20歳代の頃、神戸支店でグループの小岩井乳業の6個入りチーズを売ってもらうようスーパーを回る仕事をしていた。試食販売をすると「おいしい」と評判がいいのに値段が高いのでなかなか売れない。そこで、1個ずつバラ売りをしたらどうかと思いついた。ところが、1個ずつのアルミ包装紙には製造した年月日や工場名が印刷されていないので、会社から反対された(大企業的デキナイ理由)という。
そこで隣の県のキリンビール岡山工場に話を持ちかけ1個ずつ刻印してもらうことにしてバラ売りしたら、ものすごく売れた。
<缶ビールの普及に危機感を抱いた>
この当時、ビールは瓶が全体の80%を占め、酒屋が家庭に宅配していた。ところが、缶ビールが普及しはじめスーパーなどで買う購買スタイルが広がり始めた。キリンの缶ビールのシェアは3割程度しかなく、これは大変なことになると思った。酒類販売免許が緩和され、ビールを扱うスーパーが増えればシェアを維持できない。
競合他社は250㍉リットルのミニ缶を出し、結構売れていた。スーパーの店頭で他社のミニ缶を買っていくお客さんに聞いてみると、「たくさん飲めないから、お風呂上がりとかにちょっと飲むんです」といった答えが返ってきた。上司に「絶対やるべきだ」とレポートを書き、最終的にミニ缶が商品化された。
<ホテルの総支配人に>
1980年代後半、キリンがホテルに進出することになり、米コーネル大にホテル業を学ぶため留学。帰国後、尼崎のビール工場跡地に建設したホテルの初代総支配人に就任。ホテルは客室の稼働率が70%以上ないと採算が取れないが、立地があまり良くないため、52%しか見込めなかった。足らない18%を埋めるには、人件費を削るしかない。夜間は館内の点検などのため従業員が3人は必要だったが、磯崎さんが1人でやった。2年間、ホテルに住み込み、寝るのは昼間の数時間でパジャマを着たことはなかった。
そうしている内に、従業員たちがホテルのために自分になにができるかを自然と考えてくれるようになり、最終的に稼働率は90%になりホテルは黒字になった。
2007年に本社の経営企画部長になった時、グループの事業をビールや飲料に集中させることになった。10社くらいのグループ企業を売却する必要があり、各社の社長を説得したがなかなか応じてくれない。そこで、まずは自分が手がけた事業を手放すべきと考え、自分の分身のような尼崎のホテルの売却を決断した。今でも悲しく、断腸の思いだという。
このように机上で物事を決めるのではなく、現場で戦っている人の声を聞くことが大切だということを徹底している磯崎社長がキリンビールを発展させてくれることを大いに期待している。