11月13日。
推し・滝口幸広さんが亡くなって1年が経ちました。
と言っても、訃報を受けたのは15日の日付が変わった頃だったので、1年前の私はまだ、彼の身に何が起きているのかも知らずに、のんきに眠っていたかと思います。

1年は長かったようなあっという間だったような時間で、未だ彼が居なくなったことを受け止められているんだかいないんだかわからない状態です。
訃報のあった夜を境に自分の何もかもが変わってしまったようにも思うし、でも毎日健康に過ごして、嫌々ながらも労働して、休日は劇場に行って泣いたり笑ったりしていることを思えば、何も変わっていないような気もします。
それはもう、推し不幸なほどに変わらない日々。

この1年、私らしい弔い方ってなんだろう、ってずっと考えていて、やっぱり綴ることだろうか、と文章を書きだしては、一度も完走できずに、パソコンの前で固まってしまう、ということの繰り返しで。言葉にすればするほど上滑りして、ひねり出した言葉は真実ではないものになってしまっている気がして、書いては消して消しては書いての繰り返し。
毎日彼のことを(どうかしたら彼が居た頃より)考えるのに、彼の好きだったところや思い出、肝心なことは何ひとつうまく言葉にならず、今もこうして取りとめなく、纏まりのない文章を垂れ流しています。
自分にとって彼がどういう存在だったか考えれば考えるほど混濁してもつれて、ほどけないままついに1年が経ってしましました。

本当に何も…何もできない。何もできなかった一年間。

あんなにたくさんの幸せを、楽しい時間をもらったはずなのに、恩を返せるようなこと何も。何ひとつ。
綴ることが弔い、だなんて状態には全然なっていない、結局。

だけど、私が言葉にできなくても、

彼の仲間たちは折に触れてインタビューやSNS投稿で彼について語ってくれているし、
彼のファンは今でも毎日彼の魅力を言葉にしてつぶやいていらっしゃいます。
そればかりか彼と共演経験のある役者のファンの方だって彼のことを惜しんでくれるし、

「雄三さん」は不定期でトレンド入り。
つい先日は事務所も久しぶりにブログを更新してくれました。
本当にたくさんの人にとって大きな存在だったんだなぁ、滝口…
仲間たちやファンはもちろんだし、いわゆる「滝口推し」ではない人の心の中にも滝口との思い出はしっかりあるっていうの、なかなかあるもんじゃないと思うんですよね…。

わたしの推しは、そういう人。
だから、滝口幸広は確かに居たし、姿は見えなくなった今も、消えてしまったわけではない。
こう信じることは、せめてもの弔いになるだろうか。

もともとずっと落ち込んでいられるほどの集中力も精神力もないタイプなので、私は今日もいつもと同じように笑って生きてしまうと思います。
命日だって言うのに今日も劇場へ行く予定ですし。(ほんと推し不幸)
そういう自分のこと心底嫌い。本当に軽蔑する。

でもこういう性分だし、だったらせめて、笑って生きて皺いっぱいつくって、いずれ向こうへ行くときに昔のファンだって気づかない顔になっていてやろうじゃないか、とも思うわけです。気づかずにまた釣ればいいよ。自分のファンじゃない人釣るの好きでしょ。釣ってみて残念!君のファンでした!!
そのときは私が最前列センターだ。
そのチケットを手にするために、徳を積むのがこれからの私の推しごとだ、覚悟して待ってろ滝口。

と心の中でかみついて、挑む気持ちで生きていくのが、私らしいような気もしています。

その日は気の遠くなるほど先かもしれないし、意外とあっという間に来るのかもしれないけれど。
きっとそれまでに思い出して泣いてしまうことも、何度もあると思うけれど。

つよがりかもしれないし、でもつよがりも言い続けていたら本当になるかもしれないから。
寂しさと戦って、次会える世界を信じて、そうやって今日も生きていく。

2020年11月13日。今日はわたしの推しの、1年の命日。

何もできなかった私は、今日も思うことしかできない。