6月18日でドイツにきて10年。
少しだけ10年を振り返ってみよう。
明日は日記を書けそうに無いから
 
今だからいえることは、ドイツ上空を飛んでいたとき、
ふと、真下に見える高速道路を走る車を見ながら、
「私はもう日本にもどらないかも?」となぜか思った。
 
ドイツに来て3ヶ月目の2001年9月5日上娘、幼稚園に入園。
今思えば、上娘が幼稚園に通った3年半が一番よい時だったと思う。
もちろん、ドイツ語できないし、英語もできないから、大変だったのは
大変だったけど、ママ友ができたのはこの時期しかなかった。
 
上娘は、小さいときは本当に手のかからないコだった。
でも、ドイツに来て、彼女は本当にたいへんだった。
一時帰国したとき、成田空港の出国ゲートでばあば、じいじとさよならする時から
ずっと、ドイツに帰ってくるまで泣いていた。
成田空港中に聞こえるくらいの大声で大泣き。
飛行機の中でも
「どうしましたか?だいじょうぶでしか?」
といわれるほど泣いた。
ドイツに帰ってきてからも2,3日は泣いていた。
 
それが今では「あと3年後には私はドイツ人になる」といっている。
16歳になれば、彼女はドイツ国籍をとることもできる。
どこでどう変わったのか?
きっと何かが吹っ切れたんだろう。
 
その時から、彼女の性格がかわった気がする爆  笑
それまでは「刺激を与えたほうがいいですよ。」
と健診でいわれるほどのんびりしていた彼女が、
自分の意見をもち、芯の強い子になった。
そうもしないとドイツで彼女が生きていけないのだろう。
でも、ドイツ人の子供から見るとずっとおとなしいけどね。にひひ
 
それとは反対に、ちび娘は本当にドイツ的に育ってきた娘である。
幼稚園に3歳ちょうどで入園した時も3日ほど、泣くふりをした滝汗
でも、その後は、「言葉ができませんね」という園長先生を横目に
楽しく幼稚園にいった。
言葉なんて関係ないさって具合である。
性格は男の子である。
 
上娘に問題がなくなるとちび娘に問題がおきるゲッソリ
病気には頻繁になるし、手は折るし、頭は切るし、
大学病院に半年のうち2回もいったアジア人はうちだけだろうね。
おかげで病院用語はばっちり覚えた私笑い泣き
 
ちび娘が幼稚園に行き始めたころ(2003年)
私には全く余裕というものがなかった。チーン
 
余裕がやっとできてきたのは、ちび娘が幼稚園を卒業するころ(2006年)
周りの様子がやっとわかってきて、幼稚園の内部事情もすこしづつ理解できる
ようになってきた。
なんて理解が遅い私なんだろうね。グラサン
このころからドイツ人が私に声をかけてくれるようになった。
といっても上娘の時から知っている親に限ってね。
ここまでの道のり6年爆  笑
 
子供達が小学校にはいったころは、ドイツの嫌な面ばかりが見えてきた
ころだった。
子供達は1人で学校にいくようになる、友達の親と会う機会が幼稚園時代に
くらべると断然減った。
なんとなくわたし1人とりのこされている気分になった。
そこで語学学校に本格的に通いだして、ちょっとばっかりもがいてみた。
といっても週2回午前中に通うのが精一杯チーン
同級生は、20才そこそこの若い子達ばかり。
ここでも沈没。。
目標を見失う。チーン
私の目標はドイツ語で生活することキョロキョロ
生活するのに苦労しないドイツ語をマスターするのが一番の目的だったのに
それをなぜか忘れていて、若い子と同じようになんて全く桁違いなことを
していたのに気がついた。
語学学校をやめたら、気分が楽になった。
子供を怒る回数も減った。
でも、なにかやっぱりやっていたいショボーン
仕事をしたいけど、何ができるのか?
ドイツ人の友達が「掃除婦だけは絶対にだめ、マックもだめ」
と私にいうのである。
想像でしかないけど、外国人が多い仕事には就くなってことだった
のかもしれない。
じゃあ、私になにができる?事務員なんて絶対に無理。
英語は話せないし、私はドイツ語だってわかっても話せない滝汗
そんな時、友達に紹介された学校のキッチンの仕事。
とりあえず、やってみるのには一番手っ取り早いキッチンの仕事に
行くことにしたのである。
ちょうど上娘がその学校に入学する予定になっていたし、仕事だけでなく
学校の様子も知れたらいいなと思った。
もともとお料理好きだし、いずれカフェで働けたらいいなって考えて
いたのもあった。
 
ここでも最初は、ええ日本人がくるの??しょぼん
ってささやかれていたらしい笑い泣き
ザビーネは、昔、日本人と仕事をしていていやな思いをしたことがあるらしい。
彼女はマーケティングの仕事をし、日本人男性はエンジニア。
二人でコンビを組んで仕事をしていたようだけど、
日本人男性は、はっきりした意見を彼女に言わない人でそのくらい雰囲気を
読めといった態度だったそうだ。
そして最後には「女なのにシラー」と捨て台詞を吐く日本人男性。
まあ20年以上も前の話らしいですがね(1991年ごろの話)
当時はきっと日本では女性はまだまだ、男性と同等に働いてはいかなかった
のでしょうね。でも、ドイツはそのころから女性も男性と同等に進出して
いたのでしょう。
そんな、ザビーネですが今では私のとってもよき理解者照れ
 
3年前、主人についに帰国命令がでた。
家族会議を何回も重ねた。
上娘が「私は絶対に日本にはもどらない」といった。
成田空港でドイツに帰りたくないと大泣きした上娘の顔が私にはその時よぎった。
結局、上娘はドイツに来たときも一番つらい思いをしたのではないか?
そして、自分自身でこの8年間を戦いつづけ、やっと自分の居場所を見つけたのに
また、親の勝手な理由でまた彼女の居場所がきえるのではないか?
と主人も私も考えた。
 
帰ったら帰ったでなんとかなったのだろうが、あまりにも日本的な生活から
かけ離れていた生活にどっぷり使っていたから、主人はここに残る手段を
考えてくれたんだと思う。
ドイツに赴任するとき、「郷は郷にしたがえ」と親達はいった。
私達これを守ってしまった笑い泣き笑い泣き
私達は日本的な生活よりもドイツ的な生活よりの生活をしてしまったのである。
これがよかったのか?悪かったのか?
補習校には通わせていたけど、近所に日本人の友達はいなかった。
車で移動しないと日本語を話す友達はいなかった。
現地の幼稚園、小学校、ギムナジウムにも日本人はうちの子供達だけ。
やはり1年生になる時点で日本人学校に入れるべきだったか?
日本に帰ることを考えるなら、そうしていたほうがよかったにちがいない。
私たちの計画ミスだ。
 
もうひとつ帰るのをためらった理由は、日本に一時帰国した時に
子供達を私の通った小学校に体験入学をさせようと申し込んだ。
その時の対応があまりにも悪かったのが私達の頭に残っていたのも一つの
原因だった。日本人なのだけど、海外にでている日本人に対して冷たい
態度をとられたのである。
補習校の人で体験入学を断られたという人を聞いたことがなかったので
とってもショックだった。
日本人だけど日本人で無いような対応だった。
日本にもどるなら、子供達がドイツで学んだことがいかされる環境というのが
私達の願いだった。
でも、それをかなえるのは、私達の帰る場所では、なかなか思い通りに
ならない部分があると知った。チーン
全部の小学校がそうではないと思うがたまたま、母校はそういう環境だった。
 
というわけでドイツ生活続行を決めた我が家だが、誤算もここにきてある笑い泣き
子供が大きくなり日本に帰るチケット代が高くなったとか、
どこでも同じであろうが学校の先生がかなりいまいちな先生が多く、
家でかなりの勉強を親がみないといけないとか。。
まあ小さなことではあるが、いろいろ新たな発見が毎日おこっている
わけである。
日本に帰ればよかった。と思うこと。
食べ物に関してのことが多く、後のことはここに残るときにとっくにあきらめた。
最近、日本語力が低下しているわが子を見て、
主人と「きっと将来はこの子達はどこで生活しているかわからないからね」
と半分あきらめモードになっている。
それはそれでいいんじゃないか?って私は思う。
適当な母にひひ
 
仕事を変えようと思った主人はものすごいパワーがいったと思う。
あの1年で厄をすべて受けたというくらいつらい1年だったのではないかな
っとひそかに思う。
 
この10年、私達夫婦もたくさん勉強したと思う。
ドイツにきたから夫婦が夫婦でいられるのだと思う。
日本にあのままいたら、多分、夫婦になれずに子供がおままごとをしている
状態だったに違いないと思う。
だって、ドイツでは、夫婦けんかをしても助けてくれる人だれもいないものにひひ
 
そして、現在「ドイツに残ってよかった」と思えるように前に進んでいる状態である。
これからの10年はどうなるだろう?
楽しみと不安でまぜこぜであるが、子供達はあと10年以内に巣立っていくだろう。
毎日朝起きると思う
「さて、今日はなにをしようかな?」
そう思えることに幸せを感じ感謝。。
そして1歩外に出れば今もってドイツ語との格闘の日々である。