日々のひとこま

 

2013/6/3 

倉庫

 今日も一日が無事に終了した。

 午前中に食料品を購入するためスーパーへ出掛け,午後からは6月7日に予定している田植えに備え代掻きを行なっていた。

 水田にて代掻きをしていると,妄想が限りなく出入りし,浮かんでは消えていたが,

 啄木の ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな

この短歌を思い浮かべた時には,しみじみとした味わいと含蓄が感じられ,

 小生なぞ,その足元にも及ばないが,自身なりに書き残しておいた「倉庫」の一文を思い出しておりました。

 

 倉庫には男の夢とロマンがある。

 そんな風に夢を思い描きながら,職場で働いていた頃の初夏の日に,かすみ草が乱れ咲く畑の片隅へ10坪あまりの倉庫を建てた。

 あれから早くも8年目の初夏を迎えた。

 社会人として仕事をしていた頃には,真夏なら友達と倉庫の軒先でビールを飲みながら焼き肉を食べ,寒い季節には倉庫の2階へ上がり炬燵の中で足を伸ばし,手作りの料理を肴に日本酒を酌み交わしつつ,やがて訪れるであろう定年後の生活について夢のように語っていた。

 小生は5年前の夏に自己都合で退職し,それからというもの友達とは互いに連絡を取り合うことなく年月が過ぎ去ってしまった。

 人生とは,それぞれに職場や社会で知り合った仲間でさえ,過ぎ去れば大都会の駅で偶然にすれ違った人々のように,互いに歩む路も別々であり,その生き方も様々となる。

 倉庫での夢とロマンは,現在においても,自分一人だけで自由に使える場所が確保できたことと,ゆっくりと思考できる空間があることの満足感である。

 その倉庫を中心に,昼間の4~5時間ではあるが,ブログを書いたり,田畑の手入れをしながら日々を過ごしている。

 小生が細やかに生きてゆけるのも,倉庫のお陰かも知れない。

 ところで倉庫から遠くに見える石鎚山系や皿ケ嶺周辺の山々の風景は昔と何ら変わらず,自身のみが年齢を重ねてきたようでもある。

 また,畑の側を流れる小川では今でも清水が流れ,小魚やアメンボのような水生昆虫の姿が時おり見られ,子供の頃に見た光景と何となく重なり感動さえする時もあるのです。

 それでも季節は知らぬ間に移り変わり,少年時代に,早く大人になりたいと夢を見ていた時のような毎日が過ぎ去ってゆきます。

 さて今日も倉庫へ行き,細々ではあるが昨日の仕事の続きをする予定である。

 今のところ他に遊ぶ場所がないので。

 

 自己満足な一筆ではありましたが,この「倉庫」こそが我が人生のよりどころになっているのも事実であります。

 今夜は,びんちょうマグロの刺身に,ジャガイモと竹の子とぶんどう豆の入った田舎煮が食卓テーブルの上に置かれ,慎ましやかな夕食になっているが,昔ながらのメニューに微かながらも幸せを感じている。

 

2013/7/30

無心で前向きな気持ち

 7月も残すところ明日だけとなった。

 日々の過ぎるのが,早過ぎると感じている,この頃であります。

 社会人として職場に勤めていた頃には,土曜・日曜日が早く訪れないかと思いながら業務を行い,楽しみであった週末を有意義に過ごしていたが,

 数年前から,毎日が日曜日のような状態となり,週末の予定を考えることもなく,

当初は,退屈であろう毎日を,如何にして過ごそうかと思いをこらせておりました。

 ところが,米の栽培と自給野菜を育てることを中心に日々を送る生活が定着してからは,ある程度の目標を定めて農作業をすることで,仕事と余暇の時間を使い分けることが出来るようになり,現在まで何とか過ごせています。

 さて,ここ数日は,右の脇(腋窩)が腫れぼったくて鈍痛がしたり,風邪ぎみであったり,軽い眩暈の症状がありながらも畑で雑用をしていたが,

 本日は朝から,よく見え,よく聞こえて,全身の倦怠感が消えており,

 久しぶりに汗をかきながら,野菜畑の除草作業を行っていた。

 この暑さに負けることなく,無心で前向きな気持ちにて日々を過ごしていると,何か新しい発見があるかも知れぬと感じていた一日でもあり,その気持ちを大切にしたいと思っている。

 

2013/9/29

人は人・自分は自分

 今日も無事に一日が暮れてゆきました。

 29日だったので,午前中に肉の半額セールを目当てにスーパーへ出掛け,普段の5倍くらいを買い込み,今夜と明日のメニュー分を冷蔵庫へ入れて,残りは冷凍保存した。

 午前中の残った時間で,バインダーとコンバインの整備をすべく畑の倉庫に出掛け,清掃・点検を実施したのですが,

納得のいくまで機械を調整していたら,結局のところ昼食をはさんで午後4時頃まで作業を行っていました。

 嫁に言わせれば「お父さんは農機具がおもちゃみたいなものやから,飽きもせずつつけるんやねえ,今日は草取りの予定やなかったの」と愚痴ったが,

 部品を外して掃除したので組み立てねばならず,思ったより時間がかかってしまったのです。

 ところで,農機具の整備が終了したので,犬の散歩を済ませ1日を終わらせようかと思ったものの,まだまだ日が高く,もう一仕事しておこうと,ニラの植替え(20株)を行ってから犬との散歩に出掛けていた。

 そして,午後5時を過ぎてから収穫を終えた畑の様子を眺めては,今年はサクランボ・ビワ・ブドウ・イチゴが豊作で知人にお裾分けしたが,夏野菜である茄子・キュウリ・トマトは不作であったと反省しておりました。

 何事も,基本を忠実に実行すれば事なきを得る事が多いが,今年は,土づくりを十分に行わなかったのが原因で,夏野菜の収穫が少なくなったようでした。

 また,帰り際には畑の片隅で自生するコスモスを観察していると,

 花の色が,ピンク・薄いピンク・白・紅色とさまざまであり,

 紅色が鮮やかで見栄えしたが,同じ色ばかりでは感動が少ないとも考えていた。

 さて,組織や社会そして人生にも様々な花が咲いており,まだまだ蕾であったり,その役割を終えようとしている花もあろうが,

改めて,人は人・自分は自分であることを忘れないでおきたく,

 個性が強すぎて本人はしんどい時もあろうが,その個性は生かされるべきであり,

 遅くとも,やがては花開く人生もある。

人生には山もあれば谷もあるので,苦しみと向き合いながらの日々であっても, 

 一生を苦しみ抜いて生きてゆくことはないので,

 時々は我に帰り,自身を見つめ直してみるのは如何なものかと思われた。

 何やら訳のわからぬことを書いてしまったが,今日という日も過去の日々へとなりつつある。

 

2013/10/20

退職後の生活

 一雨ごとに秋の深まりを感じている今日この頃です。

 昨日に引き続き小雨がぱらついていたので,午前中に扇風機の掃除をし,午後からは畑の倉庫へ行きニンニクの黒焼きを作るべく下ごしらえを行なっていた。

 6月の上旬に収穫したニンニクは,早速にニンニクの黒焼きとなり,

種ニンニクとして保管しておいたものを9月下旬に畑へ植付け,

本日は,残ったニンニクの中から料理に使う分を保管し,その他のニンニクを黒焼き用にと加工しておりました。

 加工といっても,ニンニクの茎を適宜な箇所で切り,表皮を1~3枚くらい剥ぎ取って根元を整える作業であり,ニンニクによっては早くも根が出始めていた。

 ところで,退職後の生活については人それぞれであり,

まだまだ元気だからとの理由で,収入は少なくとも社会に貢献している人も居れば,

毎日が日曜日だからと言って,ゲートボールに明け暮れている老人も見かけます。

 小生が住んでいる地域では,昔から農業を主体に生活をしていた家が多く,農業だけでは食べられない時代になってからは会社勤めをしながら片手間で稲作をしており,退職後は元の百姓に戻り細々と生活しているのが現状のようであります。

 そして,80歳を過ぎた老人が,若者のようにトラクターで田畑を耕し,田植え機に乗って田植えをし,コンバインで稲を収穫する姿を見ていたら,小生なぞ泥に塗れる日があっても,田畑があるだけ幸せなのかとも考えておりました。

 さて,先日の寝言に,人は人・自分は自分と書き,改めて己を戒めているので,このペースを崩すことなく,小生なりに煩悩と付き合いながらも淡々と生きてゆきたいと思ったところでもあります。

 

2013/12/24

   人生の儚さ

 今日の午後は久しぶりに畑の倉庫でのんびりしていた。

 倉庫二階には,ポカポカじゅうたんと炬燵が置いてあり,一階ではアウトドアー用の椅子を備えているが,本日は二階へ上がることなく一階の椅子に座り,窓ガラス越しに入ってくる太陽の温かみを感じながら,自分が座っている場所だけがオアシスのようでもあったので,その場所から離れがたくなり,頭の中を空っぽにしてゆったりした時間を過ごしていました。

 途中でウトウトしながら妄想と付き合っていたら,生前の父のことが脳裏に浮かび,

その父が天国へ旅立つ頃には梅の花が満開になっていたが,父から,「桜の花が咲き始める頃まで生きていたい」と聞いたのを思い出していた。

 そんな境遇を自分に置き換えてみて,我なぞは木枯らしの日に生まれたので,木枯らしの日に誰に知られることなく死んでゆく覚悟は出来ていると思ったが,

父においては実際に死期が近づくのが分かると,ふと涙ぐむ時があり,頑固一徹な人でも弱気になるものだと,人生の儚さのようなものを感じておりました。

 さてさて,今夜は冷凍のシューストリングを揚げた後に,アジとカキをフライにして,これを肴に日本酒を飲んでいる。

 小生は今のところ元気だが,突然に天からのお迎えがあっても,慌てることなく運命に従いたいとは思っている。