親鸞生誕850年特別展が京都国立博物館で開催され多くの方で一杯でした。親鸞の歎異抄とキリストの救いの類似性と相違点を何人かの日本の聖書注解者は説明しています。キリストの救いはただキリストを信じるのみ。「信仰によって」。親鸞の絶対他力は『信心のみを要する』。どんな中でも信心のみが大切と教えています。アプローチは似ていますが対象が違います。親鸞の信じる阿弥陀仏は想像の理想像で我らの信じるキリストは実在されるお方。

歎異抄が大衆に読めるようになったのは明治になってからで、それまで、本願寺で隠されていました。おもしろいくだりを見つけました。

 

 歎異抄第9節

 親鸞の歎異鈔第9節に弟子唯円房との対話。

 「唯円が聞きます。『念仏は尊いと信じて唱えてはおりますが、飛び立つほどの喜びもいたされませず、また、急いで浄土へまいりたいという心も起こりませんが、これではいかがのものでしょう。かような有様ではお助けがいかがと存ぜられますが、どうしたものでしょう』。親鸞答えてたまわく『親鸞もこの不信があったのに唯円房おまえもそうかや』。」 

 正直な心の思いが表現されています。

 

さて私達の場合はどうでしょうか。

ローマ書5章2〜5節

「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 

イエス様への信仰により神を大いに喜び、苦難さえも喜び、乾いた心にあふれるばかりの愛が聖霊によって注がれるというのです。観念だけの教えではなく神様への関係が私達の心を変えることができるのです。

 心に愛が注がれているという言葉は完了形の動詞が使われています。それはあたかも、心の中に神の愛が一杯になみなみと注がれていてそれが続いているかのようにです。レンスキーの注解です。

『あなたの心を穴の空いたカンにするな。大きな湖にせよ。イエス様は私を信じるなら心の中で生ける川の水が流れる。』

 見えないウィルスにおびえるのではなく、見えない神の愛に感動する日々を過ごしたいものです。