1995年1月17日
神戸市民にとっては忘れられない日。


その時、私は自宅の2階で就寝中だった。

 

5:46


突然襲ってきた大きな大きな揺れは、
何が起こっているのかさっぱり理解できず、

 


とっさに布団に潜り込んで体を丸めて、
 

何かに掴まって身体を支えたいのだけれど、
どうすることもできず。

 

時間にしてどれくらいだったのか。
ただただ収まるのを待つしかない。

 

あたりはまだ真っ暗な早朝だったので何も見えない。

 

あとで気付いたけれど、
天井からは照明器具が落ち、

布団にくるまった頭上には、
壁にかけていた大きなパネルや、
吊り戸棚が落ちてきていた。

棚の上に大事に飾ってあった陶器の置物は、

床にたたきつけられて粉々に。



伯母の家に駆けつけた時、
全壊している自宅を見て震えたこと。

その後、

避難所で再会を果たして涙したこと。

 

連絡のつかない親戚の家に行くために
大火災が発生しているその際を
 

子供用自転車を借りて、走り抜けたこと。
 

火の粉が飛んでくる中、
叔母が無事であることを祈りながら必死だった。






 

あの日から数年後の1月17日。
 

 

東京にいた私が見たテレビのトップニュースは、

サッカーワールドカップの話題で盛り上がっていて。



こうやって大震災のことを忘れられていくんだろうな、と。

愕然として涙が溢れました。

 

 

 

 

今でこそ、

神戸の街も復興が進んで活気が戻っているけれど。

 

あの日のことは忘れない。

 

 

 

 

この一月の寒さの中、

暖を取ることすら叶わなかった生活。

 

あたたかい食べ物がほしかったし、

水道で手を洗ったり、

歯を磨きたかった。

 

 

被災した当初よりも、

日が経つにつれて、

現実を実感していく中で、

恐怖が増していったのを覚えています。

 

 

能登半島地震で被災された皆さまも

もしかしたら同じような思いで過ごされているかもしれません。

 

 

今、自分にできることをやります。

被災された方々が、少しでも早く通常の生活に戻れますように。