スポーツの弊害? | JIDAIの「食べて」「動いて」「考えて」

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〜マイムから心と身体の平和を〜心態表現としての身体表現「オーガニックマイム」を主宰しています。

身体能力といいますと、
一般的にはジャンプ力や走る速さなどの数値で表せるもので量りますよね?


けれど、それだけではないと思うんです。



何かと言いますと、ひとつには
どれだけ動きの距離を長いものとして感じられるか?
あるいは、動きの時間を長く感じられるか?です。


ちょっと分りづらいですよね?
簡単にいいますと動きの緻密さです。


例えば、脚を上げるということがあるとしまして、
一般的にはどれだけ高く上がるか?
という客観的なものが身体能力になるわけですけど、
もうひとつの身体能力では高さとは関係なく、
どれだけ動きの道すじや力の変化などを感じ取っているか?
という非常に主観的なものになるんですね。



動きの道すじや力の変化など感じ取り方が繊細であればあるほど、
本人は動きの距離を長く感じますし、時間も長く感じます。
それが動きの緻密さとなって現れるんです。



そして身体能力のもうひとつには、全体性です。
仮に同じジャンプ力だとしまして、それを部分的な筋力で行っているのか?
全体の協調した動きで行っているのか?
ということになります。



部分的な筋力タイプは、そのある部位の筋パワーが強く、
数値化(客観視)できますから非常に分りやすいと思います。
「ああ、この筋肉が強いからジャンプ力があるんだな。」
ということですね。


それに対しまして、全体の協調した動きで行うタイプの場合、
どこの筋力を測りましても際立って高い数値を示すことがないでしょうから、
「どうして、こんなにジャンプ出来るんだろう???」
となるわけです。




これらは私JIDAIがオーガニックマイムのクラス生へのレッスンで
大事にしていることでもあるのですが、

「ようは出来ればいいんじゃない?」という考え方ではなく、”どう出来るか?”こそが命だという考え方
なんです。

見た目の結果だけが大事な人には、理解に苦しむことかもしれませんし、
場合によってはどうでもいいことかもしれませんね。



これはそれぞれの置かれた立場・状況もあるでしょうから、
どちらが正しいというようなことではないのですけど、
数値化出来るような指標でしか身体能力をみない方法は、
他人との競争、あるいは過去の自分との競争
になってしまいます。
競技の世界ですね。



それに対しまして、
もうひとつの身体能力は非常に個人的なものです。
競争するようなものではありません。
動きの緻密さや全体性は(他人に伝わるとは思いますけれど)
いわゆる科学的な実測は難しいでしょうから、
競技になりようがないですよね。



ですから、前者の身体能力を向上させるといった一般的なトレーニングでは、
例えば、ジャンプ力をアップさせるためには、
○○筋を鍛えましょうといったことになりますし、
その結果だけを追うことになりますよね。



けれど、後者の身体能力向上の場合には、
変な言い方ですけれど結果は二の次でして、
自分を発見しいく行為になりますから、
だれもが楽しめる
と思うんですよ。



競技性のあるものですと、
どうしても優劣が大きくクローズアプされてしまいますけど、
個人的なものですと、一般的な身体能力では劣る人でも、
そんなこと関係無く純粋に身体を動かす楽しさを味わえるんですよね。



子どもって、身体を動かすのが大好きですよね?
(抑圧的に育てられていますと、表立って見えてこないかもしれませんが・・・)
あれは、別に身体能力を上げようとしているわけではありませんでしょ?
自分の身体を発見する楽しさを無意識に味わっている
のではないかと思うんですよ。



大人になりますと、
他人との優劣や数値化出来るものでしかモノを見なくなり、
本来誰もが持っている自分の身体を発見していく楽しさを、
失ってしまう。。。







マイムから心と身体の平和を


オーガニックな(生きた)カラダに  http://jidai.mond.jp/