サンファン館に行くことになったきっかけ

 

今年(2018年)11月は東方神起のコンサートのため 仙台に旅行しました。

 

出発前日 滅多に本を読まないのに そういえばとあの人って仙台の人だっけと

 

気になって 遠藤周作の本 『侍』を開きます。

 

なになに 月の浦から出航した。月の浦ってどこだっけ? 仙台に20年前に住んでいた姉に 

 

「支倉常長って知っている?あの戦国時代にはるかヨーロッパに行った人だよ 

船が出航した場所見てみたい」

 

姉 「資料館みたいのあって 昔行ったことあるよ」

 

仙台からさほど遠いわけでなく石巻にあるということで、 東方神起のコンサートが

 

18:30から開演だから大丈夫だろうということで 行くことになった。

 

カーナビでスムーズに来れたが、サンファン館の近くに墓地があったり、周りの民家も

 

新しかったので、東日本大震災による津波の被害ひどかったんだと思いました。

 

支倉常長が生きていた頃の時代背景

 

出航前の1612年に徳川幕府が既にはキリスト教禁止令を発令していたが、

まだ東北地方ではそんなに厳しくなかったんだと思う。

 

支倉常長とは何をした人 

伊達政宗のメキシコとの通商が行えるようにと

特命を受けて大使となって慶長遣欧使節団を作ってソテロと言う宣教師と

 

共に1613年にヨーロッパ(メキシコ経由してフランス イタリア スペイン)に行った侍。

 

通商の条約がスムーズに行えるように便宜上クリスチャンとなり、

 

スペイン国王やローマ法王とも謁見してくる。

 

ローマ市民権をもらったり 貴族にもなっている。

 

前半は歓待されたが、航海期間や滞在期間キリシタンの弾圧が

 

激しくなっていき、日本に滞在している宣教師たちの手紙などから

 

伊達政宗は奥州の王であって、日本の王でないこと、

 

日本の王である徳川幕府はキリスト教を激しく弾圧していることが伝わり、

 

雲行きが妖しくなり、通商のはっきりした返答はもらえず、

 

1620年帰国

 

その翌年、1621年病死。

 

人となり

秀吉の命令で正宗と共に朝鮮に渡って戦に参加←

(海外経験があって航海術が長けていたのでは)

 

屋敷 土地を所有する領主

 

正宗を警護する火縄銃隊の隊長 思慮深く 品位のある人物←

(アマーティという歴史家が『使節記』という本に記載している)

 

 

昔の日本人だからやはり背は低いけど、愛嬌のある可愛いい顔立ちだと思う。

 

これで性格が謙虚で思慮深いとなれば向こうの人たちにも好かれていたのでは

 

着物は今見ても 十分素敵な柄 センスあるわあ

 

遠藤周作の『侍』では この人が便宜上でクリスチャンとなったのを 上に申し開き

できないということで処刑されることに。

 

処刑が決まった日 ずーっと辛苦を共にしてきた寡黙の家来が

「ここからは・・・あの方(←イエスキリスト)がお供されます」というのよ。

ここがあの小説の中で一番好きな箇所。

 

大航海の後だから 体弱って病気になって死んだのかもしれないけど

死因はっきりしてないから 案外処刑されているのかもしれない。

 

資料館の蝋人形の展示

(常長・伊達政宗・ソテロ)

 

展示場 滅茶苦茶怖かったゲッソリです。

 

伊達政宗の独眼を忠実に再現してました。

 

なんで眼帯しないのかなあ

 

霊感のない私でも尋常でない雰囲気感じて逃げ出してきました。

 

霊感のある姉はよくあんなとこ入っていくなあと見てたそう。

 

受付に行って

「人形が怖いチーン。なんであんなに怖いんですか?一緒について案内してほしい」

と頼んでみる

 

受付嬢

「蝋人形もだんだん古くなって顔が怖くなってしまったんです」

 

やんわり断れ、せっかく来たのにでも怖くてはいれない、どうしようと悩む。

 

そこへ老人クラブのおばあさん達一行が現れます。

 

老人相手の仕事していますが、

 

生まれて初めて おばあさんが愛おしく感じました。

 

その一行に紛れて展示場へ

 

おばあさんたち

「人形がしゃべるんだってさ」と、のどかでした。笑い泣きホッ

 

慶長使節船の「サン・ファン・バウティスタ」復元船

 

資料館で買った本によると 支倉常長が書いた19冊の日記が存在してたそうです。

 

行方不明だそう。

 

今の時代 行ったことのない国に行っても予め ネットやらテレビで簡単に

 

情報収集できるから全く新しい体験と映らないだろうけど

 

あの時代は見るもの、聞くもの、食べるもの 全てが新鮮で感動と驚きだったに違いない。

 

スペイン語もかなり喋れるようになってただろうし。

 

常長の目を通してどう感じたか読んで見たかったですね。

 

それから 慶長遣欧使節団の中には日本に戻らないで残った人たちがいて

 

その子孫となる 日本を意味するハポンという姓を持つスペイン人が 

 

600人くらい セビリアの近郊にある「コリア・デル・リオ」にいるそうな。

 

国際的なロマンスがあったんですね。きっと。

 

通商を行ってよいという許可はもらえなかったかもしれないけど

 

今だったらそれを失敗というかなあ。

 

条約結ぶときって何回も話し合うものでないかしら?

 

あれはあれでよかったのではと私は思います。

 

常長が死んだあと 息子やその家来がキリシタンで処刑されたことから

 

この人は隠れキリシタンになって家族に伝道してたんだなあと思いました。

 

サンファン館 心霊スポットのようだったけど、あまり知られてない

 

日本の歴史を勉強することができました。ありがとう!