今週末まで宇都宮の桜はもつのかなぁ・・・🌸
2023年2月21日(火)
この日、河津桜のあとは、ノープランだったので、伊豆急の終点下田駅まで行ってみる。
河津駅で下田方面に電車待ち。あ、これは?!姫さまのブログで見たヤツ!
「プレバト スプレーアート」
KAZZROCKのお手本作品。まだ飾ってあったのね。
稲取駅には、個人作品があるみたいだけど、今回は行かないの~
ここで見られてラッキー
河津駅でみんな降りる。みんなが乗るのは東京方面なので、下田行き電車は誰も乗ってない。
伊豆下田駅着。
下田駅は、ちょっと案内表示が少ない。その代わり、観光案内所の方が一生懸命教えてくれる。
残念ながら、観光名所がバラバラで、歩くとけっこうな距離になる。すでに午前中で10,000歩を歩いているのえまろには、歩く体力は残っていない。
『へい、タクシー!!ペリーロードまで!』
「ペリー艦隊来航記念碑」と「日米友好の灯」
タクシーでペリーロード付近まで。
下田に来たのだから、ペリーと黒船について勉強してみようというわけだ。
下田港の「ペリー上陸記念公園」に、ペリー提督の胸像と、アメリカ海軍から寄贈された錨が飾られている。おお!さっそくペリー来航の歴史だ。
銅像横には「日米友好の灯」。平成15年ペリー来航150周年に国体炬火リレーに使用するため、ニューポート黒船祭の祝砲の火種をはるばるアメリカから空輸したものだそう。
もっと、ちゃんと見て来れば良かった~
ブッシュ大統領から下田市へのメッセージもあった。(←拡大すれば見える?!)
ここから、ペリーロードを通り、了仙寺本堂で条約を調印をしたペリー達の歴史をたどる。
いきなり大砲が道端に飾られている。韮山反射炉に続いて、また大砲だ。
ペリー来航は、浦賀。下田では条約が交わされ、下田開港とともに、ペリー達が滞在していた場所だった。滞在中は、半径28キロ(七里)以上は離れないことなどを約束させた。それは大砲を作っている韮山反射炉が見つからないようにする範囲だったとか。
情緒が残るペリーロードは、かなり狭い。
ここをまっすぐ行くと了仙寺。そこが調印の会場だ。
異国と日本の融合な雰囲気の街並みがある。下田に滞在したペリー達の影響なのかな?
ここには、アメリカ総領事ハリスのお世話を任された女性の物語「唐人お吉」がある。これはほぼ、フィクションらしく、史実は、ハリスに仕えたのは3日間でそのあと、外国人といっしょにいたことにより、悪い噂がたち、不幸になったのは確からしい。
そんな国際政治を最前線で見ていた町なわけだ。
了仙寺と黒船ミュージアム
このペリーロードを抜けると、条約を締結した了仙寺だ。
了仙寺に併設されている、黒船ミュージアム「MoBS」に入ってみる。
「MoBS」とは、The Museum of Black shipの略。
ここ、ペリー来航の歴史が細かく説明されていて、なかなか面白い。
興味深かったのは、ペリーとの日本の交渉は決して屈したものではなかったと説明されていたこと。林大学頭(はやしだいがくのかみ)たちのアメリカとの交渉は、細かく決められ、28㎞以上は離れないこと(韮山反射炉の大砲が見つからない距離)や、アメリカ人が下田の街中を自由に歩く権利を与え、黒船のアメリカ人と下田の町民たちは異文化交流も実現。
銀を使った日米の為替レートも、圧倒的に日本側に有利だったらしく、日米和親条約は「不平等条約」と言われたが、これは明治政府が徳川幕府の交渉を否定するために作られたイメージで、ペリーとの交渉で日本は一歩もアメリカに譲っていなかったとか。
これが歴史を見ていた了仙寺。
梅がキレイに咲いていた。この梅は、ペリーやハリスも見たのだろうか。
下田でこんなに勉強するとは思わなかった。
浦賀にペリーが来航だ、いや誤算!(1853年)
歴史を学んで、頭を使ったから、お腹すいた
伊豆ひとり旅@伊豆急で黒船ペリーの下田へ