闘病生活を送っていた妹が先日他界しました。
36歳でしたから早かったです。
4人兄弟の末っ子として生まれ一人だけ年が離れていましたので、親からは孫のように、兄弟からは子供のように家族全員に可愛がられました。
後になって聞いた小さい時の溺愛振りは自分でも赤面する程です。
その後私はドロップアウトして10代で上京し、実家とは疎遠になりましたが、
数年後、芸大の受験に失敗した妹が美術系の予備校であるすいどうばた美術学院に通う事になりました。
じゅうぶんな仕送りが出来ない実家の都合もあり、たまたま西池袋の広いアパートに住んでいた私と同居する事になりました。
私が26歳、妹が18歳しかも約8年振りに会いました。
当時の私はかなりピリピリしており、思春期の終わりかけ位の妹はナイーブで、同居しながらも殆ど顔を合わせる事はありませんでした。
食事に出かけた事も一度もなく、少し取っ付き辛い怖い存在に映っていたようです。
たまに小遣いを渡そうとしても、彼女は受け取りませんでした。
そういう潔癖なところがありました。
確か死ぬまでに十数回申し出て、受け取ったのは1回、もう一人の妹と同時に受け取った時のみです。
実家に仕送りしろとは何度も言われました。
同級生には社会人経験者など年上の人も多く、たまに連れ立って家に来ておりましたが、
美術系の学校でしたから個性が強い人も多く、ひ弱で垢抜け無い田舎者の妹はうまくやっていけるのかなと少し心配をしておりました。
しかし、この時出会った方達が彼女にとって一生続く素晴らしい友人となりました。
同居は1年で解消し、彼女は安いアパートを借りました。
デッサンも下手な妹は芸大など受かるわけもなく、2浪の末、何とか多摩美に合格しました。
その後は特に連絡を取る事も無く、
いつの間にか彼女は大学を中退し、日本国内をウロウロしていたのかと思います。
大学を中退したのは金銭的な理由もあったそうです。
その時の私は多少の援助なら出来る年齢になっていましたので、後になって話を聞き歯がゆい思いをしましたが、きっと彼女は拒否したと思います。
実家でアルバイトをしたり、母の実家、熊野の山奥にいたり、予備校、多摩美と同級生のエミちゃんに誘われ、熊本に行ったのもその辺りかと思います。
母からたまにあのこはどうするんだろうねと聞かれましたが、美穂ちゃんは生きていれば何でもいいんじゃないと、答えました。
テンポも遅く、喫茶店のウェイトレスの仕事を首になったと聞き笑いました。
誰かと結婚し、普通に暮らせればじゅうぶんだなと、失礼ながらそんな風に捉えていました。
思春期の頃は内面には激しい物を抱えていたはずですので、人には伝わらず彼女なりに苦しい時期があったのではないかと思います。
人を押しのける事が出来ずに、声の大きい人に呑まれながら、自分なりの主張が出来ずにいたのではないかと思います。
美大に行ったのも、芸術家になりたいという事ではなく、
自分の居場所を探す段階で、芸術を愛する人達にそれを求めたような気がします。
東京での生活はおそらく彼女には合わなかったことでしょう。
効率良く自分を最適化し、現実と折り合いを付ける能力は著しく欠落していたと思います。
昔から動物と年寄りが好きで、困っている人や弱い者には敏感で、常に優しい目線で接していました。
実家に戻っていた時、犬を預けた事もありますが、朝晩各1時間ずつ散歩していてくれたそうです。
ペットショップで犬を買うなと強く言われました。
熊野にいた時は年寄りばかりの集落に身を寄せてしばらく暮らしていたようです。
尊大な態度を取る者や権力に対するシニカルな目線も併せ持っていたと思います。
但し、自己主張出来ない弱さがありました。
その後は数年に一度会う位でしたが、少しずつ会話が楽しくなっていきました。
彼女も逞しくなっていましたし、好きな音楽や漫画や洋服のセンスが似ていて、少し嫌味な冗談も自分の好みでした。
4年程前に会った時は現在の妻も交え3人で食事をしましたが、
顔が似ているねと言って笑いましたし、子供の時によく遊んでもらったとか、お兄ちゃんはずっと優しかったと言われ、不覚にも涙が溢れました。
ここら辺キモくてすみません。。。
熊本でミュージシャンの男性と暮らしている事、犬がいる事、額縁屋でアルバイトをしている事など色々話しました。
その後は割と頻繁に他愛も無いメールをするようになりました。
病気が発覚し、相談を受けました。
癌患者にどの治療法がベストか断言する事も出来ず、国立病院の医師の助言に従い脚のリンパ含め全摘出をしました。
手術成功となり連絡を受けた時にはやはり大変嬉しく、東京で祝杯をあげ、熊本に向かい、あちらの家族と食事をし、パートナーも紹介されました。
彼女としてはリスクを背負い摘出したつもりが、わずか1ヵ月後に再発しました。
また出ちゃったよみたいな感じで連絡がありました。
玄米食にしたり、立花隆の本を読んだり、病院で知り合った方達と情報交換をしたり、彼女なりに冷静に努めていたように思います。
そして2012年10月入院中に入籍。
この頃彼女のfacebookには「カウントダウンがはじまりました」「飼い猫より永生きすること」という書き込みがありました。
その後「カウントダウンがはじまりました」という書き込みは消されていましたが、、
抗がん剤による苦しみをLINEのスタンプで送って来てましたから、この頃は少し余裕があったようにも思います。
2013年2月父がガンで他界しました。
その前に彼女は「死ぬところを見たい、死ぬってどうなるのか見ておきたい」と話していました。
抗がん剤で髪の毛が抜け落ち、ターバンを巻きながら、ツルツルの頭を触らせてくれました。
この頃から色んな友人に会おうとしていたようです。
2013年5月にはエミちゃんに車イスを押されて飛行機で上京し、久しぶりの友人とディズニーランドに出かけていきました。
ターバンにサングラス、脚は折れそうに細くなっていました。
家に帰ると高熱でグッタリしておりましたが、それでも僅かな時間を悔い無く過ごそうと懸命でした。
2013年秋
病状が深刻化してきました。
熊本での生活は闘病には適さないという事で、渋る彼女を無理やり実家の松本に連れてきました。
母と姉2人がいるので、看病がし易いからです。
彼女の条件は母と同居出来る事、そうでなければ熊本で過ごしたいという事でした。
見舞いに来て欲しがっていると聞き、時間があれば帰省するようになりました。
身体の機能がどんどん蝕まれていってましたので、本人は相当キツかった事と思います。
見舞いに行くと土産を身に着け、少しおどけて車イスに乗り皆で写真を撮ったりしました。
土産のパタゴニアの帽子も、車イス用にと買ったフェイクファーのルームシューズもギャルソンの白い湯たんぽも全て喜んでくれました。
「末期ガンだからお医者さんも何でも食べていいって言うんだよ」などと周りを笑わせていましたが、
最後、頭を撫でて手を振ると「また来てね」と言って子供のようにワッと泣き出しました。
内心はかなり心細かったのではないかと思います。
今思い返せば彼女から聞いた始めてのお願いでした。
正月の予定を楽しみにしていました。
私が連れて行く犬と彼女が飼っている猫の相性を心配していました。
正月は病院近くに借りたアパートで親戚が多く集まり過ごしました。
彼女は食事も出来ず、一人ベッドで寝ていました。
睡眠の邪魔になるかと思い姪達に静かにするよう伝えましたが、
「みんな居て楽しいから続けてと」最後の団欒を楽しんでいるようでした。
次は4月の誕生日に皆で集まろうと彼女に伝えましたが、
厳しいだろうなという事は彼女の体調を見れば明らかでした。
最後の見舞いは死ぬ12日前の2014年1月29日でしたが、かなり痩せて意識が朦朧としていました。
それでも看護師には敬語で話していましたし、土産の白いワンピースも見せると素敵ねと言ったり、
相手出来なくてごめんねみたいな事を言われました。
入院生活中の彼女は気丈だったようです。
看護師の手を煩わす事を拒否し、また退院生活後の事を考え、痛みを堪えて自分でシャワーを浴びたり、
幻覚の出る痛み止めも最低限にし、死ぬ数日前にはリハビリして職に就き、母を助けると言っていたようです。
そして父親が死んだ1年後の同じ日2月10日に息を引き取りました。
私に少しだけ優しい心があるとしたら彼女といる時間に育まれた物が殆どだと思います。
彼女は人生において形に残る何かを成し遂げてはいませんが、
必死でもがき、自分の居場所を探し、友人を作り、結婚をし、そして全ての人の不条理をわかってあげようと努力していました。
敏感で傷つきながらそれを隠して、笑おうとしていました。
熊本の飾らない明るい人達にも助けられ、自意識が抜け、そして色んな人に愛されるようになりました。
面白いお婆ちゃんになりそうでしたから大変残念ですが、人生は短いという事も改めて教わりました。
そしてこの文を見せたら戦場カメラマンくらいゆっくりした喋り方でこう言うと思います。
「死んだら意識無いから大丈夫なんだよ」
「気持ちはわかるけどさあ、ちょっとキモいよ」
1977年4月3日 生誕
2012年4月 病気発覚
2012年6月4日 全摘出手術
2012年6月23日 私、熊本へ行き、旦那、ご家族へご挨拶
2012年7月 再発
2012年10月1日 入籍
2012年11月 私、熊本へ行く
2012年12月7日 抗がん剤に備えて坊主頭に
2012年12月26日 里帰り
2013年2月10日 父親死去
2013年3月27日 姪、甥、熊本訪問
2013年5月 上京し、ディズニーランドへ
2013年5月 上京し、ディズニーランドへ
2013年10月 松本での闘病に入る
2013年11月13日 見舞い(パタゴニア帽子)
2013年11月17日 井上さんと過ごす
2013年12月2日 田附さんと過ごす
2013年12月4日 見舞い(オーガニックコットンのスウェット)
2013年12月31日 アパートで親戚と年越し(ポリエステルの白いブランケット、白い湯たんぽ)
2014年1月22日 見舞い(猫のプリントのスウェット)
2014年1月29日 見舞い(オーガニックコットンの白いワンピース、母のリクエストにより)
2014年2月10日 21時20分 36歳で死去
2014年2月11日 通夜
2014年2月12日 火葬
2014年2月13日 骨となり熊本へ
2014年2月14日 熊本にて葬儀をして頂く
生前、未熟な妹を可愛がって頂いた多くの方、またお見舞いや葬儀に駆けつけて下さった方々、
本当にありがとう御座いました。
私の最愛の美穂ちゃんをたまに思い出してあげて下さいね。
遠藤康志
生前、未熟な妹を可愛がって頂いた多くの方、またお見舞いや葬儀に駆けつけて下さった方々、
本当にありがとう御座いました。
私の最愛の美穂ちゃんをたまに思い出してあげて下さいね。
遠藤康志