2011年3月11日。


僕は東品川にあるスタジオで春から始まるフジテレビ「爆笑 大日本アカン警察」の押し番組のナレーション収録をしていた。
特番から念願のレギュラー放送になった!
僕は興奮を抑えきれなかった。

僕のパートのナレーション収録を終え、ブースを出た…ん?揺れているぞ。地震だ!
無音にしてあるテレビから緊急地震速報の表示が。震源は宮城県沖か。それにしても長い揺れだ。
程なくして揺れのピークが来た。
長い揺れ、壁が外れ、埋め込まれたスピーカーが落ちて来た。
窓の外、お台場方面から黒煙が上がっていた…
当時建設中だったダイバーシティからの火災だ。

そしてスタジオ1階のロビーに避難した皆が、テレビに釘付けになっていた。


ロビーに置いてあるテレビはフジテレビ。
当時の夕方の顔がヘルメットをかぶり、各地の震度、お台場の火災を伝えている。
他局が気になり、自分のケータイのワンセグでNHKに合わせた。
宮城県名取沖、自衛隊ヘリからの空撮…
その光景に愕然とした。
コレは我々の想像を遥かに超える事態が起きているんだと。

ロビーではスタッフたちが電話が繋がらない。オンエアはあるのかと騒いでいた。
たぶんバラエティー番組などはオンエアー出来る状況じゃないだろう。確実に「お蔵」だ。

僕はマネージャーとスタジオから出ることにした。
マネージャーはタクシーを呼ぼうとしたが、僕はそれを制し、青山の事務所まで歩いて行こうと提案した。
確かにスタジオの前の大通りは空いているが、じきに大渋滞になるという確信があった。
その理由は中越地震の時、個人的に少々恥ずかしい経験からなのだが…話が長くなるので割愛する。

スタジオを後にした僕たちは品川駅へ向かった。
マネージャーは他のナレーターの安否確認と、収録の有無を確認しようと各所へ連絡を取っているがなかなか繋がらない。
長野にいる両親とは地震直後に偶然電話が繋がり、安否確認できた。
それ以降、ケータイは全く繋がらなくなったが、ツイッターは大丈夫だった。
これは非常に助かった。皆の安否や様々な情報が共有できたからだ。
しかし、それも束の間。
たくさんの憶測、デマ、善意のリツイートの嵐で混乱を生んでいった。
道は予想通り、大渋滞が始まっていた。
道行く人の両手には、食料品がつまってパンパンになったビニール袋。
コンビニではATM含め長蛇の列。買い占めが起きていた。
と【あるナレーター】から「今のうちにお金と食料品の確保を!」とメールがあったが我々はスルーした。
慌てた所で何にもならない。

マネージャーの所持金を聞くと2-3万。
僕も同じくらい。
大丈夫。何とかなる。
混乱の渦に自ら飛び込む必要は無いだろう。

品川駅前にある、当時かかりつけだった耳鼻科へ花粉症の治療へ向かった。
切れかけた薬を処方してもらわなければならない。
エレベーターが止まっていたので、外階段で最上階へ。
患者はいない。普段なら1時間以上待つが、直ぐに診察となった。
鼻の吸入の最中に大きな余震が来た。
鼻に吸入器を突っ込みながら、左右に揺れる大きなマシンを押さえていた。


薬を処方してもらい品川駅前に。
腹が減ったのでココのカレーを食べに来た。
普段は混み合うが、客は僕たちだけ。
店内に流れるAMラジオ。
今何が起こっているのか…少しずつ判ってきた。
東北の太平洋沿岸域以外は…


品川駅の自由通路はたくさんの人たちで大混乱に陥っていた。
JRは改札口のシャッターを下ろし、流入をシャットアウトしていた。
周辺にいた者みんなが駅に集まってきていた。
広い自由通路にはたくさんの人が座り込んでいる。
しかし、真ん中だけポカンと空けてある。照明落下の危険性があったからだ。

駅前のバス乗り場も大混雑。
皆、バスに群がり我先に乗り込もうとしていた。
しかし、バスは発車しない…
目の前の第一京浜が、車や歩行者で溢れかえり、全く動いていなかったからだ。
僕たちは青山まで黙々と歩いた。

その道中に僕の自宅がある。
うちの固定電話が「生きていた」ので、しばらく「臨時オフィス」になった。
各ナレーターの安否確認も取れ、僕も青山の事務所まで歩き、マネージャーに付き添った。
深夜1時過ぎ。東京メトロは15分間隔で終夜運転していた。道路はまだまだ大渋滞だったのでこれは本当に助かった。

そして翌日から輪番停電、過剰な自粛、節電で街中真っ暗、気分も暗くなった。
家の電球をLEDに総取っ替えしたっけ。

さらに様々な憶測でいろんなモノが買い占められ、一気に物不足へ陥って行った。
水、食料、ガソリン…

すると震災から2日後に事務所から来た「一通の【寄付に関する】メール」が。

すると【ある人】からの返信の一文に…

「するならアピールしましょう。宣伝しなきゃメリットが無い」

アピール?宣伝?メリット?

こんな時に何を考えているんだ?

極限の状況だからこそ露わになる本性…
そんな心無い内容がマジで嫌になった。
そして僕は緊張の糸がプツンと切れたように熱を出して寝込んだのだ。

なるべくいつも通りに、いつも通りに冷静に過ごしていたつもりだったのだが、やはりどこか無理をしていたのかもしれない。
本当に心からがっかりさせられた出来事だった。

あの日をきっかけにいろんな縁があって仲良くなった人。
考え方が合わずに疎遠になった人もいた。
でもそれらは必然だったのかもしれない。
いろんな人の「本性」を垣間見た数日間だった。

…以上が、2011年3月の日記だ。

三陸各地に赴くのはもう少し後のことになる。

10年前、あの時の自分を振り返る。
あれから10年。
今僕は、気持ちを新たに前を向いて歩んでいます。

どんな時も、なるべく「いつも以上にいつも」で。