死と向き合う時間。

 

 

久しぶりのブログなのに

タイトルが重くなっていますが😂

 

大事なことかなと思って書いてます。

 

 

私の母は癌で2019年に亡くなっていて

その年の秋に父の癌が発覚。

手術と治療でしばらく元気だったんだけど

先月また再発がわかった。

 

 

今回は転移もしているので手術はできず

抗がん剤治療しかない。

 

 

もう余命も宣告されている。

 

 

 

私たち家族の中には

母の闘病と死が色濃く残っていて

生から死へと向かう過程を

みんなで見守った。

 

 

 

生きていて欲しいと願う気持ちと

楽にしてあげたいと願う気持ちと

本人も本当に辛かったと思うし

家族もそれぞれの立場で精一杯やっていた。

 

 

私はと言うと、

母の死が思いのほかショックで

亡くなってからの3ヶ月はほとんど仕事もできず

何かといえばすぐ涙が溢れてきて

母親という存在の大きさに驚いていた。

 

死は決して悲しいことではないと言うけれど

普通に悲しいし、寂しい。

 

ついさっきまであたたかかった身体が

入れものになってしまう瞬間。

思い出すだけでまだ涙が出てきてしまう。

 

 

母がいた気配は至る所にあるのに

もう会えないなんて寂しすぎる。

なんで、こんなに早く行っちゃうんだよ。

 

 

悲しみ、寂しさの反面

人の命に限りがあること

終わりの時は人それぞれであること

長さではなく、どう生きたかが大事だということ

看取りに正解はないということ

残された者はちゃんと生きること

 

たくさんの気づきがあった。

 

緩和病棟に行ってから

たった2週間で母は旅立った。

 

あの時、足の爪を切ったこと

足をマッサージしたこと

イチゴが食べたいって言ってたから

なんとかして食べさせてあげたくて

潰して絞ってスプーンですくって

食べさせたこと

 

何度もありがとうって言ってくれたこと

家族に恵まれて幸せな人生だって伝えてくれたこと

やりたいことはいつかじゃなくて

今やりなさいって言ってくれたこと

 

看取るって正直辛いことの方が多いけど

その時に渡されたものは余りに大きい。

 

生きるって、、、とか

考えてしまう生き物なんだと思うけど

意味なんてなくても

生きてるうちは生きたらいい。

 

 

そして、これから

私は父の死と向き合うことになる。

 

人の死に慣れるなんてことはなくて

なんかの間違いであって欲しいし

生きていて欲しいと願うけど

こればかりは私が手を出せる領域ではない。

 

 

母の死で学んだこともある。

 

 

亡くなってからの手続きは

思ったよりも大変なこと。

 

生前にできるだけ話し合って

亡くなった後のことを

決めておいた方がいいこと。

 

それは私も父も同じことを思っているから

生きている父と亡くなった後のことを

話さなきゃいけない。

 

辛い。受け入れたくない。

でも、今はまだ父にそれは言わない。

 

父だってもう受け入れてるって言ったって

少なからず葛藤はあるだろうし

自分のことで悩ませたくないって思ってるから

私はいつも通りのふりをする。

 

まだ泣かない。父の前では。

 

大丈夫だよ、私がちゃんと見送るから。

 

そう強く自分で決めて

今できることをするだけ。

 

 

父や母から受け取った愛の大きさに

気付くのはきっと終わりに近い頃合いで

遅すぎるとは思うんだけど

こんなにも愛されてきたんだなと。

 

愛されてきた分だけ悲しいし

愛した分だけ悲しいし

悲しみも愛でしかないし。

 

 

これから実家と行き来することも

また増えていきそうです。

 

限りある時間をどう使うか

自分にちゃんと問いかけて行動します。

 

 

とはいえ、私も家族もみんな大丈夫なので

心配しないでね!

 

起きるべきことが起きているだけ。

 

 

みんなもこれ読んでるってことは

生きていると思うので😂

(私を含めてだけど)

 

今、できることを

いつかじゃなくて

今、していこうね!

 

 

 

 

 

海行きたい、、、

 

小浜島行きたい、、、