2022年3月5日(土)
旅の2日目。
早朝てつをして眠くなり、千波湖のほとりで寝ていたダンさんをたたき起こす
無事に合流し、今回のテーマのひとつ、水戸藩の歴史を知ろう!というわけで、水戸藩の象徴、弘道館に。
弘道館は偕楽園より梅が咲いている
さて、「日本最大級の藩校 江戸時代の総合大学」である弘道館に潜入。
「日本最古の学校」足利学校のライバルやな(←いや、時代が違うやろ)
弘道館は、「日本最大級の藩校 江戸時代の総合大学」と紹介されている斉昭が作った学校。←『晴天を衝け』の竹中直人の烈公さんね。
この方、黄門さんと並んだ名君といわれ、第9代藩主で、弘道館も偕楽園も、この斉昭の「一張一弛」(いっちょういっし)という思想によって造られた。時には厳格に、時には寛容に生きるべきという儒学の思想に基づくもの。厳格に学問に励む場所が弘道館で、藩主から武士、領民までみんなで楽しむ場所が偕楽園だったというわけ。
って、難しいことは置いといて、すぐわかる弘道館を。これ、わかりやすいから、見てなっ実は、のえまろも、行く前にこれを見てから、偕楽園と弘道館をセットで訪れるようと思ったのでごじゃる
入り口には、烈公さんと七郎麻呂(慶喜)がお出迎え。これと同じ、大きな銅像が、千波湖湖畔にもある。
諸役会所・二大字「尊攘」
来館者控えの間です。床の間の「尊攘」の掛け軸は、水戸藩の藩医で能書家で知られた松延年の筆です。安政3年(1856年)に斉昭の命で書かれました。
正庁正席の間
正庁正席の間に藩主が臨席をして、正席の間や二の間で行われた学問の試験や対試場で行われた武術の試験をご覧になったところです。床の間には、弘道館の建学精神が示された弘道館記碑の拓本が掲げられています。
対試場
武術の試験などが行なわれた場所です。藩主は正庁正席の間から試験の様子をご覧になりました。
「游於藝」扁額
この扁額は、対試場に面した正庁の長押に掲げられています。縦90㎝、横248㎝の大きな欅板に斉昭書で「游於藝(げいにあそぶ)」と刻まれています。「游於藝」は、『論語』述而篇の一節「子曰 志於道 據於徳 依於仁 游於藝」(子曰く 道に志し 徳に拠り 仁に依り 芸に遊ぶ)により、「文武にこりかたまらず悠々と芸をきわめる」という意味があります。「游於藝」の「藝」は六芸(りくげい)で、礼(儀礼)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算数)をさします。
弘道館は、「晴天を衝け」のロケ地になっていたらしい(←今回は知らないで来た)
弘道館には、烈公さんと七郎麻呂(慶喜)の歴史が事細かに掲載されていて、「晴天に衝け」の記憶と照らし合わせながら、なるほど~と繋がることが多かった。封建的な時代に、黄門さまの時代の開かれた思想を強く受け継ぎ、慶喜につなげた斉昭は、歴史上もっと、注目を浴びてもいい名君だと思う。
ま、竹中直人が演じてたから、存在感はあったかな。秀吉感が強い烈公さんではあったが
このあとも、水戸藩を探るぞっ!
で、ふたりたびのいいところは、こんな恥ずかしい写真を撮ってもらえることだっ
『そろそろ勘弁してくださ~い!』
『あと一枚!』
こんな写真、他人には頼めへんからなっ