「金融政策はアート」  バブル崩壊の引き金を引いた三重野元日銀総裁死去に思う  | 21世紀のケインジアンのブログ

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大変懐かしい方が亡くなった。三重野元日銀総裁である。まさにバブルの引き金を引いた人物である。三重野氏が日銀総裁に就任したのが1989年の12月、橋本龍太郎大蔵大臣の反対を制し、その12月の内に公定歩合の引き上げに踏み切った。年が明けて翌1990年1月から日経平均株価が下落に転じ、バブル崩壊が始まった。


 日銀はその後も1990年8月には6%にまでわずか、一年3ヶ月の間に3.5%もの公定歩合の引き上げを断行した。1990年1月から日経平均株価が下落に転じたが、不動産価格はまだ上昇を続けていた。今から振り返ると、バブル崩壊のトドメを刺したのは大蔵省銀行局長の「不動産融資総量規制」という一通の通達であった。私は当時、銀行の法人企画部に在籍していたが、その時の衝撃は今でも覚えている。銀行は当時バブル3業種と呼ばれたバブルを牽引した不動産、建設、ノンバンクの3業種の取引先への融資を管理・抑制し始めた。それまでは、ドンドン貸し込んで、さらに借りてもらうように一生懸命営業していたのだから、まさに手のヒラを返すような大転換であった。その効果はまさに劇的であった。


 それ以前に下落に転じていた株価に加え、不動産取引が急速に細った。既にババ抜きの様相を呈していた不動産取引はこの日銀・大蔵省の相次ぐバブルつぶしによりトドメを刺され都心部の地価は1990年をピークに下落の一途をたどる、都心一等地の地価は最盛期の十分の一に暴落し、不動産の暴落により日本の資産は1000兆円失われ、200兆円の不良債権が発生してしまった。欧米と異なり、土地を担保に融資が行なわれる「不動産本位資本主義」とも言うべき日本にはこの劇薬はあまりにも強力すぎ、まさに背骨を折られたような衝撃を与えてしまった。日銀・大蔵省が連携することなく、それぞれ別々にバブルつぶしに走ったために、バブル崩壊はさらに一層ヒドイことになってしまった。


知恵を絞れば、バブルつぶしはもっと軟着陸することができたと思うだけに本当に残念である。バブルの崩壊は避けられないとしても、今回のバブル崩壊がその後、20年以上も日本経済を不況で苦しめるほどになってしまったのは残念ながら、人災の面が大きい。しかし、当時は日銀も大蔵省もバブル崩壊の影響がこれほど甚大になるとは思っていなかった。銀行が生まれて約500年。それ以来、世界中でバブルが起き、そして崩壊するようになった。バブルの発生・崩壊はコンドラチェフの景気の波を辿るようにだいたい60年程度の周期で起る。一世代は30年だから、バブルが起きたとき、前のバブルを経験している人はほとんどいない。そして、バブル時の決まり文句「今度だけは違う」と皆が呟くうちに、バブルが発生し、皆バブルに酔いしれ、そして、バブルは崩壊し、地獄のような苦しみを味わうことになる。いつまで経っても歴史の教訓に学ばない。人間とは愚かな生き物である。





 1990年3月27日-。「不動産融資総量規制」という一通の通達が大蔵省銀行局長、土田正顕(故人)の名で全国の金融機関に発せられた。異常な投機熱を冷やすため、土地取引に流れる融資の伸びを抑える狙いだった。


 効果は劇的に表れた。不動産向けの資金の蛇口が急に閉められたため、建設や不動産の取引が収縮。地価下落が始まり、法人による都心部の土地取引額はその後二年間で半減した。さらに日銀による急激な金融引き締めが“劇薬”となった。日銀は1989年5月に公定歩合を年2・5%から3・25%へ引き上げたのを皮切りに、計五回の連続利上げで1990年8月には6%に。しかし、これは引き締めのスタートが遅れ、そしてテンポが急すぎた。



 埼玉大経済学部教授の伊藤修は「1988年の前半に引き締めを始めていればあれほどの崩壊にはならなかった」と断言。ただ、背景として「当時は1989年からの消費税導入が決まり、内需拡大を国際公約していた政府から金融緩和への要請が強かった。日銀は動きたくても動けなかったというのが真相」と指摘する。バブル退治に血眼になった大蔵、日銀の「誤謬」。都心部の地価は1990年をピークに下落の一途をたどる。都心一等地は最盛期の十分の一に暴落。日本経済は長期にわたる不況の谷底へ転げ落ちていった。(東京新聞)

 



  「金融政策はアート」 三重野元日銀総裁のアート

毎日新聞 418()2054分配信

 「いずれ日銀総裁」といわれる人は少なくないが、実際にそうなった人は多くない。三重野康さんは課長時代から将来を嘱望され、頂点に上り詰めた数少ないひとりだ。

 総裁になったのはバブル真っ盛りの89年12月。就任の日から12日後に、日経平均は史上最高値3万8915円(終値)をつけた。

 副総裁時代に「乾いた薪」論をぶっていたのは有名な話である。私も何度も聞かされた。日本経済は乾いた薪の上に乗っているようなものだ。アッという間に炎上(インフレ)する、と。

 日銀で三重野副総裁の威令に服さない人は皆無だったが、例外がひとりいた。大蔵省出身の澄田智総裁。乾いた薪論は承知していただろうが、国際協調のための利下げを繰り返した。

 総裁への取材に基づいて、利下げ近しと報じたところ、三重野さんに「利下げなどあり得ない。訂正せよ」と強硬にねじ込まれて弱ったことがある。もちろん、まもなく日銀は利下げした。

 総裁就任後のバブル退治は「平成の鬼平」の異名をとるほど強烈だった。(*個人的には三重野さんを「平成の鬼平」と持ち上げたマスコミの罪は大きいと思う。さらに、バブル崩壊で経済が大変な状況になった時、マスコミが手のひらを返したように三重野さんを叩いたのも実に節操がなかったと思います。
)にはそれまでのうっぷん晴らしをしているようにも見えた。そのせいで、バブルつぶしをやり過ぎ日本経済を壊した、という批判を招いた。

 その人脈の広さとそこから生まれる懐の深さに魅了される人は多かった。三重野さんは「金融政策はアート(芸術)だ」と言っていた。日銀は「適時適切、総合判断」で動く、と。

 金融政策に限らず、個別具体的な企業経営にも三重野さんの「総合判断」は及んでいた。多くの銀行家、企業経営者が三重野さんに助けられたと語っている。三重野さんは間違いなく金融政策が「アート」だった時代の名総裁だったのである。

 今日の日銀はアートでなく金融理論で動く。数値目標で日銀を縛って「総合判断」の余地をなくそうと主張する人々もいる。それが正解だとはとても思えない。三重野さんも泉下で顔をしかめていることだろう。【専門編集委員・潮田道夫】