2022年3月5日(土)
旅の2日目、ダンさんと水戸藩の歴史をたどる、の続き。
水戸の歴史の道は最近整備され、とてもきれいだ。
白壁が続くこの道が水戸学の道。って、こらこら、邪魔やで、おっさん ダンさん。
そして、おっさん ダンさんがガン見しているところが、彰考館跡だ。
彰考館跡って、黄門さまのモデルの光圀公が着手した大日本史の編集をしていた場所。
そのとなりにある、水戸城址二の丸展示館でちょっと歴史のお勉強。
水戸城跡二の丸展示館(旧彰考館)
水戸城の二の丸跡、旧水戸彰考館跡地に位置する展示館です。かつてはここに水戸彰考館が置かれ、「大日本史」編纂に関する業務が行われていました。
現在では「二の丸展示館」が開館しており、日本遺産「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」を構成する弘道館や偕楽園などの市内の教育遺産に関する情報発信や、水戸城に関する展示等を行っています。
〈開館時間〉9時~16時30分
〈休館日〉年末年始(12月29日~1月3日)
〈入館料〉無料
〈その他〉駐車場を特になし
徳川光圀公
この施設には、光圀公のことをわかりやすく説明されている。
そして、「え?!」と思う、この大日本史の無造作にある感じの展示。本物なんだろうか?たぶん、写しなんだと思うけど、かなりの年代物に見える。
歴史的にも価値が高く、重要文化財になっているはず。
『大日本史』
水戸藩主徳川光圀の命により、水戸徳川家において編纂された全397巻からなる紀伝体の史書である。編纂は明暦3年(1657)から明治39年(1906)に至る長期に及ぶ。大日本史編纂事業は、江戸・水戸の史館(彰考館)を中心に書写された記録類で、内容及び伝来経過から「往復書案」193冊、「往復書案(写)」43冊、「雑事記類」(含目録)12冊に大別される。
昔の人は、ひとつひとつ、こうやって書いていたのね。写しを作成するのも、手で書いているんだもんね。
ちなみに、テレビドラマの黄門さまは、気ままに諸国漫遊しているが、モデルとなった光圀公には、そのような史実はない。ただ、大日本史に関わった人物に、「水戸黄門」の黄門様の側近である「助さん」「格さん」のモデルとなった人物がいる。
助さん(佐々木助三郎)のモデル
佐々宗淳(さっさむねきよ)、通称、介三郎。光圀公の命で、史料の調査収集のため全国をめぐる。元禄(げんろく)元年に彰考館総裁となるほど優秀な人物であった。
格さん(渥美 格之進)のモデル
安積澹泊 (あさか たんぱく)、通称、覚兵衛。主に、資料の精査と随筆を担当し、元禄9年(1692年)には、彰考館総裁となって「大日本史」の編纂(へんさん)を主導した。
助さん、格さん、実は、武士であるが、学者だったから、弱っちかったかも~
徳川斉昭公
光圀公の死から100年後に誕生した名君が、斉昭公だった。光圀公の意志を継ぐように大日本史の編纂にも力を入れていた。ちなみに大日本史の編纂事業は明治まで続いたんだって。
弘道館と藩校を創設し、教育に力を入れたことにより、寺子屋や私塾も次々にでき、日新塾という私塾には、栃木県からも通っていた生徒がいたらしい。
その日新塾の跡地から発掘された書物や硯。
こっちは、水戸城跡二の丸付近で発掘されたもの。水戸城も現存部分は、薬王門だけである。水戸城は、1945年(昭和20年)水戸空襲により焼失。
以前、大子町で廃校巡りをしたとき、失礼ながら、大子の人口で、明治時代にこんなにたくさん学校が建てられたことにびっくりした。これも水戸藩での教育を重んじる方針が明治時代にも残っていたからかな~と思っていた。
だから、水戸城址に学校がたくさん建てられたことも、斉昭公は喜んでいるかもしれない。
ひとつ言いたい。
ちょっとひとつ言いたいことが・・・。
このブログを書く時も、水戸に行く前の下調べの時も感じたんだけど、
ネットの
水戸観光説明、
見づらいんや~!
歴史や観光地の説明が、HPに適切に掲載されていないっていうか、動画とかで説明されているけど、観光客に優しくないっ!
パンフレット類はあるし、各観光施設にの案内説明はわかりやすいし、この施設の説明も良くわかるのに、ネットにわかりやすく掲載されていない。
水戸市役所と観光協会の方、もっとわかりやすく、サイトに掲載してくださ~い!!
歴史もあり、こんな偉業を成し遂げていること、詳細な説明がほしいわぁ。
まずは、この展示館にある、これが、本物なのか、本物の写しなのか、レプリカなのか?!
・・・知りたいなぁ