3月11日、
母の命日です。

日本とアメリカで時差があるので少し日にちがずれる様な感覚になりますが、
私は自分の居るその時の日時でいつも想っています❣️


母...
お玄関でご近所の方とお喋りしている最中に倒れたそうです。
マンションの管理人の方から我が家へ電話がありました。

「緊急連絡先になっているので連絡しました。○○さん、倒れられてこれから救急車で運ばれます。救急の方に娘さん(私)の連絡先を伝えておきますね。病院から連絡が行くと思います」と。

その時既に夜の8時前。
その頃(3週間後に私と下の子はアメリカ出発を控えていました)日本で住んでいた場所から実家まで、途中新幹線を使って4時間くらいで着く距離。
最終のに間に合うかなぁ〜、明日朝一番にしようかなぁ〜、と迷いました。
どんな病状で運ばれたかが分からなかったので、明日の朝に病院へ行けば良いかな、もしかしたら今晩中に家に戻ってるかも?とか、軽く思ったからです。


その日の朝、母からメールが来ていて...、
2-3日前に上の子の大学の合格発表があったのに、私が母に結果を伝え忘れていて、
あなた、何も言ってこないからダメだったのかと思ったのよ
「ゴメンゴメン、合格して、お部屋探しして契約もして来たよ」
あら〜忙しかったのね。ホントに良かったわね〜
なんていう普通の会話を普段通り午前中にしていました。

上の子は、3月初めに高校の卒業式を終え既に春休み、一人暮らしの準備期間でした。
下の子は、次の週に中学の卒業式を控え、お別れ遠足的な行事や短縮日程になっている時期だった記憶です。

上の子が『色々1泊くらい何とかなるし、下の子の事も何とかするし、今すぐ行けば』
と言ってくれて、
あまり覚えていないのですが、きっととりあえずの準備をしてタクシー呼んで駅に向かいました。
最終だろう新幹線に乗ったのは電話から1時間も経っていないくらいの記憶です。


新幹線のホームで、病院から携帯に電話がかかって来ました。
新幹線に乗ったその後にも
もう2回。

母の状態に関して...
・心肺蘇生している状況
・既に2回繰り返している
・何もしなければ心停止する

私へ、希望・意思確認...
・こちらに向かっているか
・向かっているなら着くまでなんとか延命するか
・何時くらいになるか
・(同意書のサインがなくても)このまま看取るか
等など...覚えているのはそのくらい。


はっきり覚えているのは、状況報告と蘇生・延命を希望するかどうかを2回の電話で。
最後の3回目の電話で男性医師からの最終確認だった感じです。


私、どの電話にも.....
無理な蘇生はしていただかなくていいです。(既に2-3回心停止と蘇生を繰り返していたので)
母はいつも「何かあった時、何もしないでほしい。管人間になるのはイヤよ。ピンピンコロリが1番」と言っていたので、そのまま様子を見ていただいて構いません。
私自身も自分だったとしてもそう思うし、同意書がなくても後から文句を言ったりしません。もう充分していただきましたので、あとは自然にお任せします。
と伝えていました。


最後だろう先生からの電話で最終確認をされ、数分後に亡くなりました。
71歳のお誕生日の
2日前でした。


先生方は、私が着くまでの間一生懸命延命しようとしてくださったのかもしれません。
でも母にとっては苦しいだけの時間だったかもしれないし、もし呼吸し続けたとしても重度の後遺症が残ったかもしれません。

後遺症に苦労する人生を母は望まないだろうし、私自身だったとしても同じ想いなので、
延命を希望しなかった事に何も後悔はありません。
冷たいのかもしれませんが、(自分が間に合う為だけに)延命してもらう選択肢は全くありませんでした。

新幹線に乗って30分くらいのことでした。

病院との電話が終わった時、
まずは落ち着こう‼︎と自分に思ったのを覚えています。
家を出た時から、心臓はドックンドックンとすごい強さで動いていました。

まず1番最初に、主人にFaceTime。案の定出れず。
主人は、既にアメリカに赴任していて、ちょうど出張中でした。
すぐ折り返しTextが来て今電話出れない。どうした?と。
私はまずは落ち着いて聞いてね、おかあさんが亡くなった。出張中でもあるしアメリカからは戻って来れないだろうから、おとうさんと相談するし、私は大丈夫だよ。と全然大丈夫じゃないかもしれないのにTextを返しました。
そのTextする指が震えて震えてちゃんと文字を入力できなくて時間がかかりました。この感覚もすごく覚えています。


電話のやりとりがあるので、新幹線ではずっと乗り口のスペースに居たのですが、だんだん足も震えてきてしゃがみながら、主人のおとうさんに連絡しました。
「どうしよう、これからどうしたらいいのか分からない」と。
母の姉・伯母達にも連絡し、
とりあえず次の日の朝にみんなで相談しようとなりました。
(新幹線の中からで病院へも着かず、母にもまだ会っていなかったけど...)


私の父は50代で亡くなり、姉は33歳間近の厄年の時に亡くなりました。
父は脳腫瘍、姉は縦隔腫瘍でした。
なので、母に何かあったときは主人に頼ればいいと前々から思っていました。でも主人を頼れない状況で、主人のおとうさんと伯母たちを頼りにし、とにかく病院へ向かいました。

病院に着いたのがちょうど真夜中過ぎくらい。
母に会い、
先生から説明を受け
くも膜下出血で病院に運ばれた時には既に厳しい状況だったとの事
看護師さんから○時までに段取ってほしいと伝えられ.....
その後はとにかくバタバタで、
悲しんだ記憶はありません。

朝を待つ事なく、
斎場を決め、母を病院から運び、相談できる人のいない中、ただただしないといけない事をドンドン進めていく時間でした。
斎場の方がよくしてくださり、何から何まで寄り添いお手伝いしてくださったので何とかなった記憶です。

朝になり、
その他色々相談して、
仮通夜(半通夜)→葬儀と(内容も色々斎場と相談し)決め、
子ども達を置いてきたままだったので夜一旦家に戻り、次の日の早朝(お葬式当日)子ども達も連れ、途中主人の両親と待ち合わせ、おにいさん達も一緒に斎場の方へ向かいました。

主人の両親・兄夫婦、伯母達・姪・ウチの子ども達...近しい人達と、小さな小さな家族葬にしました。
お葬式の日は、
母の71歳のお誕生日でした。

もう私だけで判断できる領域はとっくに超えていて、
後から思えば、あれで良かったのか?失礼な事ばかりだったかも...等など、そういう後悔は残っています。
でも終わってしまったのでもう仕方なく、気にはなりますが、あの時の精一杯出来る限りをしたつもりです。


母は...
運転をしてどこへでも行く人でした。
早朝から段取りよく家事をし、働き過ぎなくらい働き者の人でした。
誰にも迷惑かけずにコロッと逝きたいわ〜といつも言っていました。

ホントにその想いのままの最期だったと思います。

時が過ぎ、命日の度にこうして思い出すと涙が出てきますが、あの時はほとんど涙を流すことはなく不思議な気がしていました。もぉ全てにいっぱいいっぱいだったからだと思います。

あれから数年経ちますが、少しずつ少しずつ母の年齢に近づいていくのに思う事は、
私も働き者でありたい‼︎
そして私もピンピンコロリと逝きたいと思ったりします。
こんな私の想いを
母はどう思うのだろうか❓
きっとそれが良いのよ〜と、思ってくれている気がします。

お墓参りもしないままになっていますが、心で想っていればそれでいいかなぁと信じ、
いつもより母を想いながら、
今日の命日を過ごしたいと思います。



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