豹(Fahd)の狩猟詩 豹の描写と狩り方を叙す

                                                      アラブの狩猟詩   

キーワード:

アラブ狩猟詩  ラジャズ詩とカスィーダ(長詩)  

一詩行(bayt)は二つの半詩行(misraa')からなる  狩猟では常套句

豹の身体描写  頭部・背腹部・四肢  顎の強靭さ  獅子との比較  

狩りの場面に入る   獲物を視覚に捕らえる  獲物への接近の不格好  狩場の状態

襲い方猛蛇のごとく  獲物との格闘  飢えた捕食者は消化器官が空

猟欲と貪欲の赴くまま  猟の巧みさ・見事さ

 

 

お馴染みの猛獣の豹であるが、アラビア半島にも豹は生息したし、現在でもオマーンやイエメン、パレスチナ(イスラエル)の山岳地帯に僅かに存在する。近現代の兵器の開発や、生息環境が狭められたために、絶滅寸前に追い込まれている。多くの国で自然保護区を設けて絶滅を防ぐ対策をしている。

しかし近代以前にはアラブ世界にも結構生息しており、チーター同様に飼いならして狩猟に用いていた。また成獣になるまでの幼獣は王宮やハレムのペットとしても愛されていた(下の絵を参照)。野性味が強いため、飼いならしや管理がチーター以上に大変であったろう。ちょうど鷹狩りでもオオタカの方が野性味が強くハヤブサさよりも調教が大変であったように。しかしこれからその一篇の詩に叙されるように、アッバース朝黄金期にはその狩猟の事例が多く、豹での狩猟も他の猛獣類、猛禽類と並んで結構盛んにおこなわれていた。

 

筆者はアラビア豹についてはネコの仲間として、2017年8月30日のブログで、テーマをアラブ動物誌「アラブの猫(8) アラビア豹」としてすでに紹介しておいたので。関心のある方はそちらを参照されたい。恐らく以下の叙述の中にも、他の豹と異なる「アラビア豹」としての特徴や性質が見つかるかもしれない。

筆者は文学、民族学、言語人類学が専門なので、そこまでは指摘はできないが、叙述の用いられている特殊な用語については、訳注の中に記しておいた。

 

              Richard Caton Woodville ( 1856 - 1927 )が描くThe Pet of the Harem。

右は拡大図、左は全体図。Aberdeen Art Gallery & Museums(UK)所蔵。Woodvilleはイギリスの画家、イラストレーターであり、英軍が植民地化したイスラム世界との戦争を好んで描いたが、このようなオリエンタリスト画家としての文化面への興味の一面も持ち合わせていた。19世紀後半から20世紀前半まで、まだ支配層や富裕層、高位高官、好事家の間ではアラブ世界でもなお豹をペットとして、また狩猟として使っていたことが分かる。ハレムの女性たちの怖がるなか、豹をその飼育係(右隅)が持ち込んで楽しませている。

 

 

           狩猟詩 豹(fahd)で狩る

原書は『アブー・ヌワース詩集』Diywaan Abii Nuwaas、編纂者Ahmad al-Ghazaaliiでレバノンのベイルートで発刊されたもの。出版日は記されていない。1960年代のカイロ留学時代に入手したもの。al-Tard(狩猟)という分野にまとめられた一篇で、その662-63頁に当たる。

全体10行詩ということになる。しかし細かく見れば、以下に説明するように実は22行詩なのである。

詩の文体はラジャズ調で長長短長拍 /――^―/ の連続で綴られてゆく。通常は一段に一詩行づつ記されて、押韻がはっきり読み取れ、それだけでリズムと審美観を呼ぶものである。

この伝統を踏襲すると、一詩行が短めのラジャズ調(これをアルジューラArjuurahという)であるので、行とページの余白がありすぎることになる。

そこで本格的カスィーダ(長詩)の形式が採られている。1詩行(bayt)は二つに分節されて半詩行(misraa')の体裁をとり、前後のミスラーウからできている体裁をとっている。

したがって独立詩行が前後に二つ並べられているために、必然的にバイト(一詩行)が長くなっている。

ラジャズのもとに体裁を保つ意図があるのか、全10バイトの詩全体の、二か所、中頃の第4バイトと最後の第10バイトには例外を設けている。前後二つのミスラーウ(半詩行)が終わった後、次行に独立した第3のミスラーウを中央に入れ込んだ配置となっている。この二か所のみ破格として第3ミスラーウが設けられ、ひとり真ん中に配されている構造となっている点、注目される。したがって詳細を述べれば22バイト(詩行)となるわけである。ラジャズ詩が10行以上にわたる場合、このようなミスラーウ(半詩行)を中央に配する形式が多い。

 

長詩の場合、後半ミスラーウだけ脚韻を踏めばよいのであるが、ここではラジャズ調であるため、ミスラーウの末語にはすべて脚韻の押韻がなされている。子音/d/がラウィー(rawiy 脚韻文字)となっているから,Daadiyyah 詩である。長詩本来ならば/-di/で終わっているので前半ミスラーウはそのままでよいのであるが、後半詩行の終わらせ方、すなわち長母音化しての/-dii/とされる伝統があった。というのも、それは脚韻の役割、詩行が終わっても、音と意味とを視聴者のための鑑賞の余響、残響とするためである。これもアラブ詩の伝統技法のひとつであった。ここでは前半ミスラーウ(半詩行)でも脚韻を活かし同様に/-dii/とした。

 

 

1詩行目(出だしは定型句、暗いうちに出かける。足場も不如意な道も定かでないところを狩場に急ぐ)

 

    朝未だ早く出立する 雲未だ黒く闇にあり

                     qadi ghtadaa wa-l-laylu ahwaa l-suddii

        いまだ明けやらず 道定かならず探りゆっくり進む

                                   Wa-s-subhu fi z-zalmaa’i dhuu taqaddii

 

*          *      *

 

第1詩行目注釈:

試作品の出だしの一行目はマトラウmatla"(冒頭詩行)と言われ、最も重要な部分である。前半詩行:出だしの定型句「朝未だ早く出立する」qadi ghtadaaとの句は、アラブの叙景詩、なかんずく狩猟詩では常套句であった。というのも暗いうちに出かけ、午前中が狩りの中心であったから、狩りの実際は午前中がその時間帯であるから。

 「雲未だ黒く闇にあり」の中の「雲」はsuddという用語が用いられている。sihaabという普通の雲に対して suddは「黒い雲、黒雲」との意味である。まだ朝日の照らされてはいない。空もまだ。

ahwaaとは色彩において濃い色であり、黒いはaswadであるが、漆黒ahwaaという。まだ漆黒の闇も漂っていることを言っている。黒雲か闇か、といったところ。

「道探りゆっくり進む」のtaqaddaaは「ゆっくり進む」であるが、まだ暗いうちなので、道がはっきり見えず、下の道も凸凹であったり、石ころや岩角が突き出ていたりで、スムーズな歩みができず、探りを入れながらゆっくり前進せねばならない。なお狩りの一行は馬に乗っており、狩り衣装を身に着けているのが普通である。

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第2詩行目 (陽が出て朝日に照らされての豹の描写、先ず頭部、開いた口の牙と顎)

 

     連れ具す豹 その牙 剣の煌めきか 

                         Mithla ihtezaazi l-”adbi dhi l-firnadii

     その顎のなんと幅広なこと 強靭この上なし

                        Bi-ahrati l-shidqayn mubma’idii

 

*            *         *

 

第2詩行目の訳注

前半詩行: まず連れ具す豹の牙の描写。下図の頭蓋骨標本に見られるように、上下の長い牙は普段は口唇によって隠されているが、朝日が当たる中、牙を剥いたのであろう。その長い鋭い牙が剣の煌めきのようにキラリと光ったわけである。

ここでは「剣」が一般語のサイフsayfに代わってアドゥブ ”adbが用いられている。アラビア語は剣の語彙の豊富さで有名であるが、そのうちの一つが紹介できる。アドゥブ ”adbは語根動詞√”adaba が「切り裂く、切り取る」の意味であるから「鋭利な剣、切っ先鋭い剣」の意味で用いられている。この”adb「鋭利な剣」は比喩化されて「舌の剣」アドゥブ・リサーン “adb al-lisaanとして人間界に比喩化されて用いられた。すなわち「舌鋒鋭いこと、鋭い舌鋒」との応用である。

煌めく剣の反射、直訳は「刃紋持つもの」のfirnadは「剣にできる水紋、涙紋、煌めき紋」の意味であるが、この語にも「剣」の合わせ義がある。「刃紋が明瞭な剣」の義である。アラブの剣はダマスカス鋼で製せられる。日本刀の製法とは異なり、きわめてしなやかでありながら切れが鋭い。当然刃紋も日本刀とそれとは異なる。

アラブの剣に関してその「刃紋」にもいくつかの語が知られている。このfirnadの他にも、この語根を別に派生させたifrindがあり、washyy(<模様、文様)、jawhar(<輝石、宝石)、rubad(<灰色)、maa'(<水、水滴)、tariifah(<輝き、瞬き、まぶしさ)、safsaqah(<縞、筋、班)などである。

 

後半詩行:「その顎のなんと幅広なこと 強靭この上なし」。 「顎」shidq、「両顎」shadqaani(ここでは斜格shadqayn)が張って広いこと(ahrat)、および強靭なこと、これらは猛獣類、肉食獣の具えていなければならない要件である。下図参照。

そしてまたしてもこの代表格が<獅子>である。張っていて広い大きな顎を持つ者、すなわちahrat持つ者、それは「獅子」に代表される。ahratの語びたいが「獅子」の意味ともなっている。さらにこの同一語根の他の派生名詞形6種 ①harit、②har'it、③haruwt、④hariyt、⑤harraat、⑥miharrat、いずれも「獅子」を意味を実現している語となっている。

「強靭この上なし」の原語murma’iddは語源がramaad「灰」である。この「灰」から「強靭さ」の意味が派生している。というのも粉でも砂類や土類などと比較しても、一番細かい粒子でできているのが灰であり、それが顎の強靭さの意味になるのには、顎骨の骨密度が<灰>ほどに細かい、緻密な、稠密な<強靭>さの様を言っているからである。

 

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                             豹の頭部とその頭蓋骨

顎の横の出張り方、および上下の牙の巨大さが目を引く。左はUAE の郵便切手の図柄。右はChristian Gross著Mammals of the Southern Gulf、 Dubai(UAE) 1987 p.53より。

 

第3詩行目 (視点は頭部から身体の中心、背腹部の描写へ)

 

力強くあり 背中に筋肉隆々として太し

                Azbaru madbuuri l-qaraa “ilkaddi

      内臓守る腹部またその周囲の腹筋の見事さよ

                                Taawii l-hashaa fii tayyi jismin ma”dii

 

*           *        *

 

第3詩行目の訳注

前半詩行:「力強くあり」の原語azbaru は「身体強健な」の意味だが、語根がzubrah「肩甲骨」に由来するので、「肩辺りの強健さ」のことを言っている。そしてこのzubrah「肩甲骨」の立派さも、猛獣の具え持つ特性なので、「身体強健なもの」azbaru はまたの属性表現として「獅子」の意味を担っている。

「背中」は普通zahurであるが、ここではqaraaが用いられている。「背中、背骨」であるが、より長めのそれを指していわれる。その筋肉、背筋の様が述べられる。

「筋肉隆々として」madbuuri l-qaraa   Azbaru madbuuri l-qaraa “ilkaddi madbuurは語根動詞√dabara「肉が積み重なる、筋肉が重なる、縒れる、躍動する」の受動分子であり、それゆえ豹の背筋の「肉が積み重ねられた、筋肉が重ねられた、縒たれた、躍動した」の意味となり、筋肉の躍動感が伝わる。形容詞dabiirも筋肉の様を言い「隆々とした、強固な、躍動した」の意味となる。そして「筋肉の躍動し隆々とした」ものdibirr及びdabuur、mudabbarの派生語があり、躍動感あふれる猛獣の特性とされ、その代表もまた「獅子」であり、その属性を本体の代表の意味を実現している。

「太し」の原語 “ilkaddiは稀語であり、多くの辞書やレクシコン類にも載っていない。『アブーヌワース詩集』を注釈したAhmad al-Ghazaaliiはdakhimの意味であるとしている。(同書p.622) dakhimとは「大きい、肥満している」の義で筋肉が覆いかぶさり太ったように見えるほどであることを言っている。

 

後半詩行:内臓守る腹部またその周囲の腹筋の見事さよ。視点が背中から腹部に移る。

taawii l-hashaa直訳は「内臓を巻く、巻いて守るもの」である、腹部の表皮の強さを言ったもの。 fii tayyi jismin ma”dii「胃も含み、体内の臓器を巻いて、巻きこんで」。その腹筋のなんと素晴らしいことと!taawiiもtayyiも同一語根動詞√t/w/w、または√t/w/y「巻く、折畳む」の派生形容詞。

 

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第4詩行目 (描写は再び豹の頭部に戻る、2詩行目に続けて頬と顎の細部描写に。そして最後に四肢へと移る)

 

第1半詩行: 頬の血管浮き上がり悍(おぞ)ましいほど

                    Karhi r-rawaa jammi ghuduuni l-khaddi

 第2半詩行: 筋金入り、顎骨の根元の筋また黒々し。

                         Duraamizi dhii nakafi miswaddii

 第3半詩行: 四肢の趾爪荒々しくも駿足を増す

                                           Sharnabathu Aghlaba musma”iddii

 

*            *        *

 

第4詩行目の訳注

この4詩行目は破形で、普通では1詩行(bayt)は2つの半詩行(misraa')からできているのであるが、このバイトは3ミスラーウからなっている。最終詩行の3ミスラーウ目は一詩行(バイト)分を採り中央に配されている。この3半詩行目は視点が豹の脚の四肢に移る。

 

第1半詩行:頬の血管浮き上がり悍(おぞ)ましいほど。「血管」と訳した原語riwaa。「水の潤沢さ」が直義である。が、ここでは頬(khadd)に多く浮き出た血管(ghuduun<単数はghadn、およびghadan、原義「皮膚の皴」)の血流の良さをいったもの。筋骨逞しいその浮き上がり方は、見た者に恐怖や嫌悪を与えるほど。

 

第2半詩行:「筋金入り」の部分は前の頬の血管の描写の続きである。原語dulaamizは「強力な、強靭な」の意味であるが、その強さが原義の「悪魔や魔神」ほどもあること。善意の意味でも用いられるが、猛獣であるので連想として悪鬼の方に行ってしまう。

nakafは「顎の付け根、頬骨の根元」、上顎に生える長い白い髭(lahy顎髭。複数形はalhiyy及びluhiyy)の密になった顎の稜線を形成して黒々とした(miswadd)筋となっている。口元も一般には黒い。獲物を食らい付くときの最重要部分。

豹の顎は強靭で枝も張った木があれば、その獲物を顎で引きずる上げ、他の食肉獣の接近、横取りを許さない。

 

第3半詩行:四肢の趾爪荒々しく万能、一旦放たれれば追い足も駿足

                                    Sharnabathu Aghlaba musma”iddii

四肢の趾爪荒々しくの原語sharnabath。この語は普通の辞書類には記載されておらず、稀語である。注釈者ガッザーリーのよれば「両手、両足、四肢の鉤爪の粗

雑さ、荒々しさ」を言う、とある。その「四肢の趾爪」は頑丈で荒々しくもあり、「万能」aghlab、直訳は「より優れ、より力強く、より有能な」、形容詞ghaalibの比較級である。豹の歩み方、歩様の足跡を下図に示しておいた。

「一旦放たれれば追い足も駿足」の原語musma”iddは能動分子で、動詞形はisma”addaであるが、この語も稀語であり、手元の辞書類には見つからない。注釈者ガッザーリーによればintalaqaと同義とある。「襲歩でダッシュする、猛追する」の義とあり、さらにmusma”idd「襲歩でダッシュする、猛追するもの」とは、やはり猛獣の代表<獅子>の属性でありながら「獅子」自体も意味する、とある。

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                             豹の全体像と足跡 

左はオマーンのサムハーン自然保護区に生息するアラビア豹。図はそのパンフレットの表紙。右は豹の四肢の歩様の足跡。Christian Grossの上掲書p.53より。

 

 

第5詩行目 (その猛獣性はついに<獅子>を直接引き合いに出して、豹の体つき、全体像を描写する)

 

      それ獅子に他ならぬ 表皮の斑紋無ければ

                   Ka-l-laythi illaa numratin bi-l-jildii

      痩身の体つき 身構え鍛えられてあり

                                       l-sh-shabhi l-haa’ili musta”addii

*             *          *

 

第5詩行の訳注:

前半詩行:

「それ獅子に他ならぬ」Ka-l-laythi 。直訳は「あたかも獅子のごとく」。ついに百獣の王、獅子を直接登場させる。ライスlaythは「獅子」。

「獅子」の数ある名称の内、ライスlaythはアサドasadと共に代表語である。laythの原義は「強力、不屈、勇敢」である。が元々は「獅子」のイメージが先行しており、その属性が「強力、不屈、勇敢」の義となった。元型動詞√laatha<layatha及びlayyatha以下の派生動詞もすべて「layth(獅子)である、laythの如く振舞う、laythの如く強力、不屈、勇敢である」の意味を実現しているからである。派生動詞laayathaは「獅子を競う、獅子のごとき強力さ、不屈さ、勇敢さを競う」の義。またその派生形容詞alyathuは「獅子の、強力な、不屈な、勇敢な」を意味している。ライスもアサドも男性の人名に採り入れられている。 

「表皮の斑紋無ければ」豹は獅子になる。なるほど! しかし体形も頭部も少し豹の方が小さいが…。第1半詩行「斑紋」の原語 numrahは「豹紋」であり、この詩で表題の「豹」はファフドfahdが用いられているが、もう一つの代表語はニムルnimrの方がよりポピュラーである。

 

後半詩行:「痩身の体つき 身構え鍛えられてあり」

「体つき」の原語shabah は「個体」の義であり、シャフスshakhs(個人)と同義。但し「四肢が明瞭な個体、体つき」の義で、人間以外の個体に用いられる方が多い。「痩身の」の原語haa’ilは「状態(haal)の変化」であり、体が元の状態よりも引き締まる、筋肉が鍛えられて、細身になることを言っている。「鍛えられてあり」の原語 musta”addは「用意ができている、準備済みである」。身構えも狩りの訓練に費やされて、体つきもでき、鍛えられいつでも狩ができる状態になっている。

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第6詩行目(いよいよ狩りの場面となる。獲物を視覚に捕らえての動作の描写)

 

      視線遠くに伸ばし獲物見つけるや凝視し動かず

                        “Aayana ba”da n-nazari l-mumtaddii

      スッと背を低めて頭のみ高く伸ばし様子窺う

                                          Sarabiyna “annan bi-jabiyni saladii

 

*           *        *

 

第6詩行の訳注

前半詩行「視線遠くに伸ばし獲物見つけるや凝視し動かず」

「視線遠くに伸ばし」の原文ba”da n-nazari l-mumtaddの直訳は「長く伸ばされた視線の後で」。「獲物見つけるや凝視し動かず」 “aayanaは「目」“aynから派生した動詞で「凝視する、じっと見る」であり、「監視する」の方が近い。獲物のことには触れないが、その視線の描写からその先の一点、すなわち獲物の様子を凝視して動かずにいるのは明らか。

 

後半詩行「スッと背を低めて頭のみ高く伸ばし様子窺う」

獲物からは見えない様に身を屈めて狙い定める。「背」の原語 “annan はa‟naanの異形で、「木々の頂、天辺」が直義であるが、ここでは豹の描写であるので、その四足歩行の頂、すなわち「背中の頂、背骨」zahrのことを言っている。その背中を「身を隠すように低める」sarabiyna。

「頭のみ高くす」の原文の直義は「頭を高みに上げて」。jabiynは「頭」、厳密には「額」、額の下には様子を窺う目がある。saladは「高みの方へ上げる、昇る、登る」こと。

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                                             豹全体像2点。

左は高見より下の狩場の様子を窺う当たる。UAE の郵便切手の図柄より。

右は藪の中の塒であろう、視線は近づくものを見て警戒態勢に入ろうとしている。Christian Grossの上掲書p.53より。

 

 

第7詩行目 (獲物に狙いを定め、身を潜めながら相手の様子に合わせて止まったり進んだり。四肢の歩みが一定でなく不格好、追いつける距離になったら、猛ダッシュ)

 

        攻撃態勢に入り 機会到来とばかり突進せんとす

                         Fa-nqadda ya’duu ghayra mujrahiddii

        熱血となって追走 されどその途中のなんと醜き様ぞ

                                           Fii lahbin “an-hu ea-khatala iddii

 

*          *        *

 

第7詩行の訳注

前半詩行:攻撃態勢に入り 機会到来とばかり突進せんとす

「攻撃態勢に入り」の原語inqaddaは「攻撃する、突進する」、語根動詞√qadda<qadada は「突き刺す、突き砕く、破壊する」。

「機会到来」の原語ya’duuは「準備する、準備整う」いつでも飛び出せるような態勢に入る。「突進せん」の原語 mujrahiddiiは動詞ijrahadda「鍛えられた脚力で走る、歩む、脚の伸びを広く、速度・回転を速くして急ぐ」の能動分子形。

 

  後半詩行:「熱血となって追走 されどその途中のなんと醜き様ぞ」

追走に様。体中に炎(lahab)を迸(ほとぼ)らせて獲物の逃げるのを猛スピードで追う。しかし獲物の方も急に方角を変えたり、ジャンプしたり、障害物を利用したりして逃れようとする。すると追う豹の方も、獲物の動きに応じて対処すべく、滑らかな動きができずに、不格好な態勢となる。傍から見ていると、それが「なんと具恰好な醜き様ぞ」と映る。iddは「突然生ずる醜態、災難、不幸」、豹に起こった醜き様。

しかし我が国でも「豹変」という如く、豹は変り身が早い、これはこうした動作においても言えるのであろう。

 

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第8詩行目 (追跡では見ている者に不格好は見せても、獲物に猛接近、食らい付き方は見事、。狩場の状態が何処であろうとも)

 

       襲いかかるぞ丈しき猛蛇のごとくに

                      Mithla insiyaabi l-hayyati l-“irnadii

       どんな高みであろうとも、どんな窪地であろうとも

                                       Bi-kulli nashzin wa-bi-kulli wahdii

 

*          *       *

 

第8詩行の訳注

前半詩行:「襲いかかるぞ丈しき猛蛇のごとくに」

「丈しき蛇」insiyaabi l-hayyati の「丈しき」の原語insiyaabは「nasab(系統、家系、血筋)が由緒正しい」の意味であり、動物を捕食する蛇にとっては「高貴さ」=「猛々しさ」である。蛇は大きな口を開けて獲物を飲み込もうとする。豹は口で噛みつき牙を深く刺すそm/、同時に前足で胴体を抑え、その鉤爪を深く突き立てる。

「猛蛇」の原語al-hayyati al-“irbadiiの“irbadとは「あらゆる動作において並みでない,強力、猛々しい」ことを表す。この語は蛇の属性と有契であり、“irbadの最後の子音をダブらせ、“irbaddと語形成させると名詞「猛々しい蛇、猛蛇」そのものの意味を実現する。            

 

後半詩行:「どんな高みであろうとも、どんな窪地であろうとも」

一旦襲ったら、相手を仕留めるまで戦いを続ける。その狩場がたとえどんな「高み」であろうとも、「窪地」であろうとも。獲物を得るには場所を選んではいられない。「高み」          nashzはnashaazとも言い、「高いところ、突きでた地」の義。また「窪地」wahdは「低い地、窪んだ地」。この同語根の他の派生名詞にawaahidがある。一か月にも「窪地」awaahidがあり、月が窪んで出る、下弦の月から上弦の月までを言うが、限定して新月、朔日を指すことが多い。

 

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第9詩行目 (獲物との格闘、獰猛に食らいつく、情け容赦なく、その凶暴さは有利な状況であれば倍加する)

 

       飢えた捕食者のごとく襲う狂暴さ増し

                      Hattaa idhaa kaana kahaafii l-qasdii

       平地であればあるほど切り裂き食らう度合い増す

                                      Sa”sa”a-haa bi-l-sahsahaani l-jurdii

 

*          *       *

 

第9詩行の訳注

前半詩行:飢えた捕食者のごとく襲う狂暴さ増し

「飢えた捕食者」 kahaafii l-qasdiiの原文は面白い。「空腹、飢餓丸出しの空洞持つ者」である。激しく飢えたものは、食道や胃腸などの消化器官の管に何もなくなり、空っぽ、空洞、洞穴(kahf)の状態となる。わが国でも「空腹」との類似表現がある。その分、捕食にありつけたので、襲い方もまた一段と力が入り狂暴さの一層増すことになる。狩りに行くときの前日からの餌遣り分量は難しい。鷹狩りの鷹もそうだが、豹の飼育係の腕次第であり、慣らしていもしても空腹・飢餓の状態だと、野生味の強い豹はなおさらである。下手をすれば人間を襲う可能性すらある。鷹狩りの場合空腹・飢餓も状態を腹の胃に部分に当て、様子見をする。「口餌」と言って少量の餌を与えることが多い。平地であればあるほど切り裂き食らう度合い増す

 

後半詩行:平地であればあるほど切り裂き食らう度合い増す

「切り裂き食らう」の原語 sa”sa”aは畳語動詞であり、いかにも擬態語らしい。わが国ではバラバラであろうが、アラブ世界ではサアサアとの擬態語となる。サアサアと「(固体のものを食い千切り)散らす、振り撒く、バラバラにする、分散する」の意味である。注釈家のガザ―リーはfarama「切り刻む」と同義とする。

詩人はこの後詩才を発揮して同韻に近い同じく畳語sahsahaサフサハを用いている。サフサハは土地、地面がガランとして「滑らかになる、平らになる」との動詞の名詞形の双数表現sahsahaani を用いている。総数は「高み」であれ「窪地」であれ、「平地」であれば、との含意。後接語のjurdは形容詞ajrad「裸の、平の、無毛・不毛の」の複数形である。ガランとした裸地であればあるほど、捕食後の処理も楽にになり、辺りに獲物の千切れた皮や骨が散らかる。

 

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第10詩行目(すでに自分の捕らえた獲物は、猟欲と貪欲の赴くまま、仕留めて、止めを刺す。この猟の巧みさ・見事さは他に例えられない)

 

第1半詩行: 獲物に食らいつき仕留めてもなお貪欲の赴くまま

        "aatha fii-haa bi-fariighi l-shaddii

第2半詩行: 貪欲さと容赦無さとの両欲のなんと激しく度を超えたことか

      Ba”da shariijay tama”in wa-hardii

第3半詩行: 豹を除いて猟術にこれほど長けたものが他にあろうか。

Laa khayra fi s-saydi bi-ghayri fahdii

 

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第10詩行の訳注

最終詩行。この詩行も3ムスラーウ(半詩行)から成り立っている。

第1半詩行:獲物に食らいつき仕留めてもなお貪欲の赴くまま

    "aatha fii-haa bi-fariighi l-shaddii

アーサ"aatha は「危険を及ぼす、危害・損害を与える、仕留める」であり、その行為者アーイサ"aa’ithは捕食者であれば、「そのもの狂暴につき…」となり、その典型例がやはり「獅子」であり。その代名詞となっている。アーイス"aaythの他に派生形 "ayuuthとも"ayyaathともいわれて「獅子」の意味を担い、男の人名にも付せられることは多い。bi-fariighi l-shaddiiの句のfariighの意味は、一つは「空腹の」食欲であり。もう一つは「牙の鋭い」であり、肉を食い千切り、貪欲に食べ散らす。fariighi l-shaddiiは空腹の激しさ。食い散らかすように食べる貪欲さをいっている。

 

第2半詩行:貪欲さと容赦無さとの両欲のなんと激しく度を超えたことか

 Ba”da shariijay tama”in wa-hardii

「欲望の同類二つ」食欲の強欲と猟欲の容赦無さという二つの同類の欲望(tama”)。shariijay はshariij「同様なもの(mathal)、同類なもの(naw")」の双数形の斜格shariijaynで後続語がある場合、双数形語尾の/-ayn/の最末子音/n/が省かれる形。

hardは「容赦・呵責するところをしない、そこまでしてはならないことをしてしまう、限度を超える、容赦無さ」の義。ここでは相手を仕留めればよいのであるが、死んでもなおその容赦無さを欲の赴くままに。

豹は前肢の強靭な肢爪で獲物を捕らえ、蛇の如く大口を開いて長く鋭い牙を深く突き刺す。後半身だと必死の獲物に振り切られる恐れがあり、前半身、できれば喉笛に噛みつけば申し分なく短時間で仕留めることができる。が、そうでない場合は前肢や鉤爪、体全体を使って、獲物の動きを封じて深手を負わせるてから喉笛を噛みつき窒息させるか、出血多量死に導く。そして皮から引き裂いて、引き千切って、肉にありつくわけである。

 

第3半詩行は最終詩行なので総括。豹の狩猟術の賛美で終わる。

   豹を除いて猟術にこれほど長けたものが他にあろうか。

Laa khayra fi s-saydi bi-ghayri fahdii

直義は「猟において豹を除けば優れたものはいない」。聖典クルアーンの定句タフリールLaa ilaaha illa LLaahu「アッラーを除いては神は無い」の文体を応用している。

 

以上。