父24歳、母22歳の時に東京下町で生まれた私

くっきりハッキリ覚えてる訳ではないけど、ほんのり胎内記憶あるんだよね



明るい時はオレンジ色に包まれていて、時には眩しいほど

軽い振動を感じる時は、お天気の日に母がお散歩してる時だったんだろうな



この世に産まれ出てからは、あまり心地の良い環境ではなかったような気がする…
ちょうど大学受験を控えていた父の弟(叔父)がいたもんだから、母は私を泣かせまいと必死だったと言っていた

叔父が受験生でピリピリしていたから



3歳くらいになると、父と母は夜私が寝付くと夜な夜な飲みに出掛けていた

でも、ふと目覚めてしまった時に両親が居ないと分かると、1度は寝付いてもちょっとの物音にも敏感になり、飲みに出掛けようとする親に「行かないでー
」と大号泣







そこで両親が選択したのが「3歳の私を連れて飲みに行く」という

何故に「行かない」選択をしなかったのかが未だに不思議
笑笑

いくら東京といっても、当時は手軽な居酒屋みたいなものは少なく(住んでた土地柄か
)連れて行かれるのはムーディーな照明のスナック




お陰で最初に覚えた歌は「津軽海峡冬景色」



3歳にして町内のカラオケ大会デビュー

まだ字もろくに読めないから、1番を2回歌うという



見事な夜鷹娘に育ち、自営業だった為朝も両親と一緒にの~んびり起きて納豆飯を喰らう

自営業だから、母と一緒にお店番

母と一緒に居られる

その時はただただ「一緒」が嬉しかったなぁ

何だか普通とは違う幼児期を過ごしたからか、小学校に入学すると給食が食べれなかった

好き嫌いは無かったし、家では普通量の食事が出来るのに…学校では食べれなかった

当時は小学校もめっちゃ厳しかったから(いや、担任が悪かった
)、残したらダメ
教育で、下校時間まで嗚咽しながらチビチビ食べていた



結局完食出来ずに残飯と担任の手紙を持たされて帰宅

今思えば、これが摂食障害の引き金になったのだと思う

当時は「過食症」「拒食症」なんて病名無かったから、「自家中毒」って言われたり「自律神経失調症」って言われたり

もちろん特効薬がある訳じゃ無いから、今で言う「拒食症」と「過食症」を繰り返して今まで生きてきた

「嘔吐恐怖症」もあるから、尚更苦しい

吐きそうになるとパニック発作が起きる

苦しいよぉ…
誰か助けて…
何度心の中で叫んだことか



これはほんの序章に過ぎない私の人生。
これからもっともっと過酷な人生が待っていた…
それでも私は生きている♡♡
神様は乗り越えられない試練は与えないと言うけれど、こりゃあんまりだよ~というような人生を歩んできました。
だからこそ、貴方の苦しみが分かるのです!
「○○したら楽になるからね♡♡」
「私の言うことを聞いていれば間違いなし!」
そんな事は一切言いません。
私は手を差しのべるだけ(*^^*)
何故かって?
それは、あなたが変わらなくちゃ意味がないから。
あなたが自分のチカラで這い上がって、自分で変わろうって思わなくちゃ何一つ変わらないから。
私の経験を発信していき、チョットでも生きるヒントを得たり、「Rieになら相談してもいいかも!」って思ってもらえたら嬉しいな♡♡
夫婦仲の事や離婚問題、嫁姑問題、不妊治療の悩みはもちろんの事、女性特有の病気やお子様の事、何でもごされのRieに話してみませんか?
今世では子供は居ませんが、過去世で沢山の子宝に恵まれ、肝っ玉母ちゃんだったRieは「もう自由に好きな事をして生きていいよ!」と言われました。
(まだ子供を完全に諦めた訳じゃないけどね
)

私のやりたい事は、たくさんの人を幸せにする事♡♡
辛い人生を歩んでいる人に、手を差し伸べてあげる事!
まずはお気軽にお友達登録からどうぞ↓↓↓
今、1番辛いことを教えて下さい!
お友達登録して下さった感謝の気持ちを込めて、一言メッセージをお送りします♡♡
Rieの言葉が響いた方にはメニューのご提案をするので、「メニュー希望」とご返信くださいね(^_-)
今日もありがとうございました

みんなが幸せになりますように
