旧フランス植民地とメハリスト 

                            砂漠のラクダ騎兵・メハリスト(2)

キーワード:

旧フランス植民地とメハリスト   フランス領植民地

西アジア(レバノン、ヨルダン、シリア、イラク西部)

マグリブ(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)  アフリカの植民地化

「フランス領西アフリカ」  サハラの南縁、サーヘル

サーヘルアラビア語Saahil (沿岸、海岸)  アフリカ東岸地方はスワヒリ地方(スワーヒルSuwaahilはその複数形)

仏領モーリタニアとメハリスト  フランス帝国はアフリカの侵略を三方から進めていた。

ムラービト朝(1056-1147)  南のセネガルからモーリタニアを侵略

「アフリカの年」こと1960年に独立 スペイン領西サハラとの問題

EUはモーリタニアに250頭のラクダを供与 メハリスト用として役立てられる

ポリサリオ戦線・サハラ・アラブ民主共和国との問題

仏領ニジェールとメハリスト   ソンガイ帝国の後裔

イギリスが南と東から、フランスが北と西から争奪戦

ニジェール(Niger)とナイジェリア(Nageria)    ニジェールメハリスト

Le Roy著Mehariste Au Niger. Souvenirs Sahariens (French、 Paperback ) Jan. 1997

仏領ソマリランド(ジプチ)とメハリスト  エチオピアの海岸部を植民地化

1896年仏領ソマリランドが成立  1967年仏領アファル・イッサ

1977年ジブチ共和国  ジブチ・エリトリア国境紛争

 

 

     旧フランス植民地とメハリスト

 前回はフランスが対岸のアフリカ大陸にあるアルジェリアを植民地化して、砂漠地帯の現地に学んで、その治安、辺境、国境地帯の保全、状況把握、パトロールの役を担って創設されたラクダ騎兵、mèharisteについて記した。しかしこのメハリストの創設はすぐに近隣の砂漠を抱える植民地行政の採用するところとなった。さらにフランスは西アジア(レバノン、ヨルダン、シリア、イラク西部)だけでなく、マグリブ(モロッコ、アルジェリア、チュニジア)のアラブ地域に植民地を持つだけではなかった。

地中海に面するマグリブ地方を管轄下に入れると、さらに植民と獲得のために広大なサハラ奥地に侵略していった。アルジェリアの北方から、また西方のセネガルから、さらにギニア湾に南方から、軍をすすめた。アフリカのサハラの南縁、サーヘル地帯を次々と植民地化してゆく。

フランスはこうしたサハラ砂漠の南縁地域のほとんどを領有していたのである。そしてこれらの征服地は「フランス領西アフリカ」として広く統治していた。

 

 しかし20世紀初頭、民族自決と社会主義、共産主義の反資本主義の対抗軸ができたことで、世界全般の様相が一変した。植民地であった国民の覚醒と社会主義陣営、第3勢力の後押しを受けて独立闘争を展開してゆく。

そしてこの民族自決のうねりは、多くのアフリカ諸国に波及した。地中海側からサハラ砂漠を超えたサーヘル地帯も多くはフランス植民地であり、アフリカの年とされる1960年に独立を果たす。

サハラ砂漠に西域から述べてゆくと、大西洋に面してモーリタニア・イスラム共和国(北部にスペイン領西サハラ、モロッコに接する)、同じく大西洋に面するセネガル(北にモーリタニアに接する)、そこから東に連続する。まずマリ共和国(北西にアルジェリアに接する)、その東にニジェール共和国(北にアルジェリア、リビアに接する)、さらにその東にチャド共和国(北にリビアに接する)である。チャドの東は英国の保護国となっているスーダン民主共和国である。そしてナイル河を横切ると、ヌビア砂漠と名称が変わるが、サハラ砂漠の延長であることには変わりない。フランスは紅海沿いに仏領ソマリランド(ジプチ)をも植民地化していた。

 

サハラ周辺の仏植民地とメハリストに関して、アルジェリアについては述べたが、今回は西からモーリタニア、ニジェール、ジプチについて述べる。ついでフランス以外のサハラ砂漠を領有した、イタリア領リビア、エリトリアについて、さらにスペインが領有した「西サハラ」についても述べる。

 

下図三枚は18世紀末から始まるアフリカの植民地化の図と、20世紀に植民地から独立してゆくアフリカ諸国図を示している。

 

 

上図はアフリカ大陸の西欧列強のアフリカ植民地分割化とその後のアフリカ独立の図。フランスおよびイギリスの進出過程が良く分かる。ドイツ・イタリアもアフリカに進出していったが、第二次大戦による敗北で、植民地をはく奪された。本ブログで扱う地域は北アフリカ、サハラ砂漠周辺である。

 

 

    マグリブとサーヒル サハラ砂漠周辺国

サハラ砂漠の北方地域はアラブ・イスラム世界であり、マグリブと呼ばれ、8世紀ごろからその遠征に伴って、イスラムとアラビア語が浸透していった。このアラブ・イスラム世界に隣接しており、サハラ大砂漠が間にあって、その南の周辺地帯をサーヘルと言っていた。

サーヘルとはアラビア語でSaahil (沿岸、海岸)の意味で、サハラ砂漠は大海Bahr Kabiirと想定されていたからである、ラクダが「砂漠の船」との別称も理解出来よう。

またアフリカ東岸地方はスワヒリ地方というが、このスワヒリは正しくはスワーヒルSuwaahil であり、サーヒルの複数形であり、アラビア海、インド洋の「沿岸、海岸」に臨む地域であったから、こうした固有名詞となった。こうした一帯にアラブ圏のとの交流が古い時代から始まっていたことの証明となろう。

未知のアフリカとして西欧人の冒険譚や探検隊の話が話題になるが、それ以前にアラブ人がラクダを駆使してサハラ越えのルートを作っており、交易ルートだけでなく、メッカ巡礼道もサハラ越えして地中海へ出るルート、ほぼまっすぐ東進して紅海に出るルートもイスラム化されてから、そう遠くない時分には出来上がっていた。アラビア語、一神教崇拝、イスラム文明も持ち込まれていた。

大旅行家イブン・バットッゥータもそのルートに沿って旅行している。決して探検ではなく、おのが高邁な探求心と旅好きが昂じて、彼自身を促したのである。

 

 

    仏領モーリタニアとメハリスト

  北方からサハラ砂漠を超えた地域、サハラ砂漠南岸、サーヘルも砂漠自体が巨大だけに、いくつもの国に分けられている。サハラ砂漠は大西洋にまで通じている。その最西端の国から述べてゆこう。大西洋に面したモーリタニアが最初に上がるが、この国もかつての植民地時代は広大なフランス領「西サハラ」を構成していた。

フランス帝国はアフリカの侵略を三方から進めていた。(上図参照)。北方アルジェリアからの侵攻に加えて、大陸の西側から、すなわちこのモーリタニア及びセネガルを突破口として東のサハラ砂漠に侵攻した。またもう一つは南のギニア湾のアイボリー・コースト(象牙海岸)を拠点に、北のサハラ砂漠の攻略に向かったのである。こうしてフランスは三方から、サハラ砂漠の内陸の植民地化の進軍ルートを確保して植民地化を進めて成功していったのである。

 

サハラ砂漠の最西端に位置するモーリタニア。その名前の由来はやはり地中海岸から採られている。国名はアフリカの地中海南岸に位置したベルベル人の古代国家マウレーニア(現在のアルジェリアとモロッコ)から語源とされている。

8世紀ころから、国土の南東部にガーナ王国が繁栄した。ガーナ王国は、セネガル川上流のバンブク周辺から産出される金とサハラ砂漠の岩塩から採取される塩、北方からの銅製品や衣服、装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。そしてイスラム化が進むなか、このようなサハラ越えの隊商交易の利を押さえようとしたムラービト朝に1077年に滅ぼされるまでその繁栄は続いた。

ムラービト朝(1056-1147)はイスラーム神秘主義の宗派を広めんとして、人々の信仰心を煽り、ジハードを敢行してゆく。車のない時代、マフリーラクダを調教して砂漠を横切り、サハラ砂漠の南側からマグリブ諸国に遠征して成功した初めての王朝である。サーヘルから西へ大西洋側をたどって北方のモロッコまで征服して、首都マラケシュを1071年に建設した。地中海・ジブラルタルを渡り、スペインアンダルシアに侵略を伸ばし、分立諸王国をも平定してイスラムの最西端に王朝をたてた。サーヘル、マグリブ、アンダルス(スペイン)に跨る大王朝を築いたのである。一世紀を経ずした1147年ムラービト朝は滅びるが、その後もこの南からのイスラームの波はムワッヒド朝他2,3世紀は続く。

 

モーリタニア北西部に位置するシンゲッティ(シンキート)などの隊商都市は、ガーナ王国と並行して発展し、ガーナが滅亡した11〜12世紀にも繁栄を続けた。シンゲッティは独自に存在した古くからシンゲッティ王国炉も称され、その首都であったが、12世紀ごろになるとメッカの巡礼地の出発点となり、イスラム学者、学生、修道士などが集まる文化都市となった。その後、西欧の海路が開発され、

大貿易路ができてしまって、内陸交易路にも変化が起きて、部族紛争があったりして、交易路が安定せず衰退した。

 

19世紀、西欧の帝国主義、植民地獲得競争に巻き込まれていく。スペインがモロッコの南部の空白地帯を狙って植民地化する。スペイン領「西サハラ」が成立する。フランスの権益圏内の中で生じたこの事態に、急遽対処した。フランスはより南のセネガルを先ず確保して、スペインに対処すべくモーリタニアに北進して、スペインの「西サハラ」の拡大を抑え込む。仏植民地となっていた西のモロッコと南のアルジェリア方面からも牽制して、スペインの内陸部への侵略を阻止しようとしていた。

 

モーリタニアのフランス植民地化は、上に述べたように19世紀末には南のセネガルを植民地化したあとである。「スペイン領西サハラ」の成立はフランスを慌てさせた。すぐにセネガルを基地として、その北部の勢力が及ばないモーリタニア地域に進出が始まり、1904年には全域が植民地化され、「フランス領西アフリカ」の一部となった。ただしモーリタニアには都市らしい都市が存在しなかったため、首都はセネガル植民地北部のサン・ルイに置かれていた。

 

モーリタニアは、1958年にフランス共同体が発足すると、共同体内の自治国となった。またこの年、中部の海岸にサン・ルイに代わる将来の首都になるべき都市としてヌアクショットが建設された。

 

そして「アフリカの年」こと1960年、11月28日にアフリカ諸国の独立が進む中で独立を達成した。1960年の独立の翌1961年に憲法が制定された。政権党も当初は親フランスであったが、徐々にイスラーム及びアラブ圏への共感が強まり、軸足を移してゆく。そして1973年にはCFAフラン圏を脱退して、独自通貨ウギアを導入するとともに、アラブ連盟へと加盟した。

 

発足政権は大モーリタニアを掲げ、モロッコと共にスペイン領西サハラの領有権を主張し、1975年に南部を占領してポリサリオ戦線と対立した。しかし、ポリサリオ戦線は「サハラ・アラブ民主共和国」との国を立ち上げて独立様相に入った。アラビア語で Al-Jumhuuriyyah al-“Arabiyyah aṣ-Ṣaḥraawiyyah ad-Diimuqraaṭiyyah、スペイン語はRepública Árabe Saharaui Democráticaで、RASDと略す。

英語では Sahrawi Arab Democratic Republicとなり、SADRと略すこともある。日本語では「サハラ・アラブ民主共和国」となり、略名は存在しない。

 

ところがドクルツ直後のモーリタニアは政体がまだ整っておらず、軍備も不十分のままポリサリオ戦線と戦闘状態に入ることになってしまった。ところがポリサリオ戦線は本部をアルジェリア国内に置き、アルジェリア及びリビアから援助を受け、戦闘をしており国境を越えての決着は容易にはつかなかった。

戦闘が長引くにしただって、ポリサリオ戦線との戦いによる負担は重く、国境沿いに位置するズエラット鉄鉱山やモーリタニア鉄道といった産業施設を攻撃されて経済は混乱し、さらに突破を許して首都ヌアクショットまで攻撃を受けるなど劣勢となった。そのため、和平を望んだ軍参謀長がクーデターを起こして1978年7月に政権を失脚させた。その後もモロッコ共闘派と和平派との紛争はあったものの。和平派が覇権を取って、1979年ポリサリオ戦線との和平協定が結ばれるに至った。

このモーリタニア側に帰属すべき領域も、すでにモロッコの支配に帰している。

したがって旧スペイン領西サハラの、モーリタニア側に帰属すべき領土については議論があり、亡命政権であるサハラ・アラブ民主共和国とモロッコ王国が領有を主張している。国際連合の「非自治地域リスト」に1960年代以来掲載されている。

 

上で述べたようにスペイン領「西サハラ問題」で南の隣国として大きく関与していたのが、モーリタニアであった。このスペイン領「西サハラ」、「サハラ・アラブ民主共和国」については、今はフランス植民地での問題を扱っており、いずれスペイン植民地として後で議論する。

 

最近のニュースとして、EU(ヨーロッパ連合)は2019年、協力・援助資金1300億ユーロの一部を使って、モーリタニアに250頭のラクダを与えた。マリ経由でモーリタニアの最東南端Nemaの町近くのAchemimで授与式が行われた。EUといっても旧宗主国フランスが主体となって動いたものであった。現地の人々はこの授与式を歓迎して、歌や踊りで迎えた。もっともモーリタニアはラクダ保有数では有数の国であったが。

EUに対しては、なぜマリにも与えずモーリタニアにだけ与えたのか、EUにラクダがそもそもいるのか、サーヘル地帯のイスラム過激派の対策ならば他の国にもなぜ送らなかったのか、モーリタニアに対してだけ援助するのは不公平だ、近代兵器を送らずに時代遅れのラクダなどなぜ送ったのか、などと批判と揶揄にも晒された。

                                                 

これら250頭のラクダは、砂漠や国境地帯の守備やパトロール部隊として、モーリタニアの軍、警察、治安安定化を担うメハリスト用として役立てられることになっていた。それゆえマフリー種か定かではないが、おそらくフランス主体ならば、ラクダ騎兵の足としての種の選択は承知であろうから、マフリー種であったろう。国内の反乱分子、および北からのモロッコやアルジェリアからの脅威に対抗させるためであった。当時はまたイスラム原理主義が台頭し、アフリカでも各地でその猛威にさらされていたこともあった。特にマリとモーリタニアとに被害が大きかった。

財政的に安定せず、国家機能がうまく働かず、また軍事を含めた統治が有効に機能しない国には、政府転覆やゲリラ、反乱がまた多発しやすい。こうした状態にあるサハラ周辺の国のラクダ部隊は、四輪駆動車のような大きな騒音も立てず、敵に気づかれる度合いは少ない。近代武器を装備して、攻撃対象に近づけば、意図通りの目的を達成できる利点を持つ。さらに平時には、教育普及と生活改善の国家目標に沿って、医療班や教育者を伴って、啓蒙活動や医療活動も行った。辺境や国境地帯に出かけ、その時にはできなかった要望も、次回に巡回するときにはそれを満たすことも可能となった。

 

上図の向かって左は仏領モーリタニア時代の切手。アラビア語が母語なのに、切手の表記には一切アラビア文字は見られず、ローマ字、フランス語である。屈強なラクダの頭絡を引き、頭を上に向かせて立ち止まらせる。メハリストは立ち止まって前方を注して警戒している。服装はターバンを巻き、軍服より肌との間が緩い上着を着用し、銃を肩に背負い、ガンベルトをタスキにかける。足は靴を履かず素足である。

右図は独立後の、ニジェール軍メハリスト。1912年、メハリストユニットニットとして正式に発足。正装は黒いターバンを巻き、白いジャケットと黒い幅広のズボンを履く。足には靴をつけず素足である。四人が一組となりラクダの背上にはベルベル鞍が着装されている。その背上に各自高さの位置を変えて、銃を構える。2018年頃の写真。

 

 

     仏領ニジェールとメハリスト 

サハラ砂漠中央に位置するニジェールNiger。その国名の由来は、国内を流れるニジェール川より採られている。ニジェール川の語源は、遊牧民トゥアレグ族により、この川がニエジーレン(n'egiren)「川」、またはエジーレン(egiren)「川」と呼ばれていたことによる。これがフランス人に伝えられ、ラテン語で「黒」を意味するニジェール(niger)と転訛したことに由来する。

 

ニジェールには、フランス領西アフリカでも、中世イスラム世界では文化の華が咲いていた。9世紀頃、ニジェール川流域に現在のマリ東部のガオを首都とするソンガイ帝国が興り、ニジェール川流域地方を支配していた。ソンガイは早くから北アフリカのマグリブ諸国との交易があり、イスラム化が進んでいた。その後沈滞期が続き、19世紀末には、イギリスが南と東から、フランスが北と西から進出し、争奪戦が行われた。1898年両国の協定によってフランスが20世紀までに全土を領有してフランス領西アフリカの一部として合併した。一方南の領土、ギニア湾に臨む地方は英国植民地となり、ナイジェリアと呼ばれるが、もともとニジェール(Niger)もナイジェリア(Nageria)も、同義である。

 

上に述べた国々と同じくニジェールはフランスの植民地「仏領西アフリカ」の一部であった。そしてアフリカの年と呼ばれる1960年にいずれも独立を果たした。

アフリカの年1960年に独立して、正式名称はフランス語で、République du Niger 英語表記はRepublic of Niger、日本語の表記は「ニジェール共和国」である。

 

フランスがアルジェリアを植民地化してから、馬ではなくラクダで騎兵を構成する軍団が創設され、試行錯誤で発展してきたラクダ騎兵・メハリスト軍団。これらの国も植民地時代から旧宗主国フランスの植民地政策の治安安定の一環として採用されていたメハリスト軍団が存在していた。そしていずれの国も、独立後においてもメハリストの役割、価値を承知しており、旧宗主国のそれを継承した。

植民地時代のニジェールにも、北に接するアルジェリアやリビアとの国境問題、遊牧民対策、部族紛争などを調停するために、アルジェリアに倣って、ラクダ軍団メハリストが作られ、軍事・警察の分担を担っていた。

新興国 「ニジェール共和国」になっても、ラクダ騎士団、メハリストは存続され、さらに重要性が増した。

下の本の表紙でもメハリストの様子が良く分かる、三人のニジェールメハリストが前景に出ている、後ろに必要備品の荷物を背にしたラクダが従っている。後ろにも何人かのメハリストが見えており、後続しているようだ。ターバンに、ジャケット、ズボンとの正装であるが、ベルベル人の好む黒や紫は用いず、カーキ色か白色にしている、こうしたメハリストの従来のラクダに騎乗する正装は、より親しみ深く、着慣れたものであった。

四輪駆動車は入手が大変で、コストがかかり、また操縦が面倒であったためもあって、ラクダ使用が生かされていた。

 

そして新興国ニジェールのメハリストに関しては、フランス語であるが、下図の向かって左のような研究書が出ている。Le Roy著Mehariste Au Niger. Souvenirs Sahariens (French、 Paperback ) Jan. 1997 である。なお右図はニジェール共和国の一般人がラクダに乗る服装であり。べルベル人は男の方が顔を隠す。ラクダ鞍は前橋が上に三本分かれる、背もたれが長く、瘤前に鞍を着装するために前足で、ラクダの首を操作できる。共和国になってからの切手。

 

 

 

   仏領ソマリランド(ジプチ)とメハリスト

1869年フランスはスエズ運河開通に成功する。運河の通過、地中海、紅海、インド洋の航海の海路の保全のため、軍事的橋頭堡を構築する必要に迫られた。アラビア半島の対岸のジプチに目をつけた。紅海の対岸のアラビア半島側はイギリスが、そして対岸のアフリカ側はイタリアがエリトリとアフリカの角ソマリランドを握られていた。

残すはその中間にあるジプチ地区だけであった。エチオピアに鉄道建設の話を持ち掛け、認可を受けると、アデン湾を臨むタジェラ湾を軍港の基地として利用しようとしたわけである。エチオピアから海岸部を奪い取って、植民地化する。

 

こうして1896年、仏領ソマリランドが成立する。この年首都を対岸のオボックからタジュラ湾の南側に位置するジブチ市への遷都が行われる。仏領ソマリランドは民族間問題で独立が遅れ、1967年に仏領アファル・イッサと改称された後、1977年6月27日に独立を達成する。ジブチ共和国として独立したわけである。

国境を巡って隣国エリトリアと対立しており、1990年には二度の軍事衝突が起きている。停戦が成立したが、国境線を巡る緊張は続いた。2008年6月10日から13日、ジブチ・エリトリア国境紛争で再び両軍の間で戦闘が起きた。ジブチ政府はエリトリアが再び国境線に軍を増強しているとして非難し、国際社会の介入を求めた。

また、対イエメン関係でも天然ガス田をめぐってハニーシュ群島紛争(1993年 - 1998年)が勃発してもいる。

 

下に二種の切手を出しておいた。いずれも仏領ソマリランド(のちのジプチ共和国)時代のものである。向かって左の三角の切手は1893年発行(アラビア数字も挿入されている)と記されているところから、正式に仏領ソマリランドとなる前から実効支配していたものと分かる。また下にオボックの名が記されていることから、実質の植民地化は1896年以前からなされていたことになる。フランス総督府はアルジェリアほかのサハラ周辺地域の内陸の治安維持のためメハリスト軍団を仏領ソマリランドに設けていたことが分かる。現地のゆったした平服ではなく、上着も筒袖の軍服、ズボンもきっちりしたものを着用している。銃は鞍前に吊している。後ろに見えるもう一人のラクダ騎乗の兵は銃を肩に背負っているのが見える。

右の切手はもっと前のものであろう。原語アラビア語文字を入れる配慮が一切なく、すべてフランス語で「仏領ソマリア」とあるだけである。屈強なラクダに二人の戦士が騎乗。前の戦士は膝の上に銃を置き、後ろの戦士は槍を掲げている。