あまり意識していなかったけれど、わが国でラジオやレコードでビートルズが聞けるようになって、今年は60周年になったという年なのであります。1964年は昭和39年、私が15歳になる春、思春期でもあり高校受験に挑戦する年、そして東京オリンピックの年…でもありました。暮らし始めたばかりの岩手県釜石市で、その演奏・歌を耳にしてガーンという衝撃を受けたのでした。2年前の10月に英国でデビューし、米国にわたって爆発的な人気を得ているという「海外ニュース」で、それを知ったのでした。

 

 

用を足しに仙台に出た22日に、JR仙台駅前にある丸善仙台アエル店に立ち寄ると雑誌コーナーにレコード・コレクターズ6月増刊号「ビートルズ1964年」(株式会社ミュージック・マガジン 2,640円)が積まれてあって、ミュージシャンで総合音楽家と称する和久井光司責任編集のそれを、パラパラっと見ただけで反射的に買ってしまいました。表紙からして、64年の雰囲気(感じ)がありありだったからです。

 

その和久井氏は冒頭の原稿に、自分が意識してビートルズを聞いたのは、1971年の夏と書くなど、リアルタイムのビートルズ狂いではないと語ります。年齢的にも私たちからは一つ遅れた世代です、、、しかし、ミュージシャンとしての本格的な迫り方だったのです。

 

23日はこの日で上映が終了する映画「ジョン・レノン 失われた週末」を、名取市のイオンシネマで見てきました。日にちギリギリの駆け込み観賞となりました。ジョン・レノンが前衛芸術家のオノ・ヨーコと結婚(お互いに再婚)したのは1969年です。失われた週末とは、73年秋から約18カ月間、ヨーコと別居していた時期を指します。知られていた事実、語られていた事実です。

 

その18カ月は、ジョンとヨーコの個人秘書だった中国系米国人女性メイ・パンと生活していたと公表されていたのですが、これがヨーコの強い希望でパンと暮らすようになったというのでしたから、当時は「なぜ?」と頭がこんがらがってしまうのでした。映画はパンと、ジョンの最初の妻との間に生まれたこれもミュージシャンのジュリアン・レノンらの証言で描かれるドキュメンタリーです。

 

69~73年の私は大学生。ヨーコが、またジョンがヨーコに傾倒することが、ビートルズの解散を促したと多くのビートルズファンがヨーコを恨んだのでしたが、70年に解散が正式に発表されたのでした。4人のビートルはその後、ソロ活動に進むのですが、18カ月の「失われた週末」期のジョンは、アルバム(LPレコード)「ヌートピア宣言」と「心の壁、愛の橋」をリリースします。

 

その中からのシングル「真夜中を突っ走れ」が全米チャートで1位になるのですが、そのタイトルフレーズのヒントをパンと一緒に見ていたテレビ番組で得たことが、映画で描かれています。テンポの速いドキュメンタリーでしたが、BGMというか、バックで流れる音楽が途切れることなく、強い音量で続く映画でした。

 

一方、BGMがほとんどない「静かな」映画が、21日にこれまたイオンシネマ名取で見た「Missinng ミッシング」でした。17日に封切りされたばかりの新しい映画でしたが、バックで音楽が流れるのが始めと終わりころのシーンだけという、極めて静かな映画でした。主演の石原さとみの演技が秀逸でした。顔(表情)で演技するのが米国のハリウッド映画、顔のアップが多いのがハリウッド映画などと勝手に思っている私ですが、失踪して行方不明になった女の子の母親を演じた石原さとみの「迫真の演技を見た」と感じられたのでした。

 

映画を見る数日前の深夜のテレビのバラエティー番組で、運動神経がなかなかであることを披露していた石原さとみでしたが、この映画への出演が話題としてのバラエティへの出演につながったのだと思いました。数年前に見た「本屋大賞」を獲得したベストセラーを映画化した「そしてバトンは渡された」でも、石原さとみの演技は光っていました。

 

映画と書店と映画の3日でした。読書と回顧と感動の3日間した。