アルジェリアのラクダ騎兵、騎駝隊、Méhariste 、メハリスト

砂漠のラクダ騎兵・メハリスト(1)

キーワード:

マフラ族とマフリーラクダ  「ジンのラクダ」  アフリカでもラクダの貴種マフリー(メハリー)種   ラクダ部隊の創設、ラクダ騎兵。騎駝隊の調教

メハリストMéharisteとの名称   正式の発足は1902年

守備範囲、行動範囲が大きく広がった。     メハリストMéhariste駐屯地

メハリストの制服    帽子・ターバン・マント・赤いサッシュ帯・サンダル

メハリストとしての訓練・演習     砂漠を植民地に持つ国の模範

アルジェリアの独立闘争とメハリスト   アルジェリア独立後とメハリスト

トゥワレグ族の分離運動とメハリスト

 

 

             マフラ族とマフリーラクダ  

イエメン南部のマフラ族はラクダ関係でも太古の時代からよく知られていた。かつての運搬、乗用に最重要動物であったラクダの、その最高級種マフリーMahriiを生産していたからである。「ジンのラクダ」と呼ばれていた。「ジンの能力がある、ジンの血が混じったラクダ」の意味である。

マフラ族の領土は大ルブウ・ルハーリー砂漠に接し伸びていた。彼らは冬季、交尾の予兆がみられる雌ラクダを夜間、足枷をして砂漠の方に放任した。砂漠に夜間活動するジン(=野生ラクダ)と交尾させるためである。毎夜、懐妊するまで、そのようにして放任させた。

こうして孕んだ雌ラクダの子は普通のラクダの子よりも屈強で、成長するといろいろな驚異を見せるのである。スピードにおいて、機敏さにおいて、そして忍耐強さにおいて。何日乗っても、また荷物を載せても疲れ知らずであったり、道は知れない無人地帯や危険地帯であっても恐れることなく分け入って踏破するとか、ジンの血が入っているため、そのような別格のラクダになっているのだ、と言われている。砂漠の過酷な環境にさらに負荷を加えて子供のころから、成長するまで他のラクダでは衰弱するか、死に至るかの際まで訓育させていたからであろう。

マフリー種は、したがって誰でも欲しがる、需要の大きい、価値高いラクダであった。それゆえ乗用車で言えば高級車のような扱いで、近代以前は資本・動産となり、マハル(婚資)には先ず入れられる対象であった。

 

    イエメン、マフリーラクダの切手2枚

上の向かって左の三角形の切手は、1967年イエメン民主共和国が成立して以降の切手。サボテン類しか生えない過酷な砂漠の中で生育、調教されるマフリーラクダの親子。

右は東アデン保護領のマフラ国で発行された郵便切手。絵柄は、中世12世紀に著作され、13世紀から細密画入りで出版されたハリ―リー作『マカーマート』の挿絵から。50篇に及ぶ語り物であるが、その中にも驚異のラクダとしてのマフリーの記述がみられる。

イスラムの西の拡大、マグリブやサハラ一帯、アンダルシアに至るまで、都市部ではアラブ馬の騎馬隊が、農村や砂漠、荒野ではラクダ騎兵隊、騎駝隊が有能性を発揮した。マフラ族及び彼らのラクダマフリーあるいはメハリーは、遠征する先々で活躍して、そのラクダはその能力が買われて、サハラ一帯に広まった。現在北アフリカのトワレグ族やベルベル諸族のラクダの貴種がこのマフリー(メハリー)種である。車で例えるなら、乗用車(乗用、旅用、駅逓伝駝用)などの主流となっている。交雑種は貴種と認められず、トラックと同じ荷駄用、耕運機と同じ労役用、臼でオリーブ油やゴマ油を臼で引き回す回転用駱駝として、井戸からそこから水を汲み上げる、水場とバケツが汲み上げられるまでの距離の上下運動の繰り返しの揚水用の、などに利用され二度と貴種に戻ることはない。

 

 

  ラクダ騎兵、Méharisteの創設

フランスが西欧の帝国時代の中、植民地獲得競争で北アフリカのアルジェリア、モロッコ、チュニジア、サハラの西スーダン、セネガルなど、サハラ砂漠を領土とする、北アフリカやサーヘル地帯(サハラの南領域)の諸国を植民地化した。こうしたサハラ地帯での植民地行政の軍事面では、現地勢力に大いに悩まされた。

他地域で通用する従来の、スパヒー(Supahii,仏語発音ではスパイー)騎馬隊とかティライユール (tirailleur)軽歩兵とかを投入しても環境が異なり、都市部ではある程度有効であったが、砂漠地帯、国境、辺境地帯では期待通りの働きはできなかった。

 

歩兵部隊では熱砂の砂漠を遠距離にパトロールするのは困難であったし、騎馬軍団であっても、砂漠地帯にあっては、熟達した騎馬でも、砂に足を取られて、速度も機動性も有効に機能させられないのだ。一方現地勢力の方は、仏軍を砂地に誘い込みラクダの特性を生かし、さらに速力も出るマフリー種で巧みに敵を翻弄した。

 

仏軍を砂漠地帯では、第一次大戦以前は統治に必要な、軍事面で遊牧民や反乱軍に騎馬隊では太刀打ちできなかった。砂漠が舞台となると、軍用動物としては馬では固い蹄のため、砂に足を取られてうまくは走れないし、水に渇れて長続きもしない。

 

そこで仏植民地アルジェリアの行政府は軍事部門にスパヒーの騎馬部隊ではなく、ラクダ騎兵隊を設けることにした。ただでさえ敵意を抱く植民地住民の砂漠、辺境、国境地帯の治安を努めようとする仏軍も、その苦い経験から現地の反乱軍や遊牧民の襲撃にラクダが有効に用いていることにヒントを得た。そしてラクダでの部隊の創設、軍用ラクダとしてその調教と乗りこなし方を学んだ。こうして西欧で初めてのラクダ騎兵隊、ラクダ軍団、メハリストMéharisteを作り上げた。正式の発足は1902年のことであるが、それ以前からすでに個々のラクダの調教、騎手の訓練は始まっていた。

 

    メハリストMéharisteとの名称

メハリストMéharisteと名付けられたのにも理由があった。軍用に選ばれるラクダは、乗用ラクダでも瞬足で、軽快、疲れ・渇れ知らずでなければならない。選び出されたラクダ種はマフラ族が北アフリカ遠征時、イスラム征服時代以来、自分達で品種として、魔性のジンラクダと交尾して産み出したとされるマフリー種であった。マフリー種Mahrii が正式名称であるが、北アフリカではメフリーMehriiとも、メハリーMaharii とも訛って広がっていた。

仏軍はメハリーMehariiiとしてなじみであったことから、メハリストMéhariste「メハリーラクダを乗りこなす者」との意味で名付けたのである。マフリー種の、そのスピード、耐久力、機敏性に関して飛びぬけた能力を発揮するものであったから、乗用、旅用、戦闘用として他を圧して最優秀品種として北アフリカに広まっていた種であった。

 

そして19世紀以降、フランスはサハラ周辺の地域を植民地化してゆく中で、他の植民地諸国にも採り入れて、ラクダの数ある特性の中で、地方地方に合致したものを現地から学んで採り入れた。それがフランス帝国主義の影響にある植民地では、共通にメハリストMéharisteと呼称されて、軍部の中に位置づけだれていたわけである。

正式にアフリカ軍の混成部隊の中に従来のスパヒー(騎馬軍団)と共にラクダ軍団メハリストMéharisteを加えられたのは上に述べたように1902年のこととされている。このラクダ軍団はアルジェリアでは、内陸、砂漠や国境、辺境を回り守備するパトロールを主任務と知るものであった。

 

馬からラクダに変わって、その守備範囲、行動範囲が大きく広がった。そして隊員もフランス人よりも主にサハラ北縁に住み、ラクダ飼育をする原住民から徴募した。特にラクダを多数飼育保有するシャアーニバShaa”anibah族やベルべル族から兵を徴集した。それゆえメハリストは、仏語圏ではシャアーニバが訛ってシャーンバChaambaとも通称され

トゥワレグ族トゥワレグ族ていた。

メハリスト軍団の構成であるが、軍団それぞれは、指揮は現地で仕込まれた6人の下士官が当たり、仏人36人が副官として補佐して、現地調達した300人のラクダ騎兵を指揮する軍団構成として発足した。

 

仏植民地として主力を傾けるアルジェリアでは、メハリストMéhariste駐屯地を国内の諸地域の方面にある地点に設けた。アルジェリア内では、モロッコ国境に近いアトラス山脈を超え、サハラに入ってゆくタベルバラTabelbala、完全にサハラ砂漠の中にあり,サハラ超えを行う南北に伸びる幹線のうち、西側の拠点となるアドラールAdraar、アルジェリア東部アトラス山を超えてサハラ砂漠の玄関口となるワルグラOuargla(亜Warqulah)、サハラ中央部の岩石地帯で岩絵の残り有名となったタッシリ・ニジェール山地の北の麓イリージーIliijiiにあるポリニャックPolignac砦、さらに南のアフガール山地の南にあるタマンラセットなどが選ばれ、少なくともメハリスト一個軍団が担当し駐留することとなる。大砂漠のただなかにある駐屯地での日常は大変なものであったろう。

 

      アルジェリアのメハリストの図2枚

向かって左の絵はメハリストの仏人将校と現地人兵卒を描いたもの。将校は軍帽を被りゆったりとした白衣の上に左右の肩越しにサッシュ帯を交差させて赤色腰帯を巻く、ズボンは現地風にゆったりとしたシルワールを着用。左手にはラクダ用の鞭、右手には帽子の上に追おう頭巾を持つ。現地人メハリストは完全に伝統的衣装で、帽子を被らず、ターバンで頭を覆いその上に頭輪イカールを巻く。全身は赤いガンドゥーラ(マント)で覆う。注目は足元で、将校であっても現地式にサンダル履きである。いかに暑熱対策が大事であったかが分かる。画家はA.G. Maurice Toussaint(1882-1974)というフランス人画家で、植民地へ出かけ現地の風俗を多く描いた。オリエンタリズムに魅かれたひとりで、アルジ

ェリア中心にエキゾチズムあふれた多くの作品を残す

 

 

メハリストの制服

メハリストの制服の際立った特徴は、全身をすっぽり包むマント、ガンドーラ(ghanduurah)

の着用であった。かってのイスラム征服軍がラクダを駆って戦闘する、そのイメージを彷彿とさせるイメージである。白色がほとんどであったが、トゥワレグ族出身のものは青色を好んだので、青色のガンドーラの着用も許された。仏軍の兵士は頭部には鍔付きで頂部が平らの丸帽ケピを被るのが一般であったが、その上にターバンを巻きつけるのもごく当たり前に行われた。現地のメハリストたちは、帽子なしでターバンのみの場合が普通であった。

熱砂と太陽の直射を防ぐためのヴェールの着用も許された。ヴェールはトゥワレグ族の男子の正装でもあった。上着は白またはカーキ色の筒袖タイプと、現地風のたっぷりとした寛る衣タイプとあり、フランス人も後者を好むものが多くあった。また下半身はゆったりとして幅のある黒色のズボンsirwaalが着用された。赤いサッシュ帯が、両肩からクロスに、または一つは左肩から右腰に、弾丸ベルトの上を覆うように斜めに下ろされたりもする。もう一つは腰回りに巻かれた。足元は多くはブーツは熱いし、ラクダを傷付けるとして素足にサンダルを履くのが定番であった。ラクダへの装具は自由に任せられたが、瘤上に置くアラブ中央鞍が実用的にも優れていたが、トゥワレグ族は重心が前に行く瘤前に鞍を置いて足で操作する伝統的前鞍に固執した。他の装備は自由で。、簡素なものも、装飾豊かなラクダ飾りを付けるものもいた。

 

    メハリストとしての訓練・演習

メハリスト軍団の訓練も、従来の部族戦争や国の戦争での戦闘、一種の肉弾戦とは異なる近代戦法を学ぶことになる。ラクダ操縦に巧みな徴集された現地兵士もその植民地政策の一環を担った。基地の砂漠に近い演習場で、従来最も劣っていた銃での射撃、および組織・役割の徹底の訓練が重視された。

地上での訓練からある程度上達した時点で、ラクダ騎乗の射撃法、停止したり、歩ませる、走らせる、などの動きを伴う射撃を順次受けてゆく。この様子の一部はアルジェリアのサハラ砂漠西北部アドラール基地の東方アイン・サラーフの訓練基地で行われたメハリスト軍団の練習風景が、早くも1899年、フランスのグラフ誌...  L'Illustration, 9月23日付け(no 2952)に載せられて世界に知らしむるところとなった。... ...

 

砂漠地帯の動向とパトロールの把握には、このラクダ軍団、メハリストMéharisteが効果的成果を上げていることから、アルジェリアだけでなく、こうしたメハリストMéhariste軍団をサハラ砂漠の周辺の植民地、中東のアラビア砂漠を抱える仏植民地ヨルダン、シリアなどにも配備された。1920年代にはシリアでメハリストMéhariste三軍団が導入され、1930年代には、フランスの中東植民地には砂漠地帯を抱えるところではメハリストMéhariste軍団が作り上げられ、ヨルダン、シリア、イラクで現地のラクダ軍団にも負けないぐらいの熟練度に至っていた。

 

            アルジェリア地図(仏語)とメハリスト基地

上図はアルジェリア全土を図示したものだが、全部入りきらず、左側の「モロッコ」に沿って大きな三角地帯が伸びている。モロッコとの点線の国境線を北方からゆるく斜めに下ろし,また南方のマリと国境線をそのままの伸ばして、両者が交差すル地点が最西端であり、「西サハラ」と国境を接している。地図からはみ出た西方の三角地帯は、北方がSaqura地方、南方がChech地方と呼ばれ、ほとんどがサハラ砂に飲まれている。

大都市アルジェやオランは地中海側に面してフランスを始め、西欧人が避寒やバカンスに訪れる所でもある。カアミュやダリダなどはアルジェリア生まれであり、また都市には多くのインテリや思想家が排出せれ、後に独立闘争の核となってゆく。

すぐ背後にアトラス山脈がそびえ、内陸部とを分かっている。アトラスを超えると、広大な砂漠が来るものを飲み込むように待ち構えている。アリジェリアからサハラ砂漠を超えるルートは最終的に二本となり、東のニジェール街道、西にマリ街道が南北に伸びている。アトラス山脈の中やサハラ砂漠の中には、アラブと交雑が進むが、異民族トワレグも含むベルベル族が定住や遊牧生活を行っている。フランス軍は砂漠近く、あるいはまったく砂漠の真っただ中に、メハルスト駐屯地及び訓練所を設けた。6か所知られているが、上の地図上にその地名の上を囲んでおいた。Tabelbara基地は地図上をはみ出し、より西方にあるので、筆者が補っておいた。

 

 

    メハリストの働き

植民地化が進むなか、砂漠を擁する国を支配する西欧列強は、地域や国境の警備やパトロールに、ラクダを用いて、状況把握や、戦闘隊形、作戦の臨機応変性などで、ラクダ部隊の利点を飲み込んでいった。

飛行機に時代になって第二次大戦においても、メハリストMéhariste軍団の存在は欠かせなかった。空から状況把握はできるのは、おおざっぱなものであった。地上の局所においてのゲリラ戦や紛争など、空軍の飛行機は有効に働いたが、大まかであって十分ではなかった。接近して戦闘するには飛行機では不可能であったし、具に戦場、国境をパトロールするにもまた飛行機やヘリコプターでは不可能であった。

メハリストMéhariste軍団などが陸上を監視して地に足をつけて見回らねば、実情は把握できなかった。単なるパトロールでも小人数で辺境へ出かける場合、現地に地理をよく知る敵に、待ち伏せやゲリラ戦で全滅の憂き目も会うことがしばしばであった。そこでメハリストMéhariste軍団は小人数にはせずに、最小でも5,60人の小隊を組まねばならなかった。

 

第二次大戦中は、東に隣国リビアがイタリヤ領であったため、メハリストたちの国境沿いの警戒が激しくなり、時には戦闘を交えた。

仏軍は植民地チュニジアにおいて現地の独立反乱分子に対してサハラに通じる地帯で、また枢軸国イタリアが植民地としているリビアでは、南方のチャドと国境を接するフェッザーン地方で、メハリストMéhariste軍団を組織して対抗させている。

 

   アルジェリアの独立闘争とメハリスト

アルジェリアではフランスからの独立闘争が1954年からが始まった。アルジェリア解放戦線(ALN)が結成され、活動を始めた。ところが隣接するモロッコやチュニジアも仏領であったが、1956年には独立を許した。が、アルジェリアは国家の一部だとして、フランスは独立を許さなかった。その年にも独立を許さなかった。一層弾圧や容疑者の拷問が激しくなった。アルジェリア国民は怒りを上げ、アルジェリア解放戦線(ALN)は戦闘的になり、ゲリラも頻発した。ALNの活動は、徐々に都市部から地方へ、そして砂漠地帯へと広がりを見せた。

 

メハリストを取り巻く状況も変わった。1957年10月、サハラ砂漠の奥、西側の拠点となっていたアドラールAdraar基地に属する現地人メハリスト軍団のうち60人がパトロール中に反乱を起こして、8人のフランス人将校を殺害した。この際ALNに参加すれば、助命される旨伝えられたが、それを拒否して殺されてしまった。しかし殺害した反乱メハリスト達も、通報を受けて現場へ急行したフランス戦闘機で銃撃を受けて死傷してしまった。ALNは既に独立している東のチュニジアから多くの援助を受けていた。

そのチュニジアとの国境線が長いことから、ALNにとっては有利な生命線となっていた。武器や兵站の補給を受けていた。が、仏軍メハリストの巡視やヘリコプターそれに戦闘機の不意の襲来によっての打撃も大きかった。さらにモリスラインとして悪名高い鉄条網をチュニジアとの国境線に付設してしまったのである。そのため同志から戦闘員の加入や補給物資を送り込むにも、夜間活動を行ったり、時には仏軍メハリストに変装して越境せざるを得なくなった。

 

しかしこうした苦境に立たされていても、ALNの奮闘は外部からの大きな支援があった。

世界の賛同者を集めた。フランス自体の中にもとサルトルなどの著名人などがアルジェリア開放の声を上げ、さらには世界中の第三勢力を味方につけたのである。

ついに1962年フランス政府も撤退を余儀なくされた。ALNはアルジェリア独立を宣言して、世界中の世論に支持され、フランスも敗北を認めざるを得なくなった。アルジェリアの1954年から62年に及ぶ独立闘争は、まさに血と汗によって勝ち取られた貴重な独立運動の事例となった。

 

    アルジェリア独立後とメハリスト

仏軍メハリストは解体されたものの、新興アルジェリアに残されたメハリスト軍団は、その後も規模は縮小されたが、存続して国境や砂漠をマフリーラクダによって巡回している。

戦争が終結しても、メハリストMéhariste軍団は限られた範囲で残された。こうした地域では、ラクダが軍力となっていたために、治安や警察も兼ねて砂漠パトロールを行う任務を託された。人里離れた砂漠に分け入る、各地域の乾燥度、牧草の生え具合、家畜や野生動物の繁殖状態、水場や井戸の状態、オアシスなどの農作物の生育状況、遊牧民のラクダやガナム(羊、山羊)などの放牧状態などを調査する任務を負った。またパレードや祝賀行事などその独特な軍服とガンドーラ(マント)をまとう姿は衆目の集めるところとなった。

 

 

    トゥワレグ族の分離運動とメハリスト

しかしアルジェリア独立と同時に、厄介な問題が顕在化した。内陸部に居住する異民族トゥワレグ族が自治や独立を求めて動き出したのである。

アルジェリアはトゥワレグ族ともども一体化して反仏運動を行い独立を果たしたのである。内陸部のトゥワレグ族は、都市部では多数で指導的アラブ人に従ってきた。が、そのヘゲモニーには異を唱え、トゥワレグ族の居住地域の自治、さらには自民族の独立を目指す運動を起こす気配を見せていた。

新生アルジェリア国には独立時1962年にはメハリスト軍団12師団が存在したが、その構成員はトゥワレグ族が多くを占めていた。そしてトゥワレグ独立を志望する構成員は去ってゆき、独立闘争の有力な構成員となった。ラクダ操作よりも近代兵器類に通じた戦闘員の急務はかなったわけであるから。

南に隣接する新興国マリでもまた国境を跨いだトゥワレグ族の独立運動の対応に追われた。アルジェリア政府の要請もあって、1996年には新たにメハリスト軍団6師団を立ち上げ、北方のサハラ砂漠国境線をパトロールし、トゥワレグ族の動向の見張らせる任務を負わせた。

2012年にはトゥワレグ族の独立運動でも激しいゲリラ活動も伴った。アルジェリア政府もメハリスト軍団の再編を迫られた。政府直属のメハリストはわずかに368名にとどまっていた。

アルジェリア政府も、同和政策を進めており、多くの要求を容認してはいるものの、トゥワレグ族の問題は現代も尾を引いている。