元日の初詣は近所の氏神様をお参りし、2日は妻恋神社をお参りしました。
 
近くの神田明神は、参拝待ちの行列が大変なことになっていたので諦めました。
 
妻恋神社は裏路地に鎮座し、小じんまりしていて、待ち時間なくスムーズに参拝できました。
 
普段社務所は無人のため、御朱印をいただけるのは三が日だけとか。
 
貴重な御朱印もすんなりいただけました。



とても由緒のある神社なのに、規模が小さいせいか、参拝者が少なくて穴場です。
 
マンションに囲まれた小さな神社ですが、趣があって厳かな空気を感じて浄化できました☆
 
由緒については妻恋神社HPより。
 
【妻恋神社の話】

日本武尊は、「古事記」や「日本書紀」に登場。父王である景行天皇より命ぜられ、体格もよく武力に優れていた日本武尊は、日本(まだ日本とは呼んでいなかったが)の全国統一を目指して、西や東を平定していった。

東方十二道の荒ぶる神や賊の平定のため東へと旅だち、東京湾を走水の渡り(現横須賀市)から千葉に向けて船で渡る時、途中暴風雨に遭い、船はもてあそばれ沈みそうになった。
同行の妃・弟橘媛命が「夫の身代わりとして海に入り、海の神の心を鎮めましょう」と言って、「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」(焼津で自分を守ってくれた尊への思いが込められている)と歌を詠んで海に身を投じた。
海は鎮まり、尊は房総に上陸ができ、東国を平定し、大いに勲功をあげることができた。

帰路、上総の国碓日嶺に登り東南の方を望み「吾妻者耶・・・・・」と恋い慕いたもうたとの意を取って「妻恋明神」と号した。
当神社はその時の行宮(野営陣地)の跡と言われてる。
「あづまはや」から関東のことを「あづま・あずま」というようになったとも。

また、「ユシマ」は「聖なる水際の地」という意味があるともいわれ、この地は早くから開かれ、低地では稲作が行われており、そこで、五穀の神の稲荷が祭られ、妻恋稲荷となった。
倉稲魂命は別名は御食津神で三狐神に通じキツネに結びつく。

戦災で失われていた鈴も昭和52年に戻り、また江戸時代に使われていた縁起物の版木も偶然に見つかり、頒布が一時期再開された。
平成23年東日本大震災に伴う本殿屋根崩壊では多大なる奉賛により修復を完了、復興祈願の気運により平成25年に奉納された日本画を元に授与品「吉夢(よいゆめ)」頒布の運びとなった。
 
【祭神(三柱)】
 
倉稲魂命
(うかのみたまのみこと)
稲の神(女神)。稲荷←稲生。
「うか」は古語で「食」の意味(「うが」の読みもあり)
日本武尊
(やまとたけるのみこと)
第12代景行天皇の第二皇子、第14代仲哀天皇の父
神格:武神、軍神、国土神(農業神)
弟橘媛命
(おとたちばなひめ)
日本武尊の御妃


【妻恋神社年表】
 
4世紀頃 (伝承)神社発祥。
第52代嵯峨天皇(809-823)の勅命により関東惣社に列し正一位を賜り、関東総司妻戀大明神と唱える。
社地は妻恋台(現湯島天満宮南東の台地)
天正年間 (1573-92)徳川家康二町四方の社地を寄進
明暦 3年 (1657)振袖火事
萬治 3年 (1660)現在地(東京都文京区湯島 3-2-6)に中興遷座
大正12年 (1923)関東大震災にて類焼
昭和16年 (1941)復旧(太平洋戦争が始まる)
昭和20年 (1945)東京大空襲にて類焼(一時同朋町に遷座)
昭和29年 (1954)氏子有志の熱意により復旧
昭和46年 (1971)大蔵省より土地〔壱百壱拾参坪〕払い下げ。
同朋町会・妻恋会の氏子の資金喜捨による。
平成21年 (2009)妻恋神社電子版を氏子有志により開設。
平成23年 (2011)東日本大震災により本殿屋根の崩壊。
多大なる奉賛により同年復旧。
平成25年 (2013)復興発展祈願「吉夢(よいゆめ)」と絵馬(吾妻はや)を
頒布開始。
平成26年 (2014)
復刻「七福神宝船」の頒布開始。