退院した私は、ほんのしばらく実家に帰りました。
両親は定年後、東京の家を売り、母の実家近くに家を建て、隠居している。
なので、私の従姉妹がよく来ていて、今回もはちあった。
人工肛門閉鎖術後、夢に出てきた母の兄、の娘、45歳くらい。
夕食の後、のん兵衛一族は、宴会となった。
私は酔っ払って、その夢を話した。
「おじちゃんが人工肛門付けっぱなしで出て来たから、私まだ付いたままだと思ったんだ…」
従姉妹の顔色が変わった。
「えっ・・・!?」
両親がなんとなく、目を伏せた。
どうやら、言ってなかったらしい。
しょうがなく、私は大腸癌になった事を話した。従姉妹の父も大腸癌でだいぶ前に亡くなっている。
「遺伝らしいよ~~」
と笑顔を作ったのに、従姉妹は大泣きを始めた。
「だからって、なんで、ミラなんだいッ!!??」
彼女があんなに泣いたのを見たのは初めてだった。
私も、告知後1度だけ泣いたが、その夜、あれ以来初めて泣いた。
仕事に戻ると、やる事が累積していた。
会社の営業も、心から復帰を喜んでくれた。
Jは頑張ってくれていたが、なにぶん経験が浅いのに店長代理なんてのにさせられ、うまい事いってなかったらしい。
「ミラさんがいると、私売れるんです
」
売り上げも順調に復活した。
月イチで病院に行くのが楽しみだった。
経過は順調。
水状だった排泄物が、固形となって、出るべき所から出ることの嬉しさ。
感謝するべきだったが、私の胸は、ポカンと穴が開いたようだった。
あんなに苦労したのに、あんなに辛かったのに、もうこんな数ヶ月で、普通の人と変わらないものを求められる。
退院、回復を・・・
喜べない・・・
その頃、又私は大酒を飲むようになっていた。
旦那は、肛門が取れれば、私の全ては解決すると思っていたと思うので、同情から不信感に変わっていくのがわかった。
気持ちを打ち明けても、多分贅沢な、あるいは、甘えるな、
と思ったんだろう、あまり聞いてくれなくなっていった。
その頃、乳がんで亡くなった、絵門ゆう子さんの本に出会った。
「ガンと一緒にゆっくりと」
絵門さんの、ある文章を何度も何度も読んだ。
「退院して、不安なような気持ち。
病院では、ベルトコンベアに乗るみたいに、目の前の事を解決して行けばよかったのに」
同じだった!
旦那にも読ませようとしたが、
「ガンの本は、もう読むな」
と言って読んでくれない。
絵門さんは1ヶ月で立ち直れたと言うが、1ヶ月たっても私には無理だった。
(でも絵門さんも、きっと書き急いでいたような気がする)
心はポツンと残されたまま、荒波に放り出されて、自力で泳げって言うのだ。
「又、入院したい・・・」
体の回復に、心が付いていけなかった。
心の中にいつも、その言葉が鳴っていました。
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