『こんなに結果を出したのに、誰も評価してくれない』
時、場所、人が変われば、評価も一変します。
悪口と同じです。
たとえ完璧な人がいても、こういわれる始末です。
『あの人は誰にでもいい顔するよね。怪しい。信じられない』
人の評価なんて、そんなものなのです。
各界で天才と評価される人たちも、あと少しでも天才だったら周囲からは凡人として扱われたまま幕を閉じていたかもしれません。
イチローが花開いた年以降の彼の成績は誰もが知るところですが、それ以前の成績を詳しく知る人は多くないかもしれません。
同じような成績が続いていれば、戦力外通告を受けていてもおかしくなかったのです。
イチローがオリックス時代、故・仰木彬監督に抜擢されなければ二軍のまま終わっていたという有名な話があります。
しかし、イチローが更にぶっとんだ天才だったら、彼は凡人扱いのまま終わっていたかもしれないのです。
また、イチローが別の時代に生まれていたら、相手にされなかったかもしれません。
評価というのは絶対的なものではなく、古今東西で変化する相対的なものだということです。
これはあたりまえのことだと思えますが、実際に自分が批判される立場になると無駄に凹んでしまいます。
若き日のイチローは、顰蹙を買っている時期もありました。
『なんだあの構えは』
『あの若造、プロをなめてるのか。あんなんで打てるわけがない』
しかし、イチローが結果を出してから周囲の評価は一変します。
『俺は最初からアイツはやると思ってたんだよ』
『やっぱり初めから素材が違かったもんな』
生前に評価される天才は、時代の半歩先を行くという感覚です。
1歩先、2歩先を行くと、ゴッホのように死んでから評価されることになります。
どちらが良いということではありません。
どちらも天才なのです。
凡人には天才を理解できないので、天才を見たところで凡人以下にしか映りません。
ここからわかることは、人をパッと見で判断してはいけないということではありません。
あなたを含めたすべての人が、特定の分野ではたちまち天才になり得るということなのです。
天才だからこそ、私たちは生まれてきたのです。