約1年前におじいちゃんが死んだ。
私の人生の記憶があるうちで身近な人が居なくなったのは初めてのことだった。
初めてのお葬式で私は泣いた。大泣きだった。
けどそれは悲しい気持ちじゃなかった。
おじいちゃんのお葬式には大量のお花が大勢から送られた。たくさんの人が参列してくれた。
おじいちゃんは趣味が多い。剣道を人生の中心にして
陶芸、釣り、畑、養蜂…だから自然の遊びはおじいちゃんから全部学んだ。
剣道は私も幼稚園からやっていたので久しぶりの顔見知り達がみんな来てくれた。
『お世話になったから』『先生』
そう言って棺桶に手を合わせに来てくれる人達。
棺桶の中のおじいちゃんに向かって涙を流しながら話しかける人。陽気に話しかける人。深々とお辞儀をする人。
みんなおじいちゃんのために来てくれた人たち。
そんなに大勢の人達がきてくれる事が、嬉しかった。
おじいちゃんが生前どんな人だったのかが顕著に表されていてとても誇らしくて、嬉しかった。
だから私は嬉し涙を流し続けた。
「うれしい」「うれしい」と姉と涙を流す姿は異様ではあったと思う。けれどお葬式では悲しいよりも"嬉しい"感情がとても大きかった。
それから少しして遺品整理をしているとおじいちゃんの携帯が出てきた。
カメラロールの最新は2年2か月前に倒れたあの日に
預けていたうちの犬の写真だった。
おばあちゃんと一緒にいっぱいいっぱい撮っていた。
当時私は旅行に行っていてうちの犬を預けていた。
そういえば旅行中おじいちゃんからLINEが『マロが爺のベッドを占領』と写真と共に来ていた。
その時の写真もあった。送ってきた写真の他にもいっぱい撮っていた。
私とのLINEを遡ると私が犬を飼い始めた時もLINEが来ていて、『愛犬の名前なんて?早ようみたいなー。』って。それから少しして『またマロ連れてきてや』とうちの犬の事が大好きだった。
連れていくとニコニコしてずっと見ていた。かわいいかわいいと言ってくれた。
預けたあの日、おじいちゃんは脳梗塞で倒れて病院に搬送された。
それからおじいちゃんは話せなくなって立てなくなって
その日の事は全く聞けないままだったけど
携帯にはおじいちゃんの目線がそのまま残っていた。
大好きだったうちの犬の事も覚えているか曖昧だった。
そして施設に入ってからは一度もうちの犬を会わせてあげられなかった。
もうすぐ一回忌
今日の今日まで居なくなった実感がなくて
まだ家に行けば会える気がしてた。
棺桶の中に居る顔、火葬場で骨になった体を見ても
実感が湧かなくて いなくなったって思ってなかった。
正式には亡くなったことは理解していたけど、魂が消えてなくなるわけではないから…って思ってそばにいてくれている気がしていた。
昨日 まだ元気な頃のおじいちゃんの写真が携帯のアルバムから出てきた。
懐かしくなって また笑ってる顔が見たくなった。
見たくなったらもう見れない現実が一緒に実感として
襲ってきた。
夜中の1時
はじめておじいちゃんがいなくなって
もうそこにはいないって事に涙を流した。
寂しくて 会いたくて 悲しくて 顔を見たくて 泣いた。
お葬式の時の涙とは全く違う 私とおじいちゃんの間に
大きな空間があることに対しての涙を流した。
何度も何度も先人が言い続けている事だけど
周りの存在は会える時に、話せる時にいっぱい話していっぱい想いを伝えなければいけないと改めて実感した。
分かっていても分かっているだけな事が人は多い。
私もそのひとりだった。
もう会えないけど もう一度会いたい。