いつも、言葉を変え表現を変え、同じようなことばっかり書いているようで申し訳ないですがよかったら読んでみてください☆
そして今回はいきなりスピリチュアル的な話になりますが…
私たちの魂は地球で「経験したい」という思いで生まれてくるそうです。
それはこの地球で生きる私たちの3次元的な感覚でいう「楽しい経験」というものだけを指すのではなく、辛い経験なども含めていろいろな経験をしたいらしいのです。
ドラマとかを思い浮かべても、最初から最後までずっと幸せなドラマなんて見ててつまらないですよね。
それより、苦悩があったり、挫折がありながらもそこからいろいろなことを学び成長していく…
まさにそんな感じで魂さんたちは成長していくそうなんです。
そしていつもの事で、クドイけれど息子がダウン症という身体を選んで生まれてきたということは、この身体を通して今回の人生を楽しもうと思って生まれてきたという事なんですよね、きっと。
その方が今回の人生で学べる事が多いと判断したのかもしれない。
もしかすると自分を通して周りの人(私とか?)が学べる事があると考えたのかもしれない。
そう思うと、それは尊重すべきことだと思ったし、私がそんなの嫌だとか受け入れられないとか言えるような次元の話ではないなと感じたのでした。
そんな風に思えてくると「ダウン症」という症状ではなく、息子本人をしっかり見れるようになってきて、結果として今は「この子が楽しく暮らせたらそれが一番いいや」と思えたりもするのです。
そう、この子が楽しく暮らせたらいい。
でもそれは私自身にもかかってくると思っています。
鏡の法則という宇宙の法則があります。
今の現実を作っているのは全て自分であるということ。
つまり、自分の心が鏡として現実に映し出されているということ。
例えば、わかりやすく言うと・・・
私がダウン症児を産んだという被害者意識でずっと生きていくとする。
なんで私だけ!?
なんで私なの!?
なにも悪い事してないのに・・・
たまたまダウン症児が生まれたことを誰かのせいだと感じて、周りに対して嫉妬の念をもって生きていくとする。
そうするとどうなるか。
きっと私はその嫉妬の気持ちがどんどん大きくなって、その被害者意識もどんどん大きくなって私は可哀そうな人だと自分に対して思iながら生きていくことになるだろう。
そうなると自分の潜在意識にその思いがどんどん色濃く刷り込まれていくのでそのような人生を作ってしまうということになります。
また、自分だけではなく娘にも同じような感覚を植え付けてしまうことになるかもしれない。
息子も自分は受け入れられていない存在だとどこかで感じ取るかもしれない。
更にこんな状態では自分自身の心が満たされることがないから、夫に対しても愚痴や文句も多くなりケンカも増えるだろう。
パッと想像するだけで恐ろしい。
そこには笑顔も想像できないし、家庭円満とは程遠い家族像が想像される。
きっと周りの人との付き合いもギスギスしたものになるかもしれない。
・・・・と、まぁこれは行き過ぎた想像かもしれないけれど、私が鬱々とした心境で想像した未来の家庭像。
正直いってこんなんヤダ―って思った。
逆に、自分の心の状態が自分の周りの状況を作っているとしたら…
そして私がこのダウン症の息子を受け入れて過ごすことができたら。
何かの意味があって来てくれたんだと思うと、そこからいろいろな気づきが産まれてくる。
そして前にも書いたけれど「ダウン症」に囚われていた時は見えたなかったけれど「息子=赤ちゃん」という存在で見れるようになるとやっぱり可愛くて、自然と笑顔が増えていった。
そうすると、娘も息子に対して「可愛い可愛い」といってたくさん遊んでくれるようになった。
きっと今までずっと私が暗い顔をしていたのを、娘も気づいていただろうし、私が笑顔になってきたことで娘も安心してきたのかなと思えた。
子供たちにとって私(母親)は絶対的存在であり、母親の笑顔が何より大事だなって実感することができた。
そうやって自分の心や幸せに満たされると、周りにもその幸せが派生していく。
そしてまた自分自身も幸せを感じられるようになっていく。
そう、出発点はいつも自分の中にある。
よくスピリチュアルで「答えは全て自分の中にある」とか言われる。
私は今までその意味がよく分からなかった。
そうは言ってもさ、あの人が悪いよね…とかどこか人のせいにしていることも多かった気がする。
けれどその意味がだんだん理解という域を超えて、腑に落ちるレベルで理解できるようになってきた感覚がある。
本当にその通りで、モノ事の捉え方も、考え方も…すべては自分次第なのだという事。
つまり、自分が幸せになり、自分が笑顔になっていくことで、それが周りにも反映される仕組みになっている。
誰かに幸せにしてほしいとか、誰かに認めてほしいとか、あの人のせいだとか・・・それは違うってこと。
そしてまた「障害があっても魂は完全」と聞いたことがあるけれど、そう思うと息子は息子。私は私。と思えるようになったりもした。
産んだ当初はこの子にこれからの人生をささげなきゃいけないのかと思ったりもしたんだけれど、いろいろ調べたり聞いたりすると、福祉サービスも昔より随分整ってきているようで、そんな周りの力も借りたらいいのかなって思うようにもなってきた。
性格的に人に頼るとかしたくないタイプの私だったけれど、この子が産まれたことによって今までも散々人のお世話になってきた。
人前でもめっちゃ泣いたりした。
そんな風に自分の弱いところを認めたり、人に甘えたり頼ったり。
もしかしたらそんなことも間接的にではあるけれど息子に促されたのかもしれないとか思うこともある。
そう思うと、娘や息子のいろいろを背負おうとするのではなく、まずは私が幸せになること。
私が二人もお世話だったり面倒をみなきゃ…と思っていたけれど、それは違うのかもしれない。
もちろん育児放棄をするとかいうことじゃなくて、私は私の人生を生きたらいいのだということ。
娘は娘の人生。息子は息子の人生。
みんなやりたい事をやっていけばいい。
今までの私のように、自分の本音に蓋をして生き辛い思いを抱えるのではなく、自分に素直に生きてくれたらいいなぁと思うのでした。
そんなことを思うと5歳の娘のあれもこれも嫌だ!!という主張。
日常生活ではとっても困るけれど、振り返ると私は5歳の頃から「やらなきゃ」という思考で生きてきたことに気づくと、今の娘の主張はそれはそれで大切にしたいなとも思うのでしたw(これは余談)
話が逸れましたが…
私が満たされること。これが一番大切だと感じた。
普通で考えると「障害児を産む→自分のやりたい事をしよう!」って発想はおかしいのかもしれない。
自分に都合のいい解釈かもしれない。
でも、それは息子が教えてくれたことだと思うので、ありがたく受け取りたいと思う。
その直感に素直に生きたいと思う。