90年代初頭の大ヒット曲「愛は勝つ」で名を成したシンガー・ソングライターのKANが死去したことが、18日付の新聞で取り上げられていました。私にとって「愛は勝つ」は、勤めていた会社で組合活動をやっていたときのいわばテーマソングでした。「愛」を「組合」に言い換え、飲み会の2次会などのカラオケで「組合は勝つ」と歌って、ストレスを吐き出していたのでした。

 

当時の労組の闘争の中心は賃上げなどを全国統一で闘う「春闘」でした。私が労組の執行委員長として向き合ったのが90(キュウマル)春闘と91(キュウイチ)春闘でした。勤めていた会社とは河北新報のことですが、年号が昭和から平成に変わった1989年に、岩沼支局の4年間の勤務を終え、仙台の本社に戻って半年という秋に委員長にさせられました。その年を越して、つまり、委員長就任半年で取り組んだのが90春闘なのです。

 

そして、その冬にヒットし始めたのが「愛は勝つ」でした。91春闘の前後はカラオケのマイクを持てば、替え歌の「組合は勝つ」を歌うのが委員長の定番になっていました。「どんなに困難で、くじけそうでも」とか「最後に愛(組合)は勝つ」というのが、委員長である私にとっては、ぴったしカンカンのセリフだったのです。

 

90春闘と91春闘では、ストライキも実施。大幅なベースアップを勝ち取ったほか新聞業界では先進的となった「育児休業の制度化」や、35歳以上の従業員の「人間ドック受診の制度化」など福利厚生面を充実させることができました。組合活動は会社をよくするためであり、建設的なことであると組合員に意識づけて、堂々と組合活動をする…。そのことに「愛は勝つ」の歌詞の一部も借用したりしました。

 

私の所属が当時、報道部(外勤記者部門)で、組合活動には熱心ではないセクションでしたが、「初の報道部出身の委員長」ということへの「ご祝儀」もあり、組合運動はいつになく盛り上がったものでした。口さがない記者連中を一つにまとめるのはなかなか大変でしたが、「愛は勝つ」から元気をもらったものでした。替え歌にも力が入るようにもなりました。

 

また当時は、労働組合の「連合」が誕生したころで、組合の全国中央組織(ナショナルセンター)の在り方をめぐって、新聞労連内で論争があり、労連が分裂するかもしれないという危機的な状況にもぶつかり、これを何とか解決するのにエネルギーを費やしたものでした。

 

河北労組の委員長は専従でしたから、記者は「休業」です。いろんな経験をさせてもらいましたが、1期2年で委員長を辞めて、新聞記者に戻りました。91春闘の年の秋です。KANがNHKの紅白歌合戦に出たのは確か、この年、1991年の大みそかです。明けて92年の春、つまり、平成4年4月には岩沼の新居が完成し、仙台のマンションを売り払って移り住みました。岩沼市民になって今、31年目進行中といったところです。

 

「愛は勝つ」を今、しみじみと聞いています。33年前ですね。私の年も40ちょっとのときなんですね。