天の牧場と牧場柵 天界の第二アグナームの続き

   琴座β星ヌサカンNusakanの問題 

            天界のガナム(羊とヤギの混成群)たち(3)

キーワード:

天の牧場  牧場マルジュmarj  マスウーディー著『黄金の牧場』

牧場ラウダrawdah   サウディアラビアの首都リヤードal-Riyaad

預言者のモスクにあるアッラウダar-Rawdah

「天の第二牧場」の牧場柵 Nasaq al-Samaa’  

その広がりは蛇座、蛇使い座、ヘラクレス座、琴座に跨る

「南のナサク(牧場柵)」Al-Nasaq al-Yamaaniyy 

「北のナサク(牧場柵)」 Nasaq al-Shaamii

「南北の囲い、両柵」ナサカーンal-Nasaqaan

ナサクnasaq(牧場柵)の原義  

南のナサク(牧場柵)蛇座と蛇使い座の中

蛇使い座α星ラーイーal-Raa”ii(羊飼い)β星カルブ・ラーイーKalb al-Raa”ii(羊飼いの犬)

ナサク・シャーミー Nasaq al-Shaamii 北の牧場柵

「蛇座」の頭部β星からヘラクレス座、琴座を結ぶ

冠座  南北二つの冠座  北の冠座β星ヌサカンNusakanの問題

 

 

      天の牧場(Rawdah al-Samaa’)

遊牧民の多いアラブは、身近にアグナーム(羊とヤギの群れ)やラクダなどの放牧家畜が存在するので、天界にも星や星座として親しく名づけていた。放牧主体なので、当然家畜たちの草を食む牧場(al-Rawdah )も存在すると考えて、天の牧場を設定していた。

「牧場」の一般語は二つある。ラウダ(牧場)とムルジュ(murj)とである。主体はラウダの方にあるので後者の方から簡単に説明しておこう。

 

    1マルジュMarj 「牧場」

「牧場」の語マルジュMarjを説明しておく。この語も複数形ムルージュmuruujの方が馴染みである。というのもイスラム史やアラブ文化を習うものは、バグダード生まれの文人マスウーディーal-Mas"uudii(896-956)の代表作『黄金の牧場』、アラビア語のタイトルではムルージュ・ザハブ Muruuj al-Dhahabとの百科全書的な書物のいくらかは学ぶはずであるから。マスウーディーは、その当時としては知識の牧場を求めての放牧=旅を広く行った。未知のマルジュⅿarj(放牧場)は留めを知らず、次々と新たな知を求めて複数のⅿuruujに行き着くことになる。東はペルシャからインドへ、西はシリアやエジプト以西へ、北はアルメニアからカスピ海へ、南はアラビア半島南部、マダガスカル島まで踏破している。こうした地理地誌情報も、また博学な知識経験も、後世の学者の範となっている。

 

マルジュⅿarjおよびその複数muruujの語義を探ると、放牧、放牧家畜が意味主体となることが分かる。マルジュMarj「牧場」の語根動詞√maraja は「自由気ままに牧草を食べる。家畜番が放牧地まで家畜を連れて行き、放牧地で好き勝手に牧草を食べさせる、番人が帰って来ていなくても」、「家畜番がいない放牧されている家畜」などと訳されてもいる。

派生動詞amrajaは他動詞で「牧場で自由に牧草を食べさせる」。名詞マラジュmaraj「放牧家畜が牧場で自由に牧草を食べること」、特にラクダに対して「家畜番がいないのに好き勝手に牧場を動いて食べ歩くこと」。

但し「牧場」と言えば、草木は生えるが、喬木は見られない、そうした牧場である。従って農業には適するほどの降雨量がないか、土壌が農業に不適であるのか、また乾季が一時期なのか長期にわたるのか不定期な土地である。しかし、雨期には降雨があり、ワジ(涸れ川)には水流が見られ、草花も見られる。牧草も生育する。牧場には向いているそうした土地を言う。

牧場ラウダrawdah、あるいはマルジュMarjが設定され、定期的利用が可能とり、その範囲もある程度常習的に、また経験的に固定されてくる。そうした段階で、危険性がある地域ではそれ以上にはゆかないように「柵」nasaqが必要となる場合がある。

 

   2 ラウダrawdah(牧場)の語義

二つ目の「牧場」はラウダrawdahと言うのであるが、上に述べてきたように、天界の牧場もこのラウダが用いられているので後に述べることにした。先ずラウダrawdahでお馴染みのものから紹介すると、この複数形がリヤードriyaadである。固有名詞としてサウディアラビアの首都リヤードal-Riyaadがこれである。したがってリヤードは、語義の元の糺せば、「ラウダ(牧場)の集まり」ということになる。

ラウダは時には水が豊かのところでは「庭園」と訳されることもある。「庭園」の一般語は植物の繁茂する「植物園」の意味でハディーカhadiiiqahと、また果物主体の庭園は「果樹園」の意味でブスターンbustaanと呼ばれる

ラウダrawdahの方は一口に言えば「牧場」であるが、水や水分があり、牧草が得られ、「放牧が容易である場」である。このラウダrawdah「牧場」が中心で家畜も放し飼いがされるような広い「庭園」も意味の中に含まれる。食草豊かな牧場ラウダrawdahは家畜たちにとっては心地よく過ごせる場である。それは飼育管理する人間にとっても同じである。

 

「私は、あなたのところにいると(心地よく)どこぞの牧場にいるようだ」Anaa “inda-ka fii rawdatinというような言い方をする。客人として快い扱いを受けると、そのホストに対して客はこのような表現をする。同様に:

「あなたの客間は天国の牧場もかくやと思わす場となっている」Majlisu-ka rawdatun min riyaadati al-Jannahとの表し方も行う。

「牧場の中で見いだされる卵ほど美しいものは無い」Ahsan min baydatin fii al-rawdah

                         MaydaaniiⅠ229、Askarrii Ⅰ399、Mustaqsaa Ⅰ67

 

この有名な諺は、アラブ、特にベドウィンは緑の中に清らかな白さを見るのが好みであった。一面広がる緑草の中に、一点清らかな白い楕円形が見いだされたときの高揚感、色彩と造形とは感動を呼び、その絶妙さの美が胸に刺さるのであろう。

サウジアラビアの国旗は緑の地に信仰告白の誦句が白色で抜かれているし、モーリタニアの国旗は緑の地に月星が白色で描かれている、のもその好みを反映したものであろう。

 

       預言者のモスクの中のラウダ

ラウダrawdah「牧場・庭園」を固有名詞にしてアッラウダar-Rawdahというと、メディナ

の預言者のモスクの一角を指す。そこは預言者が最初に一部を住居としたところでもあり、信者に説教をしたり、会談や協議をしていたところであった。モスクのミフラーブ(壁龕)の前、ミンバル(説教壇)の横手にあった。死ぬ以前から預言者はミンバル近くに自分の墓を立ててくれるようにように教友たちに頼んでいた。またかねがねモスクの中の、己の墓とミンバルと己の住居(預言者の住まいはモスク内のここに近い場所にあった)は「天国の牧場」Rawdah al-Jannah である、とも述べていた。預言者の死後、そこに墓が建てられ、その辺りをラウダとして、最も聖なる場所となって、参詣者を集めている。預言者の死後カリフとなった第1代カリフのアブーバクルも首一つ低い位置で埋葬され、第2代カリフ・ウマルもそのまた首一つ低い位置に並べられて埋葬されている。現代でもメディナの預言者モスクもラウダの地域には緑色のドームが特別に設えられている。

上左図はメディナにある預言者のモスクの奥陣にある一角ラウダal-Rawdah。中央がミフラーブ、左が預言者の墓。左手の柱の奥に見えないがミンバル(説教壇)がある。

右図はラウダの一角を占める預言者の墓。預言者ムハンマド、第一代カリフ・アブーバクル、第二代カリフ・ウマルの墓が収められている。最もバラカ(聖威力)がある霊場と見做されている。いずれも筆者所蔵の資料から。

 

 

      天の牧場柵 Nasaq al-Samaa’

ナサク(牧場柵) ナサカーン(両牧場柵)

上に述べたように天には二つの牧場があり、その第二牧場にはその境界を示す柵が連なっているとして、その牧場柵(al-Nasaq)をも設定している。「天の第二牧場」もまた北天にあるが、ずっと南にあり、その一部は天の赤道を跨っている。星座でいえば、蛇座(上半身と下半身)および蛇使い座、ヘラクレス座、さらに琴座に跨って配されている。ベドウィンは今日われわれが知る星座とは全く異なる、彼らなりの遊牧生活に密着した雄大な星座を作っていたのである。

 

 牧場柵・ナサクには二つあり、「南のナサク(牧場柵)」Al-Nasaq al-Yamaaniyyと「北のナサク(牧場柵)」 Nasaq al-Shaamii (またはal-Shamaalii)とである。また両者を合体した「南北の囲い、両柵」の意味でナサカーンal-Nasaqaanとの用語も定着している。

                       

アラブ世界では近現代の星座像「蛇座」、「蛇使い座」、「ヘラクレス座」「琴座」は、それらとは全く無関係な別の星座も作っていた。遊牧民的発想から「蛇座」の上半身に牧場柵(nasaq)の出入り口が設定されていた。その両柵の間が「牧場」(rawdah)である。牧場に点々と散らばる星々を牧場に散るアグナーム(羊とヤギの群れ)と看做していたわけである。

星座の主星α星及びβ星が、それらを見守るラーイー(羊飼い)とカルブ(牧羊犬)と見立てていた。(図を参照)

南北の二つの牧場柵(nasaqaan)の出入り口。それはこの両牧場柵が天の赤道を二分していて、(恐らく黄道との関連もしていよう)南の星(座)群と北の星(座)群がここを柵の境(nasaq)にしていたからである。

「蛇座」の上半身、下半身、それに「蛇使い座」の中央は天の赤道が横切って南に入っている。黄道十二宮の半分、処女宮から宝瓶宮が南に属していたように、他の天球の星(座)群もまた別の分け方で、ある星ゞをナスク(nasaq境界・柵)と見做していた。ナスクとは原義から述べると、珠玉を首飾りとして通す糸→整列、 一連の列→境界柵、の意味となろう。

星座図に蛇座、蛇使い座、ヘラクレス座、琴座に展開する「天界の第二アグナーム(羊とヤギの群れ)」の牧場、牧場柵、羊飼い、牧羊犬、および関連する冠座のも加えて、筆者が作成したもの。

 

 

    ナサクnasaq(牧場柵)の原義

ナサクnasaqとは、本来の語義は「よく整った(歯列、真珠列)、演説調」であり、それが「よく整った柵、囲い」に転じて、天体の「牧場の境を示す柵、囲い」の意味となった。この語義をもう少し展開しておくと:

語根動詞ナサカ√nasaqaは「真珠に紐を通す、真珠を散りばめる、演説を作成する」が原義である。

副詞ナサカンnasaqanは「規則的に、連続的に」で、意味の髄が分かろう。

これらから押韻を踏む演説や、規則的に連続的に並ぶ真珠などのように、木杭などが柵状に、囲い状に仕切られていることが想像されよう。

ナサクnasaqの語の双数形語尾/-aan/の付された形nasaqaanが二つの牧場柵であり、固有名詞として「両牧場柵」ナサカーンal-Nasaqaanとして用語となっている。その「両牧場柵」ナサカーンの間が牧場ラウダal-Rawdahであって、その間に散らばる星々がアグナームaghnaam(羊とヤギの群れ)と見做されていたわけである。

 

南方にあるナサク(牧場柵)、これをイエメン・ナサク(イエメン=南牧場柵)と呼ぶ。アラビア半島(聖地メッカが中央) から東に観てイエメン(al-Yaman)は南方に位置しているため、「南のナサク(牧場柵)」の代名詞になっている。「南」を意味するジャヌーブjanuubを用いて、ナサク・ジャヌービー Nasaq al-Januubii と称してもいる。

 一方北方に属するナサク(牧場柵)、これはナサク・シャーミー Nasaq al-Shaamii と呼ばれる。シリア (al-Shaam)は半島の見取り図から北方に属しているために、「北のナサク(牧場柵)」の代名詞にされている。最も「北」を意味するshamaalを用いたナサク・シャマーリーNasaq al-Shamaaliiとも称している。

 

 

     南牧場柵 ナサク・ヤマーニーAl-Nasaq al-Yamaaniyy

南方にあるナサク(牧場柵)、これをナサク・ヤマーニー Nasaq al- Yamaanii といっている。繰り返すが、イエメン・ナサク(イエメン=南、牧場柵)の意味である。アラビア半島(メッカの地点) から観てイエメン(al-Yaman)は南方に位置しているため、「南の星(座)群」の代名詞になっている。

ナサク・ヤマーニー「南の牧場柵」は、北天と言っても南にあるため、中心部は天の赤道を超えている。天の赤道の北から南東に伸び、赤道を超え、そしてそして再び北東に赤道を超えて伸びる。

 

「南のナサク(牧場柵)」はこの蛇座と蛇使い座の間に、というよりは蛇座の上半身、蛇使い座の下半身、蛇座の下半身と、その連続する星の繋がりを、蛇身と見立てず、ナサク(牧場柵)と見立てたところにアラブの遊牧民的本性が垣間見られよう。

南牧場柵は「蛇座」と「蛇使い座」とに跨って存在している。すなわちこの東西の蛇座の間に、分断する形で蛇使い座の胴体が割りこんでいて連続する柵としてナサク・ヤマーニー「南牧場柵」が走っている。

柵のつながりは以下の様である。蛇座の頭部の四つ星δ、λ、α、ε、μの系列とその延長線にある蛇使い座に入り、その五角形の底辺の連続するδ、ε、υ、ζ、ηの系列を一線の境界とする(一説ではここまでとする)。そして続く「蛇座」の下半身へ移り、ν、ξ、ο、υ、τ、η、そして蛇の尾の先端θまでが南牧場柵ナサク・ヤマーニーAl-Nasaq al-Yamaaniyyとする。

もう少し詳しく述べると、「蛇座」の首("anaq)にある星δ星を南牧場柵の入口とする。それから上半身に沿って胴体の方に向かい、λ星、続く主星α星、ε星まで辿り、星座の境界μ星と辿る。このμ星の位置はすでに天の赤道を南に超えている。ここから蛇使い座に入り、南半球の星ぼしとなる。最初の、その蛇を掴む手の位置にあるδ星、ε星、そして腰の部分に当たるυ星、ζ星、η星と続く。このη星は牧場柵においては最も南に位置する星=柵となる。それから再び「蛇座」の下半身に移り、北東に伸びてν星、ξ星、ο星、右手が蛇体を捕まえているυ星、τ星、η星、と続き、ここで再び北天に戻り、最後が蛇座の尾に当たるθである。

この最後のθ星は黄色の 4.6 等星、尾部の最先端にあり、アグナーム(羊とヤギの群れ)との関わる名称を持つ。その名称はアルヤ Alya といって、羊の部分名称である。アルヤ(alyah pl. alaayaa, alayaat)と言えば、一般的には「尻、臀部」の意味である。しかしより特化した用語は<羊>のそれである。アラブ世界の羊の種類は学名では「脂尾羊」と言って、ラクダの瘤同様、尾に「脂肪」を蓄える種類である。俗名で我々は座布団を尻にくっ付けている態なので、「座布団尾」といっている。そしてアルヤは羊の脂尾、脂肪分なので、アラブ遊牧民にとっては、食指が動く羊の部位なのである。肉屋では座布団を布くように積まれて売られている。

恐らくそれ故に、全体的にアグナーム(羊とヤギの群れ)の中で、このθ星が牧場柵の終わりの終わりという意味でも、アルヤ「脂尾」 を特に大きくしていた羊として、そのように名付けられたのであろう。

 

真ん中にある蛇使い座のα星はラーイーal-Raa”ii(羊飼い)と名付けられており、またβ星はカルブ・ラーイーKalb al-Raa”ii(羊飼いの犬)とされており、彼らに守られて、南北のナサク(牧場柵)の中のラウダ(牧場)にアグナーム(羊とヤギの群れ)がのんびりと草を食んだり、座って反芻しながら休んでいるのである。

                     Allen 243,302、375、Jur.226,230、232、266,284、296

 

 

 

     ナサク・シャーミー Nasaq al-Shaamii 北の牧場柵

一方北方にあるナサク(牧場柵)、これをナサク・シャーミー Nasaq al-Shaamii と呼んでいる。シリア (al-Shaam)は半島の見取り図から北方に属しているために、「北」shamaalの代名詞にされている。

「蛇座」の頭部β星から北東に雄大に伸びる。ヘラクレス座、琴座を結ぶ、「北の牧場柵」Al-Nasaq al-Yamaaniyy。こちらの柵には蛇使い座は入らない。

 

北の牧場柵は「蛇座」のβ星から始まり、γ星と続き、北東に向かいヘラクレス座に入る。星座の境にあるヘラクレス座の方のκ星に受け継がれ、続いてλ星、β星、δ星、λ星、μ星、ξ星、ν星、ο星へと続く。さらに琴座に入りχ、β、γと続いて終わる。

 

さらにはヘラクレス座にはこの柵の北側に、ι星を中心とするヘラクレスの前足、膝の部分のτ星を中心にした膝まづく後足、の両脚の部分も牧場柵ナサクとしており、その代表がι星であり、名称もナサクal-Nasaqとされている。

 このように蛇座のβ星から北東に向かい、ヘラクレス座、琴座を結ぶ線からナサク・シャーミー「北のナサク(牧場柵)」が存在する。さらにヘラクレス座の北方の脚部の部分にも牧場が広がり、この広い空間がラウダ rawdah、即ち「放牧場」が展開されている、とする。このラウダの中にあって、散らばる星々が放牧されているアグナーム(羊とヤギの群れ)なのである。

               Allen 243,302、375、Jur. 91,106,138,142、186 、200、226,230、253、267、274、

 

 

   ヌサカンNusakan(冠座β星)とナサク(牧場柵)の関係

ヌサカンNusakanと命名されている星が含まれる星座もある。しかも今まで述べた南北両ナサクのすぐそばに。北天の小さな星座で、東にヘラクレス座、西に牛飼い座、北に竜座、南に蛇座に囲まれている。そこに「北の冠座」Corona Borealis (英)The Northern Crown、(亜)al-Ikliil al-Shamaalii、al-Fakkahがある。

「北の冠座」は別名を持ち、往時のベドウィンは、欠けているボールや鉢、椀,)と見立てて、「デルビシュ(修行僧)の托鉢」Qaswah al-Darwiishiinと、また子供らは「乞食の差し出し鉢」Qaswah al-Masaakiinと呼んでいたことが知られている。

「北の冠座」ということはもう一つ「冠座」があることになる。南天の方に「南の冠座」がある。「冠座」は二つあるのだ。焦点は「北の冠座」の方にあるので 「南の冠座」の方に少し触れておく。

 

            南の冠座(Corona Australis)

英名The Southern Crown 亜名al-Ikliil(王冠、冠)。 

「南の冠座」はアラブ・イスラム世界ではイクリールal-Ikliilと称され、古くからある南天の星座であり、トレミーの48星座の一つとして認められている。明るい星が無く、4等星以下の星の集まりで、南天に寄っており、射手座の下にあるためわが国からはよく見えない。南中する夏には見える。

射手座の頭部にある「南斗六星」と向かい合うように存在する。横向きの半円形であり、α星は4等星でありながら、メリディアナ(Meridiana)との固有名が付けられている。

 

アラブ世界では緯度的に南にあるため、こちらもよく見え、「冠座」といえば、こちらの方が主体であった。「冠」のことをイクリールikliilというが、星座名として「南の冠座」はイクリールal-Ikliilの単独語であり、それに対して「北の冠座」は「北の」の後接語を付してイクリール・シャマーリー al-Ikliil al-Shamaalii と言わねばならない。主星座がどちらにあったが分かろう。さらに「南の冠座」には、その形から様々な別名を持っていた。「ドーム」al-Qubbah、「天幕・テント」al-Khaymaa’、「ダチョウの巣」Udhii al-Na”aamなどである。

上図二枚は現代西欧の「南の冠座」の星座図である。位置と形態が確認できよう。北の射手座、その中の「南斗六星」、西のさそり座の尾、ヘルクレス座の脚部との相対的位置が把握できよう。α星は東を底とする半円の横向き冠のやや上にあり、メリディアの固有名を持つ。アラブ・イスラム世界では光度が低くて固有名は持たない。

下図二枚は中世アラブ・イスラム世界の伝統的「南の冠座」の星座図である。裏表の両方の観方が描かれている。左図は、冠の円の尖ったところがα星(アラビア語のalifの文字)でそれを中心にして、上西の方のε、λ、η、μ星と続け、また下西はζ、θと円形を描いて冠の形をしている。右図は冠の前後に当たる両端のどちらかを伸ばした形であり、主要な丸い部分が頭部に被せられる部分に当たる。円形の西洋風王冠ではなく、前後のどちらかを突きださせた冠像となっている。

 

 

これに対して「北の冠座」はイクリール・シャマーリー al-Ikliil al-Shamaaliiという名称を持つ。西欧では「かんむり座」といえばこちらをさして、学名Corona Borealis、英名The Northern Crown 亜名al-Ikliil al-Shamaalii である。というよりは独立名称ファッカal-Fakkahが用いられる方が普通である。ファッカal-Fakkahもまた「冠」の義である。すなわち「南の冠座」はイクリールal-Ikliil の名称を用い、「北の冠座」は単独名称ファッカal-Fakkahと名別している。

 

 

   「冠」イクリールal-Ikliilとファッカal-Fakkah

「南の冠座」に名称はイクリールikliilである。この語の方は「冠、王冠」そのものが語源となっているのは今に見る如くである。イクリールal-Ikliilの語根動詞√kalla<kalalaは「冠をかぶる、のせる」の義である。そして派生動詞kallalaは他動詞となり「王冠をかぶせる、王位につける」となる。再帰動詞のtakallalaは「王冠をかぶせられる」、その受動分子mukallalは「冠が宝石類で飾られる」、「戴冠した」との意味のパラダイムを展開している。

イクリールikliilの方は、これとは別に天界では、もっと知られた「王冠」がある。あのサソリの「王冠」名としてイクリールal-Ikliilを知っておられる方もいよう。サソリ座の頭部のγ、η、θの三ツ星は「王冠」と見なされ、黄道に近いところから、月の28宿の第17宿「イクリール(王冠)」として、暦の目安とされている。

 

もう一つの「冠」を意味するもう一つのファッカal-Fakkahの方であるが、こちらには「王冠」との直接意味は持たず、ずっと緩い「かぶり物、着脱の容易なもの、寛衣(揺るぎ)のようなゆったりとした冠」の意味である。<冠>に関した派生語もこのファッカal-Fakkahには存在しない。

 

 

「北の冠座」ファッカal-Fakkahのβ星ヌサカンNusakan

さて「北の冠座」ファッカal-Fakkahの方であるが、主な7―8個の星が半円の冠のようにU字型の弧を描く。これを冠と見立てているのである。

「北の冠座」は別名を持ち、往時のベドウィンは、欠けているボールや鉢、椀と見立てて、「デルビシュ(修行僧)の托鉢」Qaswah al-Darwiishiinと、また子供らは「乞食の差し出し椀」Qaswah al-Masaakiinと呼んでいたことが知られている。

 

「北の冠座」で星の固有名を持つものはふたつだけで:

α星は半円の底の中央にあり、冠座で最も明るい恒星で、唯一の2等星である。α星は星名を持ちアルフェッカ (Alpha) と言われる、この星名もアラビア語由来であっては、アラブ・イスラム世界では、ファッカal-Fakkah (冠)と称されている。また別名を持ち冠座のもっとも輝く星ということから、ナッイル・ファッカNayyir al-Fakkahとかムニール・ファッカMuniir al-Fakkahとも呼ばれた。いずれも「冠座の輝星」の意味である。

 

さて問題は「北の冠座」のβ星の名称である。

β星はα星の西隣にあり、3.6等星である。この星にも名称があり、ヌサカンNusakanとされている。原語のアラビア語はナサカーンal-Nasaqaanである。/-aan/の語尾形は<双数>を表示している。すなわち「両の囲い、両柵」の意味であるから、もう一つの星と組んだ名称でなければならない。今まで述べ来った内容と齟齬する。でそのβ星も、さらにはかんむり座自体も北の柵の北西側の外にあるので、埒外である。

 

このβ星を固有名のヌサカンNusakanと定めたのは、2016年9月12日に国際天文学連合の恒星の命名に関するワーキンググループ (Working Group on Star Names, WGSN) である。その西洋団体がヌサカンNusakan をかんむり座β星の固有名として正式に承認した。  原語のアラビア語ナサカーンal-Nasaqaanは、すでに上に述べた如く双数形であり、「2本の柵」を意味する。今まで述べ来った、「北の牧場柵」al-Nasaq al-Shamaaliiと「南の牧場柵」al-Nasaq al-Yamānīとである。

天文学の伝統は、そして最新情報は現在に至ってもこんなものなのだろうか。無関係な冠座のβ星に当てはめる、西欧のこの無知と傲慢さには驚くばかりだ。アラブ・イスラム世界の天文学や占星術を専門とする現地の学者たちもおれば、西欧で、世界でイスラム天文学を専門とする学者もいるはずで、そのヌサカンNusakanの原語と原義を知っていれば、このような事態にはならなかったはずだ。

 

こんな現在において、無関係な冠座のβ星に当てはめる、西欧のこの無知と傲慢さには驚くばかりだ。

敢えて筋を通すとすれば、両柵ナサカーンal-Nasaqaanの入口である蛇座の頭部にある、β星及びδ星の方向性を北方の「北の冠座」に伸ばす。そしてそのβ星と統合させ、ナサカーンal-Nasaqaan両柵と名付け、それが西洋に移入されヌサカンNusakanと訛って入っていった、と考えることができよう。

また筆者の見解だが、両柵を超えた形で、牧場は北にさらに広がり、この冠の形もナサク(柵)というにふさわしいし、またはるか北東、ヘラクレス座の北の辺境にあるι星もナサクの名称を持ち。北の牧場はもっと拡大されていたのではないか、ということは既に述べておいた。「北の冠座」のβ星のナサク、ヘラクレス座のι星のナサク、両者を関係づければナサカーンal-Nasaqaan(二つの牧場柵)が成立し、その代表が「北の冠座」のβ星が担い、ナサカーンal-Nasaqaanとも呼ばれており、それが西欧に入ってヌサカンNusakanとの名称となっており、最近改めて正式名称となった、とも考えられるのだが。

 

上図二枚は現代西欧の「北の冠座」の星座図である。位置と形態が確認できよう。東に大きくヘラクレス座がそして南には蛇座頭部が突き出している。「北の冠座」はイクリールal-Ikliilの名称を採るときは、シャマーリー al-Shamaalii「北の」を後接させる連語となる。それに対して同じ「冠」の義であつファッカal-Fakkahを用いると、単独の「北の冠座」の名称となる。八つの星が上向きの半円の冠となっている。α星は星座名全体を表すアルファッカAlpheccaの固有名を持つ。原語のアラビア名はファッカal-Fakkahである。右図には隣接する北にあるβ星にはヌサカンと書き込まれている。

下図二枚は中世アラブ・イスラム世界の伝統的「北の冠座」の星座図である。「南の冠座」と異なり、冠らしい円形をなしている。左図の円の真上がα星で「冠座の輝星」al-Muniir fii  al-Fakkahと書き込まれている。右図では円の下の大きな金丸がそれである。

同じくその左隣がβ星(アラビア語では文字baa`)はヌサカンNusakanであり、筆者が赤で矢印を入れておいた。右図では右円では左隣、左図では右隣りとなる。

 

 

Star Namesの著者Allenn (p.179)はβ星がNusakanと名付けられたのは星座の(一つの星が)Masaakiinと名付けられていたことに由来すると述べている。上に述べた通り、それは星座名に付された別名「乞食の差し出し椀」Qaswah al-Masaakiinの後接語が訛ったものである。星座名と星名の混同、および語頭の子音MとN、第3子音KとQの二か所の子音が異なる。この点、アラブ・イスラム世界では、こうした訛りは生じないはずである。

                                                                                             Jur.149,230、Allen179