8月15日が「何の日」なのか知らない若い人たちは多くいます。14日のテレビの街頭インタビューでも20歳前後とみられる男女で分からない人が多く、しかも、悪びれた様子を見せません。知らないことが誇りでもあるかのような口ぶりもあったりして、残念な思いをすると同時に、わが国民の教養・常識も甚だしく劣化・衰弱したものだと思います。
私は戦後4年、1949年(昭和24年)生まれの「団塊の世代」ですから、お盆のこのころになると「戦争」に思いを馳せるのがふつうのことです。今年は、きのうときょうで中公新書4月新刊の「日ソ戦争~帝国日本最後の闘い」(麻田雅文・岩手大
准教授)を読み、明日は今月発売の中央公論9月号の特集「昭和の戦争、指導者の失敗」に集めた論文などを読破する予定でいます。
79回目の「終戦の日」ですから、来年の8月15日は80回目となるわけですね。でも、終戦とはいっても、当時の昭和天皇による玉音放送があっても、実は、戦争は続いていたのです。広島への原子爆弾(原爆)投下に続く、長崎投下の前日に当たる8月8日に、旧ソ連がわが日本に宣戦布告をしたことで、戦闘は「終戦後」も続いたのでした。
戦闘は8月9日から9月上旬までという短期間ながら、日ソ両国の兵力は200万人を超えたといいます。ソ連が日本との中立条約を一方的に破棄しての、宣戦布告でした。舞台は日本が侵略した満州(中国北東部)、日本に併合した朝鮮半島や南樺太、千島列島などです。戦後に大きな問題となった「シベリア抑留」や「中国残留孤児」「北方4島のソ連領有」などを派生させた、「日ソ」の戦争なのでした。
8月15日の終戦は、主に米英との関係におけるものなのです。ソ連(指導者はヨシフ・スターリン人民委員会議議長)とは、戦争継続ということになってしまっていたのでした。このころの米英とソ連との関係の危うさ、情報を取り切れずにソ連には淡い期待を抱くしかなかった我が日本の外交力のなさなどが、「日ソ戦争」にしっかりと描かれています。
お盆のこのころは、もう一方には、全国高校野球選手権大会いわゆる甲子園高校野球に関心を寄せるという一種の「風物詩」を楽しむときです。なのに、国民から突き放されてしまった、また、国民の空気が読めなくなってしまった岸田文雄首相が14日に、「退陣する考え」を表明したために、終戦の日の新聞はこれが1面トップになってしまいました。
静かに、戦争に思いを馳せる日が、騒々しくなってしまったじゃないですか。言葉の軽い人は、最後の言葉も軽かったです。「平和を求める」とか「核廃絶を求める」とか、口には出てくるけれども、「本気度」が全く感じられない「岸田言葉」はこのごろは、なに語ってんの? というレベルまで堕ちていました。
退陣の記者会見「私が身を引くことでけじめをつける」? と言ったとか、とか、、
なに言ってんですか! 政治資金パーティで集めた金で裏金づくりに走った自民党に、何らかのけじめをつけて、辞める、という順番じゃなかったのですか。