「今日はご苦労さん」
店長は上機嫌で生ビールの入ったジョッキを掲げた。
「乾杯っ」
理香がわたしのジョッキにカチンっと合わせてきた。
わたしも、渋々、ジョッキを持ち上げ、形ばかりの乾杯をした。
店長はジョッキに並々と注がれた生ビールを、ごくごくと一気に飲み干した。
「ぷはぁっ。うめえっ」
わたしは、呆気にとられていた。理香もそんな店長の飲みっぷりを横目で怪訝そうに見ている。
「いやぁ。実はね、本日の売上げは、俺が店長になってからで言うとさ、最高だったんだよ。今もオーナーから電話でお褒めの言葉をいただいたところなのさ。それで、俺としては、凄くうれしいわけ。やっぱりminaの入店が大きかったかな」
そう言われると、わたしとしても悪い気持ちはしなかった。だが、心配なのは理香のことである。案の定、店長のうれしそうな顔とは対照的にぶすっと不機嫌な表情をしている。
「minaの顔が売れてきたから、これからは、俺の店も理香とminaの2枚看板でいけるわけだ。他店が羨ましがるようなスタッフが揃ったよ」
「ふん」
店長のねぎらいの言葉も、今の理香には無駄なようだ。なかなか機嫌は直りそうもない。
「さあ、本日のお給料。minaは前借分を差し引いても3万円もある。理香は7万円。受け取ってくれ。ここに領収のサインをしてくれ」
わたしは、どきどきしながらそのお金を受け取った。前借分の天引きが5万円もあるのに、3万円も貰えるなんて。お給料の前借分も随分と返済がすすんだ。完済まで、もう少しのはずだった。ちらっと理香を見ると、彼女もさすがに嬉しそうにしている。
「こんなに多いのは、あたいも初めてだね。まあ、個室プレイまで行ったのが5本もあったからね。いつも倍だから、このくらいにはなるかなとは思っていたけれどさ」
実は、わたしのお財布は、お給料とは別のお金で3万円増えている。客からチップとして貰ったものだ。3人目の客から強く頼まれて、とうとう拒みきれずにセックスさせてしまった、その見返りだった。その客がわたしのタイプだったこともセックスを許したことの理由のひとつではあるが、最大の理由は、お金に目が眩んだのだ。だって、その時、わたしの財布には千円札1枚しか入っていなかった。これでは、帰りのタクシー代すらない。その惨めな事実と、客の財布の中の厚い札束との格差が、わたしのプライドをズタズタに引き裂いていた。そのうえ、慣れない男たちへの性的な奉仕で手や口が感覚がなくなるほど疲れていたのだ。
「どうせ、わたしなんか」という自暴自棄な気持ちが、転落に拍車をかけた。
わたしは、客が差し出した3枚の1万円札を握り締めてしまった。
後は、その男の言いなりだった。
シャワーを浴び、ベッドの上に横たわった客の横ににじり寄ると、請われるままに男のものを口に含んだ。手で扱きながら舌を絡めていると、じきに男のものは固く反り返った。
「さあ、上に跨って」
わたしは催眠術をかけられたように、ふらふらと男のものの上に腰を沈めていった。
何も感じなかったと言ったら、嘘になる。経験はないけれど、多分、バンジージャンプをしたら、こんな感じがするのではないだろうか。頭の中が真っ白になって、今まで自分のいた世界から別世界へ突き抜けていくような、果てしない転落感があった。
もう後戻りできないのだ。そんな感慨が頭の中をよぎり、涙が溢れた。腰を上下させ、男のものを出し入れするたびに、「ああっ。ああっ」と声が出た。
その客は、帰る間際に言った。
「とても良かった。また、来るよ。そうしたら、その次は、外でデートしないか」
外で会う?
そんなこと、考えられない。わたし、娼婦じゃない。
その記憶を振り払うように、わたしは頭を振った。
股間には、まだあの男の余韻が残っている。
「どうしたんだい。さっきから、ぼーっとして」
店長と理香が心配そうに、わたしの顔を覗き込んでいる。
「あっ。いえ、ちょっと考え事をしていたものだから・・・」
携帯の呼び出し音がなった。
「おっ、俺だ。」
店長が携帯を取り出した。
「あっ。また、オーナーからだ。ちょっと失礼するよ」
店長は席を外した。
店長がいなくなると、理香が話しかけてきた。
「ねえ、mina。あんた、ホント凄いね。あたいの負けだよ。今日は、あんた目当ての客が多かった。あんたの指名だったのを、あんたが空いてなくて、あたいに流れてきたのがほとんどだったからね」
「へえぇ。そうなんですか」
「ああ。それも、金離れのいい客ばかりだった。1万円出すから、本番させてくれって言う客ばかりだったから、いい小遣い稼ぎができたよ。いつもは、5千円とか只とか、そんなミミッチイ客ばかりなのにさ。なかには、2万円も呉れた客もいたんだ。おっと、売りの話は、店長には内緒だよ」
理香の売りの話に、わたしは白けていた。そのことは、ボーイのトシや店長も知っている公然の秘密だったからだ。それにしても、理香は、個室プレーの客全員とセックスしたのだろうか。わたしには考えられないことだ。だが、そう言うわたしも一人の客とセックスしてしまった。彼女のことを非難する資格はない。
「いやあ、ごめん。」
店長が戻ってきた。
「オーナーがね、これからminaと会いたいと言っているんだ。いいだろう?」
「ええっ? オーナーが・・・?」
わたしがびっくりするのは当然として、理香まで意外だという表情をした。
「わたしなんか、もう1年も働いているのに、オーナーとは一度も会ったことがないよ」
「俺も驚いているんだ。どういう風の吹き回しだろうってね。まあ、それまでは、好きなものを頼んで食べてくれ。全部、俺の奢りだから」
「それじゃ、遠慮なく肉料理でもゴチになりますかね」
理香がメニューを開いた。
わたしは、何となく厭な予感がした。
もう夜中の3時を回っていた。会社に出勤するつもりなら、早く帰って少しでも寝ておかないと、仕事に差し支える。予想を遥かに上回って、肉体的にも精神的にも疲れていた。この上に、昼間の仕事をこなすことなんて、どう考えてもできそうもなかった。
昼間の仕事、休もうかしら・・・。
でも、そんなことをしたら、わたし、本当に風俗で生きていくしかなくなる。
ああ、どうしよう。
悲観的な考えばかりが、頭の中に浮かんでは消える。
つまらないことを考えていないで、少しでも体力をつけるために食べなきゃ・・・。
わたしは、何も考えないようにして、目の前の料理に突進した。
・・・・・・
たらふく食べて、お腹が一杯になって、これ以上はもう入らないという頃になって、オーナーがやって来た。
「やあ、やってるな」
オーナーは想像していたよりも若く、30代半ばに見えた。店長がジャニーズ系の男前だから、オーナーもそれなりのイケメンかと思っていたが、がっかりするほど冴えない風貌だった。頭はボサボサだし、わたしにとって減点なのは、髭を生やしていることだ。わたしは、この髭というものを生理的に受け付けることができない。
しかし、オーナーに気に入られるかそうでないかは、今後の仕事を続けていく上で、大きな差となってくるだろう。嫌悪感を押し殺して、上手に応対しなければならない。
それにしても、何と言う威圧感だろう。店長がビビッている。
ヤクザではないにしても、夜の世界で成功している男だから、堅気ではないだろうし、わたしなどが足を踏み入れるのは、やはり間違っていたのだ。
「君がminaさんかい?」
オーナーは、店長の隣、わたしの前の席に座った。
「は、はい」
わたしは緊張して、舌がもつれた。
「うん。電話で報告を受けたとおりの別嬪さんだね。あんたみたいな普通の子がこの世界に来るとすれば、理由は借金、それとも男か?」
オーナーは、いきなり核心を突いてきた。わたしは、びっくりするとともに、どうせ判ることだからと、理香の方をちらっと見て、ありのまま答えた。
「・・・・・・。借金です。OLのお給料では返済できなくなってしまって」
「男はいないんだな」
「はい? 付き合っている人はいません」
どうしてこんなことを訊いてくるんだろう。わたしはオーナーの質問の意味が理解できなかった。
「まあ、そうだろうね。恋人がいたら、風俗にいきなりはやってこない」
「・・・・・・」
わたしは、オーナーの真意を測りかねて、黙っていた。
「俺の知り合いがね、今日、minaを指名したらしい」
オーナーは店員が持ってきたジョッキを受け取ると、一気に半分くらい飲んだ。
「ああ、よく冷えていて美味いな」
「わたしを指名?」
「ああ。そうだ。10時前くらいだったそうだ」
わたしの鼓動は、早鐘のように高鳴った。
あああ、ひょっとして、あの3番目のお客さん。まさかオーナーの知り合いだなんて。わたしがセックスをしたことをオーナーに言いつけたのかしら。どうしよう。
「とても君のことを気に入ってね。この俺に何とかしろと言ってきた」
「・・・・・・」
わたしには、何のことだか判らなかった。理香はジョッキを口につけたまま、驚いたように目を大きく見開いている。
「つまり、君の面倒をみたいと言ってきているんだ」
それって、つまり、わたしを愛人にしたいっていうこと?
わたし、普通のOLなのよ。愛人だなんて! 馬鹿にしないでっ。
そう口に出そうになった。でも、もはや普通のOLとは口が裂けても言えなかった。しかも、初対面のその男と、お金を貰ってセックスまでしてしまった。
わたしは、うな垂れてしまった。
「もちろん、俺には、君を手放す気持ちはない。君には、バンスもあるそうだしね。奴がそれを肩代わりすると言ってきても、拒絶するつもりだ」
「バンスって何ですか?」
わたしは訊きなれない言葉が出てきたので、つい質問してしまった。
わたし以外の3人は、顔を見合わせている。
「あのね、mina。バンスっていうのは、お給料の前借のことだよ。あんた、ホントに何にも知らないんだから」
気を取り直した理香が、わたしに教えてくれた。
「minaさんは、業界デビューしたばかりで日が浅いからね」
店長が理香の言葉を補足するように言った。
「そういう素人っぽいところが、奴の心を捉えたわけか。奴は、当面、上得意になるだろうな。俺の知り合いでもあるし、VIP扱いで多少の無理は訊いてやってくれ。ああ、そうだ。明日は土曜日だよな。これ」
オーナーは、わたしに封筒を手渡した。
「奴からだ。土曜日の10時に、奴が迎えに来る。1日、デートしてやってくれ。店は休んでもいい。公休扱いにしてやる」
わたしは、震える手で封筒の中身を見た。1万円札が少なくとも10枚は入っている。
「オーナー、土曜日の夜に公休扱いですか。それはあんまりじゃ・・・・・・」
オーナーは、にやりと笑って言った。
「奴は、俺に100万も支払ったんだ。minaの1日5万の給料くらい安いもんだ。それに、minaを身請けでもされてみろ。元も子もないじゃないか。奴は金を持っているからな。1千万くらいはすぐに用意するだろうよ。奴の気持ちが、minaを見て、俺にも理解できた」
100万という金額を訊いた理香が、ヒューと口を鳴らした。
「多分、今夜も奴は、minaを指名して来るだろうから、せいぜいサービスしてやれ。最初みたいにな」
やっぱりオーナーは全部知っている。わたしは絶望に打ちひしがれ、暗澹たる気持ちで心が塞がれてしまった。土曜日は、1日中、娼婦みたいにこの身体を彼に捧げろと言うのね。いや、違うわ。娼婦みたいにではなくて、わたしはもう娼婦なんだわ・・・・・・。
(続く)


☆ランキングに参加しています。

気に入ったら、プチッと押してね、お願い → 

こちらもお願いね →