昭和54年9月19日


あの日の夜、何かの気配を感じて目が覚めた。


同じ部屋に寝ていた姉が先に起きていて、壁に耳を付けてリビングの様子を伺っていた。


リビングから、夜勤で居ないはずの父の声がする。



男の子が欲しかった父は、二人目は男の子だと決め込み、出産前から新幹線やロケットの玩具を買った。


生まれて来たのは、残念ながら真っ赤な顔でオギャーと泣く私。


父は二人目も女でガッカリしたそうだが、じゃじゃ馬だった私を可愛がり、キャッチボールやザリガニ釣りを教えた。



姉贔屓の母より、可愛がってくれる父が私は好きだった。


父が居ると知り、私はリビングに駆け込んで行った。


リビングは放送が終わったテレビが砂嵐を映し、母が頭を抱えて泣いていて、腕を吊るした父が右往左往と部屋中を歩き回っていたのだ。


父は職場の機械で右手の人差し指を潰し、切断して帰って来ていた。


今より形成外科が発達していなかったので、切断された指先に神経が疼き、父は痛みを堪えながら歩き回っていたのだ。


入院もせず縫合だけで帰す、凄い時代だ。


父は土気色した顔で母に当たり散らしていて、私には部屋に戻れと怒鳴った。


あの日の光景を、私はモノクロで覚えている。



母は私が高熱を出そうと水疱瘡になろうと、お粥やリンゴを剥いたりもせずに放っておく人だった。


「ソッとしておく。」と言って、無視をするのが母のお決まり。


父が指を切断した日も、母はどう対処してら良いのか分からず、ただ泣くだけだったのだ。


後日、職場から労災申請の紙が届いたが、母は「字が綺麗だから。」と煽て上げて、子供丸出しの字の私に書かせた。


初めての事務処理は、父の労災申請。


それに味を占めた母は、年賀状や姉の進路についても、私に書かせた。


母は自分をやんごとなき人だと思い込み、他人を見下して眺める。


そのくせ何も出来ない人だ。


半年後、父の指先に少しずつ肉が盛り、左手の指から型を取り義指を作った。


今のような精巧な義指では無く、ゴムで作った玩具のような出来だ。


それを母は気味悪そうに見て、「見えないようにして。」と言って私に隠させた。


そんな扱いを受けて、父は義指を着けなくなった。


それっきり父はグローブに指が当たって痛むからと、私とのキャッチボールをしなくなった。


実家の洋服箪笥を整理していると、小さな菓子箱の中にティッシュに包まれた父の義指が入っていた。


ゴムがベトベトに溶けて、もう使い物にならない義指だ。


それでも父は「捨てないで。」と言って、元に戻させた。


40年経っても、父は幻視を見るそうだ。


無いはずの指が痒くなったり、痙攣している感覚。


「俺が死んだら、着けといてくれ。」と父が言う。


母は労災で入ったお金も義指に払った以外、全て使ってしまった。


父の指の代金も、母の服に化けたのだ。