合い結婚し,やがて三人の子供に恵まれて,生活は苦しかったと思われますが,20代・30歳代を過ごし,
そんな中,夫☆☆がタクシー会社へ転職したのを契機に,○○子が38歳頃の昭和45年には小さな家ですが新築し,その住宅ローン支払いの補助をすべく近所の縫製工場で10年くらい働いておりました。
50歳代には,夫がタクシー会社を早期退職し近所の農園で働き始めた頃に,本人も縫製工場を辞めて専業主婦に戻り,その頃には農場で育てた苗を,夫が東北から九州まで運ぶ仕事もあったので,車に同乗し夫婦で楽しい時間を過ごしていたようでした。
その後は,平成12年2月に夫が他界したのですが,私ども長男家族と二世帯住宅の一階で余生を過ごし,畑での野菜作りや庭の草取りが日課となっておりました。
また,母○○子は,俳句をひねるのが趣味であり,気に入った句が詠めたら,知人に電話して披露していたようでした。
さて,本日は通夜であり,お坊さんから枕経を受けるべきところ,家族葬としたので,当方において,般若心経を唱えさせて頂きますので焼香を行なってください。
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般若心経を繰り返し唱えたので,さらに魂が安らかになれるよう,本人が興味を抱いていた,法華経も唱えてみます。
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本日は,母○○子の通夜の席に御列席下さいまして有難うございました。
明日の告別式では,○○寺の和尚さんが先導し葬儀が執り行われます。
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年賀のお礼にしては失礼な内容かと思いつつも,一報するのが遅れてしまい,この紙面を借りて報告する所存となりました。
厳しい寒さが続いておりますが,お身体を大切にされて元気にお過ごし下さいませ。
敬具
平成27年1月14日
○○ 様
○○ ○○
こんな手紙を出してよいものかと迷いましたが,人生には区切りをつけるべき時があり,このまま知らぬ振りをする訳にもいかず結局は投函することにしました。
さて,人間はより良い生き様や死に様を示すことで,人としての価値を高めることが出来るが,生前の母においては自身を卑下するような言葉を発したりヒステリックな態度にて子供たちを困らせた時期もあったところ,短い闘病生活ではありましたが死に様は立派であり,わだかまりのない日々を過ごしつつ,最後の日には御仏の元へ導かれるように穏やかに旅立つことができました。
そんな母に対し,今でも毎朝の勤めの際には,仏壇の横に置いてある母の写真に向かい「えらい早ように死んでしもたなあ」と語りかけたり「あなたの人生は立派でした」と褒めたりしている。