はじめましてっと挨拶すのはおかしいかもしれませんが....
約4年分のブログを削除しました。
アメブロは、高校生の頃にガラケーで始めて伝えられない思いや自分の素直な気持ちを書く場所でした。
そして、何度かアカウントを削除して続けてきました。
気づけば、もう10年以上続けています。
今回は、アカウント削除ではなく記事の削除にてリセットをさせて頂きました。
いろんな思い出と写真がありましたが、また更新していきますので改めまして宜しくお願いします。
<今回の名前の由来♪>
「MWP」は、私自身の名前の頭文字と普段家で呼ばれているあだ名の頭文字なんです。
「W」が入っているのは、その頭文字が一緒の人がいて私の大切な人なので新規一転にいいかなと思い入れてみました。
「...m」は、私がセラピストとして活動する時の名前の頭文字です。
今は、ちゃんと活動ができていませんが、これから先ちゃんと前を向いて進んでいきたいので
プライベートブログではありますが、少しだけ皆さんにもお伝えできたらなって思いで「...m」と入れました。
<★自己紹介★>
今まで、10年以上利用してるのに自己紹介とかしたことがなかったな〜とふと思いまして
私自身の紹介をしてみたいと思います。
せっかくブログなので、やや詳しく書いていきます♪
お付き合い頂けましたら光栄です。
名前
●プライベート
名前:みな
よく、「みい・ちび・にゃーこ」って周りに呼ばれています。
※家族は、小さい頃から「ぴーちゃん」と呼んできます。笑
これで、「MWP」の頭文字が分かりましたか?
●セラピスト
心久と書いて「みく」と読みます。
この名前は、友人と一緒に考え思いが詰まった名前です。
※セラピストのことについては、また今度書かせていただきます。
出身(青春時代)
千葉県の西船橋で生まれました‼︎
ですが、千葉を転々としておりましたので、西船橋にいたのは幼稚園を卒園するまでです。
小学校は、千葉ニュータウン中央
今じゃ、いろんな施設ができ栄えているところになりますが....
私がいた時は田舎....空き地ばかりのところでした!笑
中学校は、鎌ヶ谷
梨畑が多くて、私の通う中学校は梨畑に囲まれているところでした。
その為、授業の一環で梨園へ行き梨の収穫までのお手伝いをしに行くことがありました。
また、日本ハムの球場が近くにありダルビッシュ有やハンカチ王子の斎藤くんなどが
練習しに来ていました。
高校3年生は、埼玉県の和光市
高校は、千葉でしたので今までは自転車で行ける距離でしたが
電車になり片道1時間かけて登校していました。
こんな感じで、幼少期から私の青春時代はいろんなところを転々としながら育ちました。
では、上記の内容を含め自己紹介文スタートしてみます♪
自己紹介文
1989年9月26日(平成元年)
埼玉県出身で会社員の父と
東京都出身・埼玉育ちの母の元に
千葉県船橋市内の病院で私は生まれました。
私には、3つ離れた兄がいます。
なんで、第一子は跡取りとなる男の子!
その次は、女の子と昔の家ではいい感じの流れで生まれた感じになります。笑
兄の出産の時は、頭が引っ掛かり出産に時間がかかったそうなんですが
私は、お父さんが来ることも待たずにすぐ産まれてきたそうです。
なんで、母は私の出産は楽だったと言ってました♪
幼少期
船橋は、社宅で同じ年の子達も多くて社宅の人達とよく遊んでいたのを覚えています。
でも、どんな子供だったか私の中で記憶があまりないんです。
記憶に残っているのは、ディズニーの英語をやっていたり
チャレンジの勉強をしていたり、お菓子作りをしていたこと。
女の子が好きな、おままごとや着せ替え人形とかも好きだた気がします。
お兄ちゃんがどちらかと言うとビビりって、私は好奇心旺盛な感じでした。笑
幼稚園は、大きくて広くて少し自慢できる素敵な幼稚園でした。
兄妹揃って同じ幼稚園に通っていてお兄ちゃんと私は制服が違いました!
中庭に、校庭に、遊戯もたくさんあって、アヒルさんを飼っていたり、中庭にざくろの木があって食べたりもしてました。
最後の方には、図書室もできていました。
幼馴染も同じ幼稚園なんですが、通う方法が違くて幼馴染は徒歩班で、私はバスの一番遅い時間帯の子でした。
クラスも違っていたので遊んだりするのは休日だけでした。
小学校
卒園後は、千葉ニュータウン中央へ引っ越し
新しいお家でワクワクしていた気がします。
お兄ちゃんとドラゴンボールの魔人ブーが変身する時のポーズをした写真が今でも思い出です。
あの時の私たちは可愛かったし、仲良しって感じでした♪
でも、ここでの6年間はいろんなことがありました。
・誰も知らない学校に入学して一から友達を作る
・女の子のめんどくさい所をしる
・家での変化(物が壊れていたりなど)
・母が精神的に崩壊(母が壊れたと思った)
・友達に悪口や嫌味を直接言われる(女の嫉妬を当てられる感じです。)
・同学年のほとんどの男子からのいじめ(見た目問題やもろもろ)
・お兄ちゃんが不良みたいに荒れていく
・父と母の不仲
・離婚と家庭内裁判
・一時、不登校
いろんなことがあり、小学校での記憶はあまり良いことが思い出せず
家族にも人にもたくさん苦しんだのではないかなと思う年ですね。
小学生なのに、なんでこんなにも大人びているのだろうと思うほどの卒業文集でした。
今でも、鮮明に覚えているのは母が壊れたときの状態・私の頭の上で離婚だと喧嘩していた両親の声・父が母に渡すためのお金の束を見せられいろいろ言われたこと・離婚の話し合いでどっちについていくと言われた時・離婚後に父と一緒に暮らしていた家に荷物を取りに行き家具がなく、すっからかんになった家を見たとき・離婚の話でお父さん側のおじいちゃんがはじめて涙を流したこと・離婚の話で母側のおじちゃんの言葉でお兄ちゃんが怒ったこと......今でも、忘れることなく全て覚えている。
楽しかった思い出は、何一つ思い出せない。
いじめられていた時も、考え方が大人だった。
大人は頼りにならないとこの時に知った、先生なんて口先だけだって。
冷静だったな。
自分の思いを言葉にすることができず、離婚のことも自分の気持ちが言葉にできず、ただただ泣いていたのを覚えています。
この時に「どんな時も笑顔でいよう」と決めた。
笑顔でいれば、一人になることはない。笑顔でいれば周りも笑ってくれると。
中学生〜高校生
家族3人になって鎌ヶ谷でスタート
ここは、5年間いたかな〜
ここは、第二の家に出会えて私に自信をくれた場所かな。
・中学生の頃は、ただただ早く大人になりたくて仕方なかった
・女友達にいじめられたり、避けられたりしてた
・家の家事をやるようになる
・母がいなくて兄と二人または、一人
・猫を飼う(私の相棒)
・高校生でバイトを始める
・接客業で看板娘となる
・接客の楽しさを知る
・付き合う人が変わる
・人生初のモテ期
・死にたいと思い、自身を傷つける
・兄が荒れて問題を起こす
・兄の暴力
ここは、幸せだった思い出の方が多いのです!
今の私ができた原点だと思います。
お家のことは辛かったし、納得行かないことも多くて一人で泣いていたり、兄の暴力に嫌になり家を出たりとあったけど、私の相棒猫・にゃんたと出会った。
野良猫ちゃん、小学生が私が通う中学校の帰り道に「飼ってくれませんか」と呼びかけていたのです。
そこを通りかかった部活の先輩から「誰か飼ってあげて」って言われ、しょうがなく少しだけと言うことで私が持ち帰ったのが始まり。
そして、名前を決めるまで家族がにゃんたと呼んでたら、振り向くようになってしまい名前は変えられずにゃんたに!笑
私の青春時代は相棒にゃんたと常に一緒です。
寝る時もお風呂とかも、たまにトイレも♪笑
彼氏が遊びに来るといつも私のベッドの上にいたりと、普段から常に私と一緒に行動していました。
なので、私のことはなんでも知っているかも。
後は、高校で始めたバイトが私にたくさんの自信をくれました。
地元のジンギスカンってお店のオープニングスタッフとしてはじめて働いてお金を稼ぐことを体験!!
元々、人の役に立てることが好きだったため、接客をして喜んでもらう、お客さんとお話をしたり、仲良くなったり、常連客さんになってくれたり、ありがとうやアンケートに名前を書いてもらえたり、年の離れたスタッフさんとの絡みがあったり本当に刺激的で楽しくてバイト先が大好きで私の第二の家でした。
週6とか普通でいました!笑
看板娘として求人冊子や地域新聞にちゃっかり載ってました!
店長にも気に入られ、新店出す時に店長と一緒に説明会や顔合わせの対応したり、接客の教育したりいろんな経験をさせてもらった場所な気がします。
マネージャーさんとも料理やお菓子の勉強をさせてもらい、宿題を出してもらったことについてノートにまとめてフィードバックしてもらったり、本当によくしてくれる方々が多く、お客様を含め本当に可愛がってもらった場所です。
たくさんの常連客の方ができ、会いに来てくださるかもいたり、プライベートでも仲良くしてくださる方やご家族の方もいて本当にバイト先にいることが楽しくて、嫌なことがあってもここにくれば元気になれる場所でした。
スタッフのみなさんが優しくて、仲良くしてくれて嬉しかったな〜。
親の事を考え引っ越すことになり高校2年生で辞めることになり、本当に寂しかったです。
ここで仲良くなったお客様でまだ繋がりある方もいます。
いろんなお客様に、私の笑顔を褒められ、元気になると言って頂きとても自信になりました。
そして、大人になったら絶対接客業をやりなよ〜って言われました。
接客向いてるからやってもらいたいなとか本当に嬉しくて、進路の中に入れた項目でしたね。
引っ越した埼玉県でも、接客のバイトをしてました。
接客は楽しくてやっぱりいいけど、ここでは人間関係で少し悩みました。
そして、おばあちゃん達との生活で今までと違い心配さえたり生活リズムなども違いがあり、居場所もなくストレスを抱える生活ではありました。
この頃、高校卒業後の進路はもう決まってました。
離婚した時から、父に高校卒業後は就職してからやりたいことはやってくれと言われていました。
高校も私立は行くなと、これはお金がかかるからです。養育費とかの関係ですね。
なんで、高校は県立一本でいきましたし、高校卒業後も就職へ。
母は、勉強が好きな私に大学に行って欲しかったみたいでしたが、父を苦しめるのは嫌だったので勝手に就職を選び進めていました。
就職を決めると同時に、一人暮らしの計画を進めていました。
母には、心配な気持ちから反対の意見もありましたが、私が一度決めたことは曲げないと分かっていたのとやってもいない事を出来ないと言われたくなく話し合い、折れてくれました。
バイトで貯めたお金で引っ越しで必要なものは全て自分一人でやりました。
それで、卒業してからは千葉に戻り一人暮らしスタートです♪
※ここからは、さらっと書きますね!笑
18-20歳
初の一人暮らし、楽しくたまらない!
一人の時間があること、誰にも邪魔されない事が幸せすぎて親の元に帰りたいと思ったことはありませんでした。
新社会人、大阪本社の会社でしたので大阪へ研修へ行ってからの東京勤務(営業事務)。
18歳でまだ、右も左も分からない状態でした。
PCもろくに出来ないし、電話も上手くとれなかったな。
東京に配属されて、同期の中で私だけディスクがなくて悔しかた思い出。
派遣のおばさん達にいじめられたり。
でも、負けず嫌いなもので仕事頑張って覚えて見返してやると気持ちでやってました。
平日は、仕事して休みの日は、高校の時にお世話になったバイト先でバイトしてました。
店長が移動してしまうタイミングでバイトは辞めて違うバイトに誘われて、働いてました。
基本、平日は正社員で土日・祝日はバイトと言う感じで接客はずっとしました。
接客が好きで辞められなかったのもあります。
友達とも普通に遊んでましたし、ストレス発散でたくさん欲しいもの買ったりもしてました。
男の人に騙し騙され、ダメ男が好きだったので振り回されたり、いろいろ経験した気がする。
はじめて命を救えなかった苦しみを体験したのもこの年の時期。
家族にも苦しめられて左側の神経をダメにしたのもこの時期か。
でも、はじめて心から好きと思えた人に出会えたのもこの時期。
今でも大好きで大事な友達です。付き合いは、11年目突入ですね♪
若いのでとりあえず遊んでいたイメージ。
21-25歳
少しずつ遊ぶのも落ち着いてきて、仕事も転職をして接客業へ
ここでも、女の人にいじめられましたね〜嫉妬の塊で怖かった〜
メンタルやられた〜
周りにも心配されたけど、皆んなが優しかったから乗り越えられた。
守ってくれる人がいたから頑張れた。
この時も負けず嫌いで見返してやるってなって頑張ってました。
この時期は、仕事や自分のやりたいことや体の限界をいろいろ悩んだ年かもしれません。
・営業実績、全国24位で表彰される
・CSアンケート店舗1位を毎月更新する
・常連のお客様ができる
・教育係担当
・ディスプレイリーダーになる
・マルチプレイヤーになる
・給料の制度変更が毎年あった
・雇用形態の変更
・ストレスによる自律神経失調症
・食欲低下
・ストレと過労で入院
・扁桃腺を痛め2ヶ月に一回高熱
・ドクターストップ(扁桃腺・声帯・耳)
お金の件でも悩んだし、自分の体がついてこないことにも悩んで、仕事も環境がよくなくて本当に自分がやりたいことって何だろうって悶々としていた時期だった気がする。
この時期も命を救えなかった2度.....
私自身が崩れたのがここの年。
でも、ずっと人を幸せにする仕事をしたいと願っていて、笑顔の連鎖を作りたいと思い何が私に出来うのか分からなくて迷ってました。
26-29歳
声も出なくなり、違う目標も出来たので接客業は辞めることにして転職へ
体のことを考え、事務仕事に6ヶ月戻りました。
けど、やっぱり無理で接客のバイトをすることにしてWワークで働き始めました。
その方が、収入的にも前職と同じくらいにもらえていたので生活も何とかなりました。
27の時にある人の言葉に、涙し私自身も幸せになってもいいんだと気づき幸せになりたいと前向きになりました。
ずっと心のどこかで引っかかっていたようで、無意識に閉ざしていたようでした。
それからは、出会いたい人と出会えたり引き寄せのように繋がりが増えていった気がします。
28くらいで、今の仕事場で人間関係も含め行き詰まり心が崩れていきました。
自律神経失調症になってからストレスや知らない人がたくさんいる大きな会場やセミナーに行くと
発作が起きやすくなるようになり、震え・動悸がありしんどくなることがありました。
現在も、対面的なストレスやセミナーや講習には行けません。
急に動悸がして震え始め、恐怖に襲われます。
頑張らないようにしても、無意識にしていることも多く、ストレスを普段感じられないせいで体がボロボロになってしまうことも。
そして、また救えない命を経験してしまった。
29になり、女としての幸せをやっと考えられるようになりました。
やりたいと思う仕事も明確になってきて事業として動き始めた時に、心が停止。
仕事と自分の仕事の関係で、私自身が限界をむかえてしまった。
苦しいこともあるけれど、周りからの印象など私のイメージは確実に昔から私がなりたいと思っていた姿になっていて嬉しいこともたくさんあった年。
細かく書こうとすると、いろいろあり書ききれません。
けど、ちょこちょこ書いてもこれだけ長くなってしまい、まとまりが悪くなってしまいました。
ごめんなさい。
振り返りながら...
よく、周りから言われる私のイメージや特徴‼︎
いつも笑顔、元気がもらえる、癒される、優しいだけじゃなくてちゃんと怒ってくれる。
苦手でもちゃんと相手のことを考えてあげられること、客観的にものが見れる、頭の回転が早い、猫な性格、天真爛漫、私からしたら嬉しい言葉ばかりになっていました。
芯があって肝っ玉が座ってるとか。笑
私が、笑ってられるのもその時々で支えてくれる人がたくさんいたから、現在も私を受け止めてくれて支えてくれる人がいるから。
いろんな経験をしてきて、いいことだけじゃなく苦しいこともあったからこそ、笑えることや歩み寄って心に寄り添うことができる。
私は、たくさんの人の笑顔と毎日の日常に少しでも幸せを感じる時を作る手助けがしたい。
幸せになれない人なんていない。幸せになるために産まれてきたのだから。
そして、努力したことは必ず報われる。
頑張っていることは、必ず見てくれている人がいるから。
人生一回きりなんだから、やらない後悔よりやって後悔してほしい。
スタートラインは、いつも自分自身が引くのです。
いくつになってもスタートはきれる。遅いや早いなんてない。
全ては、自身のやる気・気持ち次第で物事は全て動き出す。
何もしないで考えるのではなく、挑戦してみる気持ちを一歩踏み出す勇気を持つことが大事!
私が、今までいろんなことを乗り越えてきて感じたことです。
私は、どんな時も前向きていたくて、笑って居たかったのです。
自分のためよりも人のために動きたいタイプで、自分を疎かにしてました。
だからこそ、まずは自分自身を大切にしてダメな自分も受け止めてあげてほしい。
出来ないことがあって当たり前、最初からなんでもできる人なんていない。
出来ないなら、どうするべきか何なら自分にはできるか考える。
そして、自分にもいいところはちゃんとある。
負けないと言える良いところが、自信が一つはあるはずです。
自分に素直になり、心の声に正直に、耳を傾けてあげてほしいです。
そして、日常の小さな幸せに目を向けると毎日たくさんの幸せがあることに気づきますよ。
家族問題・人間関係(女性)・性教育(女性)自分を守る方法
上記内容を専門にセラピストとして活動予定。
女性がより外で輝き、自分らしく楽しくやりたいことができる環境のお手伝いをしたいと思っています。
長々となってしまい、まとまりが相変わらずなくすみません。
私の幼少期から今までの紹介と言いますが、その時々の思い、感じたことになっちゃいましたね。
その時々に、いろんな人に出会い助けられたり刺激をもらい、学んだことで今の私があります。
家族の離婚やいじめでスーパーネガティブの自分は価値がなく死んでもいいと思っていた人生が
今は、ポジティブで笑顔で明るい性格で前向きに人生を歩んでいます。
人は、変われるんです。
全ては、自分次第です。どう選択して進んでいくか。
失敗してもいいんです、全て経験となりあなたの力になるから♪
では、次回からはさら〜っといつも通りに戻りながら更新していきます。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
皆さんの何かお力になれれば光栄です。