今日の静岡県は全体的に雨模様。せっかく草薙球場でフレッシュオールスターゲームが開催されるという、静岡県人にはありがたいプロ野球の話題ですが、この季節、天候の問題はどうしようもないですね。昔はジュニアオールスターゲームと呼ばれていたのですけれども、1998年に名称が変更されました。

若き選手たちの登竜門ともとらえられるこの試合ですが、MVPを取った選手の中には、その後1軍で活躍した選手たちもいます。

1970年代からの、著名な選手を挙げると、そのことがよくわかります。

大島康徳

箕田浩二

島田誠

屋敷要

香川伸行

藤井康雄

鈴木一朗

桧山進次郎

里崎智也

今江敏晃

青木宣親

中田翔

などです。

この中に、アメリカで活躍している選手が2人いることがおわかりでしょうか。青木宣親は当然ですが、鈴木一朗もその1人です。当然のごとく、現在の登録名はイチロー。僕は、

鈴木一郎

だと勘違いしていましたが、一朗が正しいようです。

彼は、日本人で初めて、NPBで苗字ぬきの名前のみの表記となった選手です。今では、(前田)大和、(赤見内)銀次、などがいて、お馴染みになった名前のみの表記ですが、当時はとてもびっくりしました。当時オリックスブルーウェーブの仰木彬監督のヒット作の一つといえましょう。

仰木監督と言えば、さまざまなエピソードで知られていましたが、野茂英雄、長谷川滋利、イチロー、田口壮などがアメリカに行きたいといって、胸を張って送ったことはほぼ伝説状態です。

その仰木監督、フレッシュではないですが、1996年のオールスターゲームでとんでもないことをしてのけました。野村克也監督率いるセリーグの打者は松井秀喜。ここで動く仰木監督。何かと思えば、コールは「ピッチャー、イチロー」。右翼守備についていたイチローを、ピッチャーに持ってくる、前代未聞の采配です、しかも松井相手に。これには野村監督も黙ってはいませんでした。冒涜行為とみなし、もしも当ててしまったりしたら、どうする、そんな懸念もあります。代打に投手の高津臣吾を起用しました。ものすごい対決がみられる場面でしたが、かないませんでした。高津はショートゴロ、事なきを得ましたが、どうでしょう。140キロ以上の球速を誇るイチローでしたから、仰木監督も、ファンサービスしたのでしょう。亡くなった仰木監督なので、今ではその真意は語られることはありません。

ちなみに、仰木監督は、1995年に、西武ライオンズ戦で、キューバ出身両打ちの長距離砲、デストラーデを投手として迎えたことがありました。そのときデストラーデは、1安打2四球で降板したようです。この時、西武の監督は東尾修。仰木彬を知らない若い皆さんでも、東尾理子の実父、その夫、石田純一はご存じかもしれません。

仰木監督といえば、そのすさまじい監督としての晩年。

グラウンドで倒れたら本望

その言葉通り、肺がんが完治していないにもかかわらずにベンチで指揮を執った人物です。

ベンチでの居眠りや、椅子から立ち上がれなくなったこと、階段を1人では上がれなくなったこと、多分、選手やコーチ、スタッフ全員が、仰木さん、もういいよ、と思っていたことでしょう。でも本人は、めげずにがんばっていたようです。

球団は次期の監督要請も行っていたようですが、仰木監督は固辞。年齢と病気を理由に辞められました。

2005年12月15日、呼吸不全により死去。早すぎる、70年の人生を駆け抜けた生涯でした。

思えば、当時、常勝西武ライオンズを相手に名勝負を演じた名監督でした。

イチローが、師として仰いでいるのはもちろん、清原和博も、最後に誘ってくれた監督として尊敬の念をおいているようです。清原、仰木監督が存命であれば黒い人生を歩まなかったかもしれません。仰木彬の教え子、野茂、イチロー、など、立派な人生を歩んでいる人たちを見習って、立ち直ってほしいものです。

 

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