無知というのは罪である

知人がそう言っていたことがあります。

でも、無知であることを許容できないのもまた無知ではないでしょうか。

精神白紙説というものがあります。
私はこの理論を耳にした時から深い感銘を受けています。

提唱したのはジョン・ロックというイギリスの哲学者。
子どもは白紙…いわゆるまっさらな状態であり、教育はそこから始まるというもの。
大人はみんな昔は子どもで、様々な経験や知識や教育を経ているわけです。

ということは、
(ここからは定義ではなく私の解釈です)

私たちが無知であることは罪ではなく寧ろ当然のことなのではないでしょうか。

モラハラというのは常識の無さを責め立てる行為。
それは横暴なことと言えるのではないか。

加害者の思う常識に沿わない言動をとれば、そうなった経緯を慮ることもない(=想像力の欠如。)
そして、そもそも精神白紙説を知らないのでしょう。(=ある面ではこれもまた無知。)
なにより、常識というのは複数あるのであって、加害者は被害者側の常識を知らない。(=他の価値観を知らない、無知。)

モラハラという行為には統一性がないのが基本とはいえ…

万が一そこに統一性があったとしても、このように噛み砕けば、無知であることを明るみに出しているだけということが分かる。
むしろ哀れ。

そして被害者は大体、自他ともに「無知」であることを「知っている」。
だから、自分の無知を責めて罠にかかるし、逆に加害者の無知を責めることはない。

専門的に学んだわけではないのでうまく表現できないが、モラハラという境遇にあった私たちがその経験を生かせるとすれば「無知」ということについて、価値観の多様性について、語り合うことではないだろうか。

心理学だけではなく哲学的観点からもまた、自分の考えと知識を統合させて、もっと明確な主張として、いずれ発信していきたいと思います。

由来としてタブラ・ラサという概念もあるようですが、かなり歴史を遡ることになるので、それはまた次回。