うち劇 サイレントヴォイス
(内容に触れています)
作品への考察
マチネを観ているとき
"きれいごとだな"
と感じた
実際のあの犯人は
反省することも謝罪することもなかった
それなのに、佐久田は
謝罪こそしなかったが、
平と会って明らかに変わっていった
性善説?いやいやそんなの理想論でしょ
ソワレまでの間、
なぜ西森さんはこれを創ったのかと考え、
調べたところ、同じテーマの舞台「大悲」
を世に送り出していることがわかった
いや、確かに風化させてはいけない重大な
事件だけど・・・
この犯人に人間性なんてないでしょ
いくら諭したって無駄じゃない?
ソワレ
マチネは途中から斜めに観てしまっていたから
まっすぐ観てみるか・・・
佐久田のこころは確かにことばにならない
声を発している
佐久田は唯一自分を可愛がってくれた祖母に
似ている平に救いを求めている
平のことば(想い)は佐久田のこころに
届きかけている、届いたようにみえた
しかし佐久田冬馬という人格はもう、こころ
とは切り離されて存在してしまっていて
それを覆すことも否定することもできずに
もがき苦しんでいる
そんな風にみえた
最終弁論で平が
前頭葉に気質的な原因がないのなら
彼は最初から殺人鬼だったわけではない
と言った件で気づいた
ああ、あの犯人と、この佐久田は違うんだ
あの犯人がどうであったかは別として
少なくともサイレントヴォイスの佐久田は、
その人生において、何かが違っていたら
事件を起こさなかったのかもしれない
家庭が家族が、学校が友達が、
会社の上司が同僚が、ひいてはこの社会が、
何か違っていたら、このモンスターは
生まれなかったのかもしれない
私たちだれもがその責任を負っているんだ
というメッセージなのではないか・・・
では
被害者、遺族の立場ではどうか
犯人がもし、こころからの謝罪と反省の
気持ちを持ったら、極刑はまさに
「自らの命をもって償う」ことになる
犯人が非を認めなかったら
劇中で佐久田が言っているように
被害者は犯人の望みを叶えるための生贄
になってしまう
さらに、もし犯人が生まれながらの殺人鬼
だとしたら、襲われたのは運が悪かっただけ
誰でもいつでも同じ確率で被害者が出続ける
一方で社会が、誰かが犯人になるのを抑止
できるなら、次の被害者は出ないかもしれない
犯人のこころに声なき声があることが
多くの被害者や遺族の救いにもつながるの
ではないか
あれ?これらすべて
平が、佐久田が語ってるじゃん 💦
短い時間の朗読劇という縛りのなかで
伝わりやすいようになってるんだ
この話は
救済と願いの物語なんだと実感した
もちろん、謝罪なんて受け入れたくもない
さっさと死んでくれと思うひとも
やっぱりきれいごと、理想論だと
感じるひともいるだろう
それでもこれを伝えることは必要なんだ
「大悲」は菩薩の慈悲のこころ
すべての苦しみを癒す大いなる愛
平と出会い、平の背中をみて変わった優
父親も平のような人だったとわかって
この家族もまた救われている
そういえば、西森さんの作品には共通して
慈愛が感じられる
西森さんだから、モリミュのあのウィリアム
が生まれたんだ
サイレントヴォイス
高校の倫理の時間とかで教材に使えるん
じゃない?
最後に
このような考察を得られたのは、作者である
西森さんはもちろん、その意図を的確に表現
した演者三名の力が大きい。
この作品に触れ、人とのかかわりを今まで
以上に大切にしたいと思った