『帰ってきた橋本治展』で雑巾を見た | Minahei

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ライター戸塚美奈のブログです。

橋本治展に行ってきた。4月のこと。

仕事があれこれあったけれど、この日は休み!と決めて、がんばって行った。

神奈川近代文学館というところで開催されていて、元町駅から港の見える丘公園の山を越えていかなければならない。いったいなんで横浜なんだ。横浜っておハイソで、なんか植民地的な街の雰囲気がどうも苦手で。『桃尻娘』の舞台が横浜だったことにちなみ、遺稿など資料が神奈川近代美術館に寄贈されたから、なんだそうだ。西武池袋店とかでやってほしかった。そっちのほうが橋本治らしいと思うのだが、違うか。お客さんだっていっぱい来そうなのに…。

 

橋本治は、私の大学時代のアイドルだった。そうくるか、という縦横無尽な論理展開、たたみかけるような文体でコラムを次々に書いていて、『桃尻娘』よりも、私はそれらのファンだった。明らかに区分としては当時はやりの「サブカルチャー」なのだけれど、古典や歴史に造詣の深い橋本治さんならではの自信にみちた書きっぷり、そこに漂う格調高さ(意味はあまりわからなくても)は他の書き手とは一線を画していて、そこに惹かれていた。なにしろ東大だし。そして、文献引用などで権威的にものを言うのではなく、単なる批判でもなく、作品を読み込むなどして独自にデータ化し、徹底的に分析しているところがおもしろかった。初期のコラム群は繰り返し読んだが、書いた作品そのものというより、若い私は、「こういうものを書きたい!」と、その物書きとしてのやり方に憧れていたのかもしれない。

 

橋本治展に行くついでに、殆ど読んでいなかった晩年の新書など何冊か読んでみた。

 

長いこと体を悪くされていたのは知っていたが……。『いつまでも若いと思うなよ』(新潮新書)を読んで悲しくなった。 バブル崩壊の直前にマンションを買って、原稿料を前借りしてのローン地獄。マンションの管理組合の理事長を引き受け、やっかいな裁判に巻き込まれ、そして病気になってしまう。ローンを返すために、自転車操業さながら、書いて書いて書き続ける。そして、借金を完済してすぐ、亡くなってしまった。

 

病気は免疫系の難病だ。あれほど知性のある人が、病院では医師の指示におとなしく従うのが解せなかった。一時は整形外科と美容整形の区別が付いていなかったと言うし。投薬のせいで病状を悪化させてしまったのではないかと悔しい。

 

橋本治という作家は、バブルという経済的に豊かな背景があったから、もてはやされた面があると思う。『広告批評』などの媒体で活躍されていた。資本主義経済主義の恩恵を受けながら、時流に乗って著作を出し続けていたわけで。そんな中で、91年から『貧乏は正しい!』の連載コラム等では世の中の経済一辺倒の流れに違和感を示す。そもそも、浮かれたような中で、何か芯の通った、どこか「昭和」な気風が、一環して橋本治作品にはあった。実家がサラリーマン家庭ではなかったこと、私立育ちでも推薦でもなく、都立高校から一浪して東大に入ったという経歴が影響しているのではないかと思う。親が学者だったり、付属育ちだったらそうはならない。バブル経済の波にのっているようで、ぜんぜんのっていないのが橋本治さんだった。それでもやはり後期の古典ものなどは、バブルの名残の編集者の道楽として成り立っているように思えた。そしてバブル崩壊でかかえこんでしまった借金。それで自分はもうひたすら書くしかなくなったということを、まるで実験でもしているかのようにおもしろがって書いているけれど。……橋本治さんはバブルのゾンビに殺されてしまったように思えてしかたない。

 

あれだけの作家なら、もっと別にラクにお金を作る方法はあったろうと思う。○○大学の講師でも教授でもなれただろうし、カタログ通販?などのCMで収入を得ることだってできたろうし。今は著名人ならネットやYouTubeでけっこうなかせぎになる。でも、そういうことは一切せず、ただただ、物書きとして書いて書いて書きまくった。江戸の戯作者のように職人的に。

 

『いつまでも若いと思うなよ』の巻頭に、江戸時代の戯作者たちの話が出てくる。「『とんでもなくエネルギッシュなジーさんだな』と思って憧れた」(『いつまでも若いと思うなよ』)

橋本治が卒論にも書いた鶴屋南北は、歌舞伎作者として確立できたのは50歳、そこから75歳で死ぬまで休みなく書き続け、年齢を重ねるほど作品が長大になってくる。

滝沢馬琴は下駄屋の入り婿になったけど文筆業をあきらめられず、「読本」というジャンルを発見して、38歳で戯作者となる。完結まで28年かかる大長編『南総里見八犬伝』の刊行を開始したのは48歳。完結したのは78歳。

老いるほど大作に挑み続ける江戸時代の文豪のように、橋本治自身も、ひたすら長い作品を書き続けた。

そして、原稿料だけで、莫大な借金を返しきった。

 

橋本治が残したものとはなんだろう? 

いろいろあるけれど、ひとつは、

文章を書くことは、手を使ってなにかを作り出すことにほかならない、という思想ではないかと思ったりする。

 

「私にとって仕事というのは、『手でなにかを作り出すこと』なので、パソコンを使ってデータのやり取りをするのが当たり前の時代になっても、原稿用紙を万年筆の文字で埋めるというアナログでアナクロな作業をしている。書き上がった紙の束を見ないと、「仕事をした」という実感が湧かないのだから仕方ない。」(『いつまでも若いと思うなよ』)

 

女性誌のインタビューで、手書きで原稿を書くため(紙というものは実に皮膚を傷つけるものなのだ)、手が絆創膏だらけだった写真を見たことがある。それは、まるで職工の手だった。

 

橋本治展では、『桃尻語訳 枕草子』他の古典モノを書いたとき、手作りの辞書用とするため、京大式カードに書かれた膨大な古語と現代語のカードや『双調 平家物語』執筆のときの壮大な年表など手作りの資料がたくさん展示されていた。それらを見ることができてよかった。積み上がった原稿用紙の束は紙ではなくて墓石のようだった。

 

亡くなる直前の2018年12月、野間文学賞の贈呈式でのスピーチ原稿には、出版社からお祝いの品は何がよいでしょうかと聞かれ、なにもほしいものがない、「もらえるのなら、原稿用紙かな」と助手につぶやいたというエピソードが書かれている。

「真っ新(まっさら)な原稿用紙を五百枚買うと幸福になる人間」で、「その原稿用紙が文字で埋められて終わると」「『ああ、終わった』の一言が幸福をもたらしてくれる」そして、「自分の目の前に原稿用紙が見えたら、成り行きでその上を一歩一歩歩いて行こうと思います。」と。(『追悼総特集橋本治』KAWADE ムック 河出書房新社)

 

作家の名入り原稿用紙ではない。

そのつど束の紙を「買って」新作にとりかかっていたのだ。

 

『そして、みんなバカになった』(河出新書)の中に、「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」を書くために本を読んでいたときに、雑巾を縫いながら読んでいた、と書いてあった。何千ページと読む間、雑巾を5枚縫ったと。

「着古したTシャツは全部、雑巾に仕立て直すんです。その作業が溜まっていて、ああ、いい機会だからと思って。」(『そして、みんなバカになった』)

 

セーターを編む人であることは有名で、それも『完本チャンバラ時代劇講座』を書くために編み物をしながらビデオを観たからというのは知っていたけど、編みながら本も読むとは。まして本を読みながら縫い物をするとは……。凡人にはできない技である(ただし、小林秀雄を読みながらは無理と書いてあった)。評論家や学者などは写真記憶方式というかぱっと見て速読する能力が高い人が多い。橋本治さんはそれをしなかった。すべての文字を丹念に読んでいたのだ。

それにしてもいったいどんな雑巾を?とかなり気になっていた。

 

橋本治展には、その手作りの雑巾が2点、展示されていた。

それは、たしかにTシャツ生地に見えた。

刺し子模様を施した、手の込んだ雑巾だった。

 

野間文学賞のスピーチ原稿には、「次に書く小説のタイトルは『正義の旗』です」とあった。

どんな小説だったんだろう?

展示されていた刺し子の雑巾が、橋本治の「正義の旗」に思えて、なんだか頭から離れない。

 

 

 

※『帰ってきた橋本治展』は一昨日で終了したようです。もっと早く書けばよかった、スミマセン。