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1ヶ月半休んだ話

母退院 1番しんどかった時

 ※母の病気のことについては本人の許可を得て

お話しさせていただいています。

 

 

母が退院して

また仕事を再開して

私も一緒に

手伝いながらやっていくのですが

 

 

 

やっぱり今思えば

まだあの時の母は

”うつ状態”が抜けきっては

いなくって...

(それでももちろん退院を

許可されるくらい入院前より

良くなってたのは確かです!)

 

 

 

それもそのはずで

うつの大きなきっかけとなった

「仕事」が終わってなく

またそこに取り組むわけだから

 

 

 

それは本当に

当時の母にとって

大きな負荷だったんだと

思います

 

 

 

この時は当時を

振り返り「1番しんどい時」

と母が言うように

 

 

 

私もあの時

毎日が必死すぎて...

よくわからなく

なっていたけど

 

 

 

確かにしんどく

毎日が大変でした

 

 

 

私はうつ病に

なったことはないから

母のしんどさを

100%はわかってあげられないけど

 

 

 

でも...なんとか

前を向きたいのに

どうやっても

絶望を考えてしまうって...

 

 

 

特に元々ポジティブで

前向きな母は

できない自分を責めて

本当に辛かったと思います

 

 

 

横でサポートする側

として私があの時

大変に思ったのは

 

 

 

うつ状態の母は

コミニュケーションを

まともにできなくなってて

 

 

 

例えば...絶望に向かって

死を見ている母に

「こっちだよ!こっちに行こう!」

と希望の方に導きたくても

もう耳には入らなくって...

 

 

 

どうやっても

絶望に向かって行こうと

すること

 

 

 

本当に説明が

難しいんだけど...

 

 

 

とにかく大の大人を

歯がいじめにもできないし

ただ見守るしかできず

 

 

 

でもただ見守ってたら

母は「死」に向かって行こうと

するしで...

それが本当に大変でした

 

 

 

そして...ただでさえ

毎日が戦争のような日々なのに

 

 

 

(普段私は22時〜23時くらいに寝るけど

この時は母が心配で毎日夜励ます

時間みたいなのがあって泣き笑い

母が寝れるようになるまで話してて

気づけば夜中の1時や2時になって

いつも眠剤を飲んで寝る。と言う感じでした

母も母でうつの症状でなかなか寝れず

早く寝るようには言ってたけど

結局 朝方に毎日寝ていました)

 

 

 

私の乳がんの治療で

肝臓転移部分を照射する

手術が決まって!

☟☟

 

 

 

こんな中 私が

入院になったのも

更に大変さに輪をかけた

ように思います昇天ガーン




しかも ただ手術して

10日ほどで

退院する予定が…




手術の合併症で

またICUに入ってしまって💦




でも当時はICUに入っても

母が今日も生きててくれたか

気になって心配で、、

毎日 訪問看護師の

佐々木さんに連絡してました




もう この時の話も

話したら長くなりすぎるから

詳しくは話さないけど




病院で何度も

涙しました




私が退院した時は

だいぶまた

入院前の母に戻りつつあって…




とにかく当時の母は

毎日 仕事をすることが

もう限界になってしまってて




仕事がやすみで自宅にいて

家事をしたりする分には

(家事を止めても本人がこれはしないと。

という感じで止めれなかったです)

元気そうになるけど




また仕事が始まると

毎日そのことで悩み




仕事に行かず

休むことを勧めても

責任感でそれも聞かず、、




そのまま どんどん

悪化は止められず

また ついに再入院を

勧められるまでになってしまいます


 

 

母の退院祝いに

ディナーに行きました!

この時 こうやってカメラ向けたら

笑えるようになってたけど

今の回復した母と比べたら

頑張って笑ってるなぁと思う赤ちゃん泣き


それでも…入院前は笑うことも

こうやって外食も出来なかったから

(食べるのを拒否し始めてた)

笑ってくれる母を見て

本当に嬉しかったのを覚えてます


 

 

私入院...そして母 再入院

次の記事へ続く🤍

 
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