中高同じ友達が私のことをよく不憫と言って笑う。

自分で不憫だと思ったことはないが、いつもなにかと戦っている自覚はある。そして、その戦っている心情を誰かに話したいという思いがある。

 

ここには私が日々感じたことを記していこうと思う。きっと、誰の目にも止まることのないブログだと思うから、好きに書いていこうと思う。

 

まず、私の生い立ちから。

私は第一子として誕生した。この入りから、私の抱えるめんどくさい感情の原因が分かった人もいると思う。

母は、幼い私が他の同年代の子たちよりも少し出来がよかったことから、教育への熱が入り、私を小学校受験の塾に入れたり、英才教育として幼い頃から英語の家庭学習をしたりしていた。父はアウトドアが好きで、教育熱心とまではいかないが、怒るととても怖い父だ。

 

母の意向で物心ついた頃には、小学校受験、いわゆる「お受験」の幼児教室に通っていた。その教室では、礼儀を学んだり、簡単なパズルや、頭を鍛える体操などをおこなった。私は、元から目立ちたがり屋な性格もあったことから、誰よりもハキハキと話し、できたひとー?と聞かれると1番に手を挙げるような子どもだった。できるという優越感が好きだったこともあるが、1番は私ができることで母が嬉しそうで、私を褒めてくれることが嬉しかった。母はこの頃、私の出来がよかったことにより、他のお母さんたちからすこし妬まれて距離をとられていたようだ。模試で全国1位をとったのもこの頃だ。しかし、第一志望の結果は不合格だった。私の受験した学校は、テストのあと、合格者の保護者で抽選を行うという特殊な入試方法であり、私はその抽選で落選してしまったのだ。当時は、とても悲しくて、なんで私が地元の公立小学校に行かなくてはいけないんだ、と思っていた。この思いがのちの性格を形成することになる。

母は、自分のせいで不合格になってしまったことを悔やみ、幼い私に「この悔しさは中学受験で晴らそうね」と言っていた。母はもうこの頃には、完全なお受験ママになっていた。

 

小学生になり、私は地元の小学校に通い始めた。この時もずっと、「私は本来ここにいるべき人ではない。みんなとは違う。」という思いを持っていた。母は私を公立の中高一貫校に入れたかったようで、小学1年生のときから、内申点にこだわっていた。私は、母を喜ばせたい、母に認められたいという一心で生きていたので、とにかく頑張った。「代表」と名の付くものには全て立候補し、テストは必ず100点、授業中は常に挙手し、発言する、、、など。今考えると、私の今までの人生の中で1番プライドが高く、自信に満ち溢れていた時期だった。途中、顔が可愛い子が先生に優遇された‼️と悔しがったりすることもあったが、自分なりに全てのことに全力を注いでいた。親の意向で合計6〜7個の習い事を行い、友達と遊ぶ暇もなかった。

 

そして、小学3年生のとき、私にとって大きな出来事が2つ起こる。1つ目は私には3個下の妹がいるのだが、その妹が私が落ちた小学校に受かったのだ。妹は、簡単にいうと自由人である。小学校受験の勉強も、嫌だ嫌だと泣いたり、受験当日も気だるそうにしていた。私とは真逆である。そんな妹が私が落ちた学校に受かった。この事実に私は大きくショックを受ける。そして、絶対に中学受験で合格してやるという思いも芽生え始める。

 

妹の話がでたので、ここで妹との話をしようと思う。妹ができた頃、母は年齢的にもは母親歴的にもかなり精神的に不安定な時期だった。母の名誉のためにも、そのことを念頭において聞いてほしい。母は私に対して「お姉ちゃんなんだから」と何度も何度も言い聞かせ、私が失敗することを許さなかった。昔、家族でアンパンマンミュージアムに行ったのだがそこの飲食店で母が、赤ちゃんがえりしている私に向かって「うるさい!赤ちゃんなの?だからといってオムツは履かせないからね」と強めの口調で怒っているビデオが今でも残っている。この頃から、私は長女だからしっかりしなきゃという意識が強くなっていたように感じる。また、同時に常に母の顔色を伺うようにもなった。

しかし、妹とはほとんど喧嘩もしたことがないくらいには、とても仲がいい。大学生と高校生になった今でも2人でディズニーに行ったり、ライブに行ったり、とても仲がいい。

 

2つ目の出来事は、私に弟が生まれたことだ。母の精神的な不安的さは、子育てと出産のストレスからくるものもあったのだろう。弟が生まれたことで、我が家の雰囲気が大きく変化した。今までは妹が我が家の権力者であったのだが、一気に弟が王になった。私も妹も、弟ができたことで、かなり「姉」としての人格が形成されたと感じている。また、弟ができたことで、思春期になり家族での関わりが希薄になることがなく、「家族でなにかする」という機会が常に日常にある生活になった。

 

そして、小学校4年生。中学受験の本腰が入る時期。私は親が希望した公立中高一貫校ではなく、私立の中高一貫校に行きたいと思っていた。このことで何度も親と喧嘩したことを覚えている。小学生のころ、私は国会議員になりたいと思っていた。これは、私の目立ちたがりな性格から来たものであり、お恥ずかしながら国会議員の仕事内容は全く知らなかった。その夢の流れから、私は法学部に行きたいと考えており、法学部が有名な大学の附属中高を志望していた。しかし、この学校は私立中高一貫校の中でも比較的学費が高く、母親はとても渋っていた。この出来事がきっかけで私が金銭的な面で両親に対し、少し不快感を感じ始める。

 

結局、私立の第一志望は母がかつて自身が中学受験をしたときに第一志望にしていた中高に決めた。この学校は私立中高一貫の中では比較的学費が安く、また母のあこがれであったため選ばれた。

 

小学5年生からは中学受験塾に通い始め、本格的な受験生生活が始まった。先述した通り、母は弟が生まれてから金銭的に渋ることが増えていった。そのため、塾も最低限の科目数のみ契約し、合宿などは参加しなかった。結局、受験は大成功し、私の第一志望であった私立の中高一貫校に合格することとなった。(母が私に行ってほしいと考えていた公立の中高一貫校に関しては、受験当日に二日目のカレーを食べたことでお腹を壊し、試験中も腹痛に耐えていたことから、あっけなく不合格になってしまった笑)

 

そして、憧れの中高に入学するのだが、ここまで順風満帆な私の人生に大きな暗黒期が訪れる。(続く)

 

★余談★

先ほどから弟が生まれてから、母が金銭的に渋るようになった、とのことを書いたが、ここで言っておきたいのは、決して私の家は貧しいわけではないということだ。父の収入も、正直平均よりは上であると思う。そのため、弟が生まれる前は家族で旅行に行けばハンモック付きのホテルに泊まり、私も妹も習い事としてフィギュアスケートを習っていた。しかし、3人となると話は変わってくる。共働きが主流となっているこの時代に、母は働いていない。また、中学受験は弟が生まれる前に母が決めた方針であったため、今更船から降りることはできなかった。塾のお金、5個以上続けている習い事のお金、生活水準を下げられない子どもたちからのおねだり、決して余裕はなかったのだと思う。そこで母は公立の中高一貫校という選択肢を私に勧めていたのだ。しかし、小学生の私は、そんな家庭の状況を理解するにはまだ幼すぎた。私の心が幼かった。「なんで母が決めたことなのに、こっちが選択肢を狭まれなきゃいけないの」「3人育てるって決めたのは親なのになんでこっちが我慢しなきゃいけないの」こんな思いでいっぱいだった。今考えると、弟が生まれてきてくれたことは奇跡同然のことだし、私も弟が大好きだし、みんなで楽しく暮らしていけるよう、みんなで協力するという気持ちが必要であったのだと思う。そんな風に思えるようになった私は、母の元、しっかり身も心も成長できているのだと感じる。