いまや絶滅危惧種の硬派番組金平キャスターがこの春、テレビ報道番組の「顔」の多くが交代したことを取り上げられている。確かに、「報道ステーション」はノッペリした番組になってしまったし、「クローズアップ現代」の変わり方は正に骨抜きだ。金平キャスターもこの春の場合はちょっと特別なような気がすると書かれている。とりわけNHKの「クローズアップ現代」の変わり方については、冒頭の文章の文言に尽きる。退場した国谷裕子キャスターがその心情の一端を書いた文章を読む機会があった(岩波書店「世界」5月号「インタビューという仕事」)。「報道ステーション」は古舘が最後の挨拶で
富川アナウンサーに代わって3月や半年で良いの・悪いの言わないで、長い目で見てやってください。と言っていたので、しばらく我慢することとしよう。
その人物がいなくなってみて、初めてその不在の意味の大きさを実感するという経験が誰にでもあるのではないか。大切な友人や身近な先達たちが去っていく時、僕らは本当に人間という存在が「つながり=社会的関係」の中で生き、生かされていたことを思う。
それは、毎日のようにテレビ画面を通じて「疑似的に」つながっていた報道番組のキャスターや司会者と視聴者との関係においても言えることかもしれない。だから去っていった人を惜しむ気持ちが湧くのは自然な成り行きというものだ。
いけない、何だか道徳の教師みたいな口調で書き出しているな。この春、テレビ報道番組の「顔」の多くが交代した。テレビ報道の仕事を40年近くも続けてきたので、似たようなことは以前にもあったが、この春の場合はちょっと特別なような気がする。とりわけNHKの「クローズアップ現代」の変わり方については、冒頭の文章の文言に尽きる。退場した国谷裕子キャスターがその心情の一端を書いた文章を読む機会があった(岩波書店「世界」5月号「インタビューという仕事」)。実に品格のある文章で内容が深い。
<劇作家の井上ひさしさんが、「風向きの原則」と呼んでいた現象がある。風向きがメディアによって広められているうちに、その風が強くなり、誰も逆らえないほどになると、「みんながそう言っている」ということになってしまう。そしてその中で少数派、異質なものの排除が進んでいく。
最近、ますますそうした同調圧力が強くなってきている気がする。流れに逆らうことなく多数に同調しなさい、同調するのが当たり前だ、といった圧力。そのなかで、メディアまでが、その圧力に加担するようになってはいないか。>
深く共感する。
何年たっても喪失感が消えないという点では、僕らの大先輩、筑紫哲也キャスターの例があるが、その筑紫さんがニコニコしながら生前語っていた。「(メディアの世界では)活字は記録で、テレビは記憶だ」
日本語のことわざで「去るものは日々に疎し」という格言の英訳は「Out of sight, out of mind」とされているらしいが、英語の方のニュアンスは、テレビの世界にとってはより直截(ちょくせつ)だ。つまり、テレビに出なくなったら忘れられる。でも僕は、人間の集合的な記憶はそれほど柔(やわ)ではないと信じる。
この春去っていった国谷さんやその他の人々は確実に記憶に残る。かつての筑紫さんや久米宏さんや、田英夫さんやウォルター・クロンカイトのように。
https://www.youtube.com/watch?v=teE6epHwE6Q