ずいぶん長いことブログを書くのをさぼってしまった。
なにをしていたかというと、漫画『風雲児たち』を読んでいたのであった。
歴史漫画『風雲児たち』は、関ケ原から幕末を描く長大なドラマ。ドラマというよりクロニクルとも言うべきもので、第一巻の表紙には坂本龍馬が描かれているのに、関ケ原からスタートし、その後延々と、大黒屋光太夫、平賀源内、最上徳内等々、江戸時代を駆け抜けた奇抜な風雲児たちのドラマが展開する。読みはじめて気が付いたのだが、この漫画、いまだ完結していないのだ。次巻で寺田屋事件というから、幕末はこれから・・・

全20巻、風雲児たち幕末編28巻、全部買った・・・。で、蘭学を学ぶ人たちが夜も寝ずに本を読み、書き写すのに感動して自分も夜寝ずに読み通し、何年かぶりかで風邪をひいてしまった。幕末の勉強家の志士たちはみんな若かったということをうっかり忘れていた。
この漫画にはかずかずの名言があるのだが、いちばん好きなのが、2巻にある。
将軍秀忠の子(のちの保科正之)を宿した娘に、浪人の父親、神尾某が言う言葉。
「お父さま。さだめとは、いったい何でございましょう」
「運命(さだめ)とは、生命(いのち)を運ぶことじゃ。それのわからぬやつが、『生命(いのち)を運ばれる』と読んでしまう」
「運命(さだめ)とは、決してよそからくるものではないぞ。わかっていようがいまいが、自分できめて、自分できりひらいてゆくものだ」
「命を精いっぱい使ってゆけ。それを『使命』というのだ」
「風雲児たち」のテーマといってもいいような言葉かもと今書き写していて思った。
このお父ちゃん、娘の静が去ったあと、ひとり、寂しさを振り払うようにお膳に座ってガツガツとめしを食う。このシーンもとても好きだ。この漫画には、全編を通じてお膳に座ってご飯を食べるシーンがたくさん出てくる。登場人物のほとんどが武士だからか、皆、どんなに貧しくともお膳を前にしてきちんと座り、食事をする。どんな不運な境遇にあろうと、どんな粗末なご飯しか用意できなくとも、きちんと食事をする。そんなシーンが、とても武士らしい。ありがたく米や魚をいただくという行為を通して、日常生活の武士の作法の中に、農耕や自然への謙虚な気持ちが宿っているのも感じる。
昔、だれかのエッセイで読んだのだが(村上春樹さんのエッセイだったかも)、志村喬さんの祖父は土佐藩士で、子どものころから武士として厳しくしつけられたため、好物のちらし寿司も、わざわざネタを別にして食べていた・・・のだそうだ。つまり、ご飯とネタをごっちゃにして混ぜて食べるなど武士としてはやってはいかん、と躾けられていたので、大人になっても混ぜて食べられなかったのだそう。
食べ物に対するそうした気持ちを、現代の我々はもう少し思い出すべきだと思うのだ。と、『風雲児たち』を読みながら、志村喬さんのことも思い出したりする。(今調べたら、志村喬さんのお祖父さんは山内容堂のもとに仕え、隊長として鳥羽伏見の戦いにも参戦していたそうだ)
とか言いながら、単純に、漫画の中の食事をするシーンに生活感を感じて、日ごろおかあちゃん業をやっている自分にとってはうれしいだけなのかもしれないケド。