20時30分


ここ最近の主人は新年度の準備に忙しく、在宅ワークが減り帰りが遅くなった。


主人の帰りを待っていると、こんな時間に電話が鳴った。


夜に電話を掛けて来るのは、義母くらいしかいないのに。

ナンバーディスプレイは、この付近の番号を表示していた。


「裏の高橋です。夜分遅くにすみません。」


高橋さんというのは、私も勤めていた主人の勤務先に、30年以上前に働いていたパートさんだ。


当時、私は直属の上司から酷いセクハラを受け、その左遷の腹いせに出まかせをばら撒かれた。

高橋さんは、その頃に居た方。


その後、私が退職して5年後にこの街に引越して来ると、そのガセネタを高橋さんは面白おかしく流したのだ。


勤めていた頃、私は本社に居て高橋さんとは面識が全く無かったのに、仕事を教えてやったと嘘吹き、作り上げられた噂が流された。


【成績欲しさに色仕掛けで上司を誘惑した人】


実際の私を見て貰えば分かると思うが、私は愛想はあっても色気が無い。


成績は欲しいが、魂を売ってまでする仕事では無かったし。

何より、私の取り柄はガムシャラに頑張る事だ。


噂話と云う物は、山火事みたいにあっという間に燃え広がる。


引越しして来て直ぐに、私は近所の方から色眼鏡で見られるようになった。


とは言っても私がここで子育てをして行く以上、そんなガセネタに負けていられない。


近所の方一人一人と丁寧に付き合いをしていけば、私を見てくれると信じて生きて来た。



この30年で、高橋さんはこの地域の長老になった。

かたや私は、30年経っても新しい人が入らず今でも一番の若手だ。


高橋さんとは遠からず近寄らず、程々の距離を置いて接して来たつもり。


「一昨日ね。駅で私、急に足に力が入らなくなっちゃって倒れちゃったの。明後日から二ヶ月の予定で入院するのよ。今年、私は90歳になるでしょ。トイレにも行けなくなって、オムツを履かされたの。この歳で二ヶ月も入院したら、ここには戻って来れないと思う。娘も一緒に住もうとは言ってくれなかったし、二ヶ月経って治らなかったら、施設に入る事になると思うの。あなたと話すのは、これで最後になると思うから、謝っておきたかったの。」


対面で話せば聞こえる高橋さんは、受話器越しの私の声は聞こえないらしく一方的に喋り続けた。


「あなたが引越して来たばかりの頃、あなたの事を良くも知らないで、馬鹿な噂話を言いふらしてしまってごめんなさい。あなたを見れば、(元上司と)どっちが嘘を言っていたのか分かったのに。嫌な気持ちにさせてしまった事を、ずっと謝りたかったの。嫌なババアだと思ったでしょ?本当にごめんなさい。あなたは、そんな事を気にしないで接してくれて、本当に済まなかったと思ってるの。ずっと謝りたかったけど、言い出せなくて。本当にごめんなさい。」



ずっとずっと、私は密かに高橋さんに腹を立てていた。


結婚して、退職して、出産しても、上司が保身の為にばら撒いた出まかせは、私も主人にも付き纏い続けた。


家族を養う為にあの会社を辞めなかった主人は、私以上に嫌な思いをして来たはずだ。


電話の向こうで泣いている高橋さんに恨み辛みをぶつけても後味が悪く、「そんな事は無いですよ。」「夫婦共々可愛がって頂きました。」と私は繰り返した。


「90歳にもなったら諦めが付くかと思ってたのに、いざとなったら死ぬのが怖いのよ。若いあなたに、こんな事を聞かせてごめんなさい。」


高橋さんの娘さんは頻繁に通って来られているが、同居となると色々問題があるのだと思う。


私も両親が家で生活出来なくなったとしても、同居とは言い出せない。


「しっかり治して貰って、またここに帰って来るのを信じて待ってます。」


模範解答のようだけれど、こう言う以外に思い浮かばなかった。



主人の勤務先には当時を知る人は殆ど居なくなったが、まだ同期や同僚がいる。


以前、時々荒れて帰って来たのは、当時を触れる人が居たのだろう。


私も、これでやっと過去を封印出来るのではないかと思う。


性被害と云うのは自身で克服する事が一番だけれど、周りが浄化してあげる事も重要なんじゃないかと考える。


ましてや面白おかしく囃し立てるなんて、二次被害にしかならない。


年長者が流す噂話に立ち向かえず、私は作り上げられたイメージに翻弄され続けた。


昨夜、高橋さんが私の事をずっと気にしていたのだと知り、もっと早く話せば良かったと後悔した。


いつか私が自分の最期に向き合った時、心に雲掛かる方がいたとしたら、こんな風に謝れるのだろうか。