池袋大勝軒の山岸さんが亡くなったそうです。
ヘビーユーザーとして過去、1千食弱は食べてきたので、その思い出を。
26年前、池袋の六つ又交差点の日当りの悪いマンションに水商売の女性と住んでいた時、
うまいラーメン屋があると教えてもらい、東池袋サンシャイン近くのお店に少し迷いながら辿り着きました。
木造アパートの1階が店舗になったような古い建物です。
初めて行った時には数十人の行列が出来ており、食べるのをあきらめました。
2、3回目は1時間近く並んだ記憶があります。
長靴を履いた女性と若い衆何人か、それとタオルを巻いた山岸さんです。
外で食べたり、オカモチで持ち帰りしている常連が何人かいたので、
勇気を出して外で食べたいと申し出たのですが少しぶっきらぼうに断られました。
顔を覚えてもらった辺りで、たしか甘い物がお好きと聞いて、アイスクリームかプリンかなんか持っていった。
まあ賄賂なんですが、そこから割りと融通が利くようになって。
基本外で食べれるようになったし、年越しそば変わりにテイクアウトしたり、地方の友人に送ったりもした。
時間も助かるし、並んでいる人を横目にサクッと食べる事が出来るのは常連みたいで少し気分が良かったし、
週に何回かは無性に食いたくなった。
味の分析は出来ないし、するべきではないけど、
あまからすっぱい魚介出汁で今思い出しても、旨味と中毒性があったと思うし、
その後のつけ麺ブームの味の潮流になった事を思うと、やはり先見の明があったと思う。
マスターが途中でスープを足していくので、味にムラがあり、
そういう意味では朝一と持ち帰りが一番うまかった。
ホンダシとかひき肉を途中に加えていたように思う。
山盛りの麺は炭水化物そのものだし、砂糖もけっこう入れるので、今求められる物とはやはり違う。
最初はひばりが丘くらいしかなかった暖簾わけの店も、
西池袋の麺屋ごとうを初めとして、どんどん増えていった。
暖簾わけ自由とか、お金も取らないとかいう話も良く聞いたし、
常連の中には毎日来る仕事してなさそうなよくわかないオッサンがいたり、
ある時からお客さんが店を手伝い始めたり、そういう意味でも面倒見の良い人だったんじゃないかなと思う。
脚が悪いんだよねという話は良く聞いていたし、
やはりそんなに健康そうには見えない巨躯だったので、
不謹慎だけど、80歳まで生きるとは思ってなかった。
自分レベルで懐いていた人間は山ほどいると思うけど、
忙しくて少し機嫌悪そうな中、挨拶をするとニコッと笑ってくれたし、
たまに営業時間外に食べさせてくれる事もあった。
チャーシューの苦手な自分は肉抜きでオーダーしていたんだけど、
「肉抜きなんて店は一番助かるよ」と言って笑っておられた。
暖簾わけの店でも食えるようになったし、
その後池袋に行く機会も減り、ラーメン自体あまり食べなくなったりして、
山岸さんの手のかかったつけ麺を最後に食べたのは正確にいつか思い出せない。
それでもピーク時は年間100杯前後、生涯千食弱は食べた自分にとっては、特別な思い入れがある。
600円で幸せを感じられて、腹一杯になって、美味しくて、後輩や友人もたくさん連れていった。
時代背景や収入や環境や食欲がジャストフィットしている時に、
最高の人が作る最高のつけ麺を食べる事が出来て幸運だったと思う。
合掌
遠藤康志