ビール瓶の栓を、栓抜きで三回叩くのは、母さんの妙なクセだった。そうして栓を抜くと、シュンと気持ちのいい音がして、白いもやが僅かに立ち上った。母さんはビール瓶を傾け、カンちゃんのコップにビールを注いだ。そのみずみずしい音。すき焼きの鍋が煮える音の中でも、澄んで聞こえた。ぼくには出せない、大人の音だと、思った。
 「朝からビールのことばかり考えてたのよ。今日、暑かったから」
 そう言って、母さんは自らのコップに手酌でビールを注いだ。母さんは泡なしのビールが好きで、慎重に、泡が立たないようにそろそろと、注いだ。そして乾杯もせず、カンちゃんと母さんはビールを飲み始めた。カンちゃんはビールをひと口含むとグラスを置いたが、母さんはひと息でグラスの半分以上を飲んでしまった。そして目を瞑り、長くて細い吐息を漏らした。
 「どうしたの。早く食べなさい」
 ぼくの視線に気づいたのか、母さんはぼくを見返し、言った。さっきのお菓子だったり、夕飯だったり、大人はすぐに子供を急かす。ぼくは箸で牛肉をつまみ、卵にひたして、頬張った。母さんはぼくのそんな様子を、頬杖をついてずっと見ていた。
 カンちゃんとぼくは黙々とすき焼きを食べ続け、母さんはビールばかりを飲み続けた。たまに、思い出したように漬物なんかをつまんだ。すき焼きの湯気で、仏壇に供えられた父さんの遺影が霞んで見えた。


 夕飯を食べ終えると、ぼくはひとりで離れに行った。離れは二階建てで、母さんが父さんと結婚したての頃、二人で住んでいたそうだ。入口ドアに入ってすぐ左側に、コンロが二つと小さな流しがある台所。その隣が和式のトイレ。お風呂は母屋にあるから、離れにはない。誰もいないのだから、気にする必要などないのに、ぼくは足音を忍ばせて、階段を上って二階へ行った。二階には、父さんが子供時代に使った子供部屋がある。引き戸になっていて、立て付けが悪く、なかなか引けない。騒々しい音を立てて戸を開け切ると、ぬるい闇が毛穴という毛穴から、ぼくの中に入ってくるようだった。