マフラ族、マフラ・スルターン国(1)  

東アデン保護国・東アデン保護領(3)  南イエメン共和革命以前

キーワード:

マフラ族  滅びたアラブ・アード族   アード族の末裔  預言者フード

フード廟Babr Huud    黒い巨岩・愛駝ナーカ   フード廟調査

マフラ族のメディナ使節    マフラ族の早期の入信

イスラム世界の東西の拡大    西部方面マグリブ・アンダルシアへの進出

ラクダ騎兵軍   マフラ族集団のマフリー騎駝隊

騎駝隊長アブドッサラーム   マフラ族の領土ヤシュカル山地域Jabal Yashkar

フスタートの「マフラ地域」 Khitat Mahrah

マフリー種北アフリカに広まる   670年カイラワーン征服

イフリーキーヤ(アフリカ)総督府

711年イベリア半島に進軍  ベルベル人の将軍ターリク

ターリクの山Jabal・al-Taariq    ジブラルタルGibraltar

712年西ゴート王国を滅亡

732年トゥール・ポワティエの戦い・敗戦   ラクダの限界

「アラブ・イスラム世界とはラクダが有効性を発揮する地域」

後ウマイヤ朝後の分立小王国時代(1016-1090)   セビリア王国

この時代に名を馳せたマフラ族の末裔 マフラ族出の行政官アブー・バクルAbuu Bakr

 

 

 マフラ族の祖 アード族

マフラ族Qabiilah Mahrは太古の南アラビア伝承、「アード族」、「サムード族」、そしてアラビアンナイトに出てくる「列柱立ち並ぶ町イラブ」、預言者フードなど、との関係に最も深い後裔と見做されている。歴史時代には袖に存在せず、様々な伝承として残されている。「滅びたアラブ」、「古代アラブ」al-“Arab al-Qadiimに分類される。南アラビアはしたがって、その血を引く末裔たちが住んでおり、その代表がマフラ族とされている。現代でもアード族、サムード族の遺跡や、フード廟はじめ預言者たちの廟が現存し、その年祭などにもイスラム以前の祭礼・儀式・巡礼行、遺跡の保存など、かつてのその遺習が伝えられている。

 

筆者もアラブの基層文化、古層を探求している関係上何年もかけて、これら関連する文化事項を道なき道を踏破して調査行をし、帰国してからもそうした資料も参考にしながら追究した。最初調査に入ったのは1982年2-3月、次に2001年2-3月、最後が2004年2-3月であった。それ以降は危険度が上がり、外務省の許可が下りなかった。ばかりか、まだ大学に在職していたので、大学へも外務省からその締め付けもあり、現地調査をできず終いであった。そしてイエメンの現状は悲惨で三つ巴の内戦状態となっている。

 

それでも2003年からそれらの調査と集めた資料、それに現地調査の体験から追究して、以下のようなエッセイを中部大学国際関係学部の紀要に結果としてまとめていった。資料の中には、現地で収めた今では貴重な写真類も挿入してある。

「滅びたアラブ・アード族伝承(1)」『国際関係学部紀要』第30号 2003年3月 65~86頁

「滅びたアラブ・アード族伝承(2)-預言者フードの活動及びアード族の滅亡-」

『国際関係学部紀要』第32号  2004年3月1~30頁

「滅びたアラブ・アード族伝承(3)-長命者ルクマーンのこと」 

『国際関係学部紀要』第34号           2005年3月 1~23頁

「滅びたアラブ・アード族伝承(4)-シャッダード王と円柱立ち並ぶ都イラムについて」

『貿易風』第3号   平成20(2008)年4月 pp.138~55頁

「ラクダのディフカ(蹄蹟)」『月刊健康』No.538、平成14(2002)年3月

 

サムード族に関しては拙著『ラクダの文化誌』の中で第3章「ラクダを崇める——サムード族伝説と神聖ラクダ」としてまとめてあり、関心がある方をそちらも参照されたい。

 

マフラ族の名高い「マフリーラクダ」については、本ブログ中の諸処に触れている。またメフリストMèhriste、すなわちマフララクダを駆使しての「騎馬隊=>騎駝隊」、すなわち「ラクダ部隊」のことも後述する。

 

 

    アード族の預言者フード フード廟

詳しくはアード族、サムード族に関しては上記の論文を見ていただくとして、以下で現地調査したときの写真6枚を載せる。ブログの写真は白黒でなくカラーそのものが載せられるのでありがたい。いずれもアード族の預言者の墓とされる現存のフード廟Qabr Huudで、2001年、2004年調査時に撮ったものである。前回の絵入り地図を参照。その地図で内陸の首都で飛行場のあるセイユーン、その東の大都タリーム、タリームから約30Km地点にQabr Huudと明記されている。

フードHuudはアード族の預言者であり、そのフード廟Qabr Huud。上二枚の写真の向かって左はフード廟の遠景。ワジ・マシーラWaadii al-Masiilahが南東に下りアラビア海に面するサイフートに流れ込む、その上流の北岸に巨大な岩山に守られたように鎮座する。前の緑の木々が見えるが、そこがワジであり、この辺りは常に水がある。参詣者や巡礼者のための沐浴場も設置されており、聖なる井戸も中途にある。

道もそのワジ沿いに西北方面からはタリームが、南東方面からはサイフートまたはキシュンが出発点となる。年祭もタリームからの巡礼は大掛かりのものである。逆に南東の海からの巡礼者は湾岸やアフリカ、インド、東南アジアまでの移住者まで含んで多彩である。

右図はワジ沿いにいくつかの巡礼地点があり、そこからこの正面に至り、いわば「神殿回り」、メッカ巡礼で言えばカーバ神殿を七回廻るウクーフwuquufが行われる。正面から廟を見据えたもの。山の斜面に沿っているため、モスクと廟は緩やかな坂になっている。中央の黒い巨岩が元は預言者フードの愛乗したラクダである。不信の輩にここに追い詰められ、殺されかけた。が、神慮により変化(げ)してその背上の大きな瘤を具象する巨岩とした。その上の白亜のドームは預言者フードが埋葬されている廟である。

 

続いて上の二写真、左はナーカ・モスクMasjid al-Naaqahを右手横から撮ったもの。聖ラクダ・ナーカal-Naaqahが変化した黒い巨岩とそれを囲むように。聖ナーカは毛色も黒であったといわれる。不信の輩がナーカを殺害しようとした途端、神はナーカを巨岩に変えた、と言われる。ナーカ岩を囲むように、また支えるように礼拝所になっている。右図は預言者フード(の頭部)の遺体が安置されているフード廟Qabr Huud。天上は白亜のドームに覆われ、巨岩の裂け目がある。フードは殺害を逃れて、この裂け目に逃れて果てた、と言われる。墓の頭部の上には、角柱が建てられている。フードの遺体は30メートル近くあり、その身体は廟の上の山裾に20メートル程も続いて斜面の地中に埋まっている。アード族自体巨人族であり、太古のこの辺りの人類は巨人族であったのであろう。他の廟も、例えばオマーン領のサラーラ郊外にあった(今では市中の包含されてしまっている)預言者モーゼの父のイムラーン廟があり、やはりその墓は30メートルを超える。またこのサラーラ郊外の高台に預言者ヨブ廟Qabr Aiyuubもあり、やはり尋常な身体の長さではない。

 

上の二写真、左はフード廟の聖域の入口である。上二枚目の前景よりさらに下であり、ここから聖域になる。正式の訪問者はここから順次昇り、ナーカ寺院で礼拝を済ませ、その後最上部のフード廟で祈願を果たす。2001年には自由に出入りできて、廟まで行けたので調査もじっくりできた。しかし、3年後の2004年の同時期に訪れたときには、ムスリム以外は立ち入り禁止になっており、写真で見るように、見張り人まででており、チェックをするようになっていた。廟の守り人まで配置するようになったのである。聖域以外の脇の建物は宿泊施設で、普段は空になっている。ムスリムでない筆者はこの度は聖域外から観察せざるを得なかった。

右の写真はインターネット画像からのもので、おそらく巡礼行の一場面であろう。フード廟の改変ぶりが分かる。廟の施設全体を見ても、2001年の訪問の折は、わずか数家族のピクニックがてらの参詣者であった。参詣者も多くなっており、常住する者も出てきて発展していた。この廟を比較しても、上の四枚目の写真に見る如く、土色の簡素なものであった。ところが3年後には、この通り漆喰に装飾されて美化されていた。見比べて頂きたい。また床にも高級な、同一模様の絨毯が敷かれている。巡礼者たちは廟の周りでくつろぎながら祈願し、また説教者の教説に耳を傾けている。預言者の終息の地となった岩の裂け目では説教者がフトバ(説教)を行っている。説教者の背後には墓標を表す角柱も白亜に塗られ、そこから預言者フードの遺体が山側に横たわっている。一枚目の遠景で白亜のドームの山側に白線が見える。それが遺体を覆う墓で地上に出ている部分は漆喰で塗られている。

 

     

 

  その後の古代イエメン王国

アード族やサムード族が伝説の霧の中に消えた後、イエメンでは、マアリブのダムや、シバの女王、乳香、幸福なるアラビアなど、がカギ概念となる古代王国がいくつか興亡した。そうした中にハドラマウト王国もあったし、マフラ王国もあった。マフラ王国では香料の最高級品である乳香が産出されていたし、没薬や麒麟血、竜涎香、アロエ、蜂蜜などの、香料や薬剤が産出され、重要なスパイスロードの交易品となっていた。またマフラ族はソコトラ島の支配もあり、同様な貴重種が産出され交易の重要な対象となっていた。

 

 

 イスラム史の中のマフラ族 

マフラ族がイスラム化されるのは、他の地域と比しても随分早かった。622年ヒジュラ(遷都)が行われ、メディナがイスラム世界の中心になったが、すでにその頃、マフラ族は使節を送っていた。マフラ族の指導者の一人であったマフリー・イブン・アブヤドMahrii ibn Abyadは多くの族員を引き連れて、メディナの預言者のもとを訪れた。そして教義や儀礼、ウンマ(イスラム共同体)の話を聞くうちに、イスラムに入信することを決めた。一神教信仰に入ったのである。マフラ族のそれまでの信仰は古代イエメン王国がそうであったように、多神教、星辰信仰であった。

預言者も了承して、ジハードの遠征においてマフラ族の領土も民もその対象とみなさず、逆にマフラ族およびその領土を侵したものは、神アッラーの領土を侵したものとしてジハードの対象とする旨宣言した。

  

イスラムがメディナを中心にウンマを確立させ、預言者の死(622年)の後に起きたリッダ(イスラム離れ、離反)運動をも克服したイスラム軍は、いよいよダール・ル・イスラーム(イスラーム化の平和世界)の拡大に転ずる。外部に広大なダール・ル・ハルブ(戦乱・動乱の世界)が広がっており、それを平定して、パックス・イスラミカスを創生してゆこうとする運動であった。こうしてムスリム戦士たちはジハード(聖戦)を唱えて、東方の異世界、西方の異世界へと進軍していった。西方、エジプトやマグリブ地域は、海岸部はビザンチン帝国領だったし、内陸部は異民族のベルベル諸族が割拠していたので、ジハードも激しい戦闘を伴い容易には進展しなかった。

 

     優駿ラクダMahrii騎乗のマフラ族 

西方への進軍は、預言者の時代いったんはナイル川東沿で中止させられていた。バフル(海、大河)を超えることは禁じられていた。が、預言者の死(632年)後、正統カリフ時代になって、体制が整うと東西にイスラム軍が展開されてゆく。

イスラムの拡大は西部方面ではエジプト征服の立役者アムル・イブン・アース“Amr・ibn・“Aasのもと、ナイル川を越えてジハードが展開され、西エジプト、リビヤの方に軍が進められた。

この西方大征服において、マフリーラクダに乗って、異教徒にジハードとして挑んでゆく勇敢な戦士群があった。ラクダ騎兵軍である。その中に多くのマフラ族集団があった。マフラ族は、当初は軍用ラクダとしてマフララクダ(駿足、機敏、耐久を兼ね備えたラクダで、メフリ―al-Mehriiと呼ばれるようになった)を供給するのが任務であった。が、連れてきたラクダを、すぐにそれを意のままに操り、戦闘を有利に導くマフラ族の雄姿が顕著となった。

アフリカ征服において、最初期のエジプト征服、マグリブの征服史はマフラ族、およびメフリ―ラクダなくしては語れない。後述するように優れたラクダ・マフラ種メフリ―に乗って先陣を切るマフラ族はメフリ―軍団と呼ばれた。歴史家イブン・アブドルハカムの名著『エジプト・北アフリカ・スペイン征服史』の中で、余すところなくメフリ―軍団の活躍が記されている。

上図はイスラム世界が西へと拡大してゆく7世紀中葉から8世紀中葉に至る地中海世界である。(H.A.R.Gibb:Historical Atlas of the Muslim Peoples,DJambatan(Amsterdam),N.D.,p.5)      

エジプト征服将軍アムル・イブン・アル・アースがさらにリビアの東方バルカ、キレナイカまで進出した(643年)。その後、スーダンのヌビア遠征(642)を果たしたアブドゥッラー・イブン・サアド・イブン・アビー・サルフが後継した。エジプト総督ともなったイブン・サアド将軍はリビアの西方トリポニアを征圧した。こうしてリビア全土を制圧(647年)した。そして正統カリフ時代が終わり、ウマイヤ朝が起こり、政権が安定すると、西方への遠征は、ウクバ・イブン・ナーフィウ(683年没)に託された。ムスリム軍はリビアから西進させ、未知の当時イフリーキーヤ(=アフリカ)と呼ばれたチュニジアに侵攻して670年、後に首都となるカイラワーンを落とす。ウクバ将軍はチュニジア・モロッコの海岸部を制圧してタンジールで大西洋に臨む。そこから、モロッコのリバートまで征服した後、転じて東進する。アトラス山地のベルベル世界を制圧してカイラワーンに戻る帰途、アルジェリア東部のアトラス山中のビスクラの地でベルベル族の反乱分子に襲撃されて落命する(683年)が、アフリカ大遠征を成し遂げた功績は高く評価されている。

こうしてイスラム軍に新たなベルベル勢力が加わる。

8世紀に入り、カイラワーンにアフリカ総督府が新設される。初代総督にムーサ―・イブン・ヌサイルが就任した。ムーサ―総督は未知のスペインの偵察及び侵略を、有能なベルベル人の将軍ターリク・イブン・ジヤードに任せる。711年ターリク将軍は海峡を挟んだモロッコのセウタからスペイン上陸を果たし、乗ってきた船を焼き捨て、退路を断つ意気込みを見せる。この海岸の小高い山(jabal)に登って決意の演説をぶった。後に地名としてターリクの山Jabal al-Taariqと呼ばれるようになり、発展してゆく。アフリカ大陸とヨーロッパ大陸の結節点となり、その海峡と共に現在のジブラルタルGibraltarの地名の由来となった。

ターリク将軍の率いるムスリム軍は、在スペインの虐げられていたユダヤ人らを味方につけ、地の利を得てスペインを中央突破して北上してゆく。ゴート族との戦いで連戦連勝して、その年に西ゴート王国を滅亡に追いこむ。

ターリク将軍率いるムスリム軍から、勝利の報と戦利品がカイラワーンに届けられる。すると、ムーサ―総督も安座しておられず、翌712年自ら別軍を率いて、スペイン西部を遠征する。こうして北部を除いて大方のスペインの征服を終えると、ムスリム軍はピレネー山脈を越えてフランスの南部の攻略に入った。しかし732年の「トゥール・ポワティエ間の戦い」でカール=マルテル指揮のフランク軍に大敗して、ピレネーの南に戻る。よく言われているように、北には限界があった。寒冷・湿潤な地域ではヒトコブラクダの軍用機能が有効に働らかなくなる。暑熱・乾燥地帯でこそラクダは十分な働きを見せる。この戦い以降、「アラブ・イスラム世界とはラクダが有効性を発揮する地域」と揶揄されるようになった。

 

 

 

  マフラ族ラクダ騎兵隊長アブドッサラーム

                       “AbdusSallaam ibn Habiirah al-Mahrii

 マフラ族の将アブドッサラームはすでにマフラ騎兵団のリーダーとして有名になっており、北アフリカの遠征・征服に重要な役割を演じていた。北アフリカ遠征軍の総指揮者、将軍アムル“Amr・ibn・“Aasの有力武将としてエジプト征服に際して、640年ビザンチン帝国の大都ヘリオポリスを陥落させ、646年首都アレクサンドリアを一旦奪取した。しかし彼がメディナに急用あって戻っている最中、ビザンチン軍は帝国からの援軍を得て、奪い返してしまう。将軍アムルは急いでエジプトに戻り、こちらも援軍を得て、ビザンチン軍の南上に対して、ナイル川を越えたエジプトの西部のビザンチン軍に対して、ナイル川沿いのアレクサンドリア寄りの砂漠の中、ニキオウNikiou で決戦が行われ、ムスリム側の勝利を得る。ナイル川の東側はダール・ル・イスラーム(イスラムの平和の世界)に入った。

この戦いでも馬による騎兵のほかに、マフラ族騎兵の小物には目もくれず、多少の被害はあっても、目指す敵に向かって情け容赦なく突進する姿勢に味方も驚嘆し、またメフリ―(Mehriii マフラ族の特産ラクダ)の操縦も巧みで目を見張らさせた。メフリ―のそのスピード、俊敏さ、堅強さに他種のラクダには無いすごさがあった。これ以降というもの、メフリ―の需要は高まり、ラクダ騎兵の求めて乗るラクダ種となっていった。

凱旋将軍アムルは、「メフリ―騎乗のマフラ騎兵隊は命奪われることなく、命奪う軍団である」と言わしめたほどであった。

メフリ―軍団の団長はマフラ族のアブドッサラーム “AbduSallaam ibn Habiirah al-Mahrii であった。数々の戦勝を上げ、エジプトからビザンチン帝国を追い払った功労者であった。将軍アムルの信任が厚く、アブドッサラームは出世を続け、まだビザンチン領であったリビヤ征服には、ムスリム軍の指揮を時に彼に任せるほどであった。ムスリム軍はアブドッサラームの指揮のもと、敵ビザンチンの勢力を一掃して、リビアをダール・ル・イスラーム(平安の世界)へと導きいれた。マフラ族のアブドッサラームはリビア遠征において、初めてのムスリム全軍の総指揮官となったこともあった。マフラ族の名とメフリ―ラクダの名を一段と高めた。

 

エジプトおよび北アフリカ大遠征の軍団ごとの働きに対して、将軍アムル“Amr・ibn・“Aasは、641年その論功行賞の順に、新しくムスリム地域になった土地を分与して与えた。エジプトの新しい首都となるフスタートの近くにヤシュカル山地域Jabal Yashkar があった。その一帯がマフラ族の領土として与えられた。それゆえその地域は「マフラ地域」 Khitat Mahrah(英語名 the Mahra Quarter)と称されるようになった。この一帯はマフラ族の駐屯地だけでなく、住宅地ともなってフスタートと共に発展していった。マフラ族は他にもフスタート及びマフラ地区に隣接するラーヤ地区Khitat Al-Raayah も任された。そこには居住地のほかに、馬やラクダの飼育場があり、メヘリーラクダが主体の管理飼育がおこなわれていた。

 

        マフリーラクダ北アフリカに広まる

 ムスリム遠征軍はさらに西にジハードを進めていった。東リビアのキレナイカ、バルカまでは老齢の将軍アムル“Amr・ibn・“Aasが務めていたが、さらに西にムスリム軍が進軍するにあたって、信任の厚いアブドッサラームが遠征軍を率いることになった。そしてムスリム軍をトリポリタニア地方の地中海に沿ってシトラ、マコマデス、ラブダを征服して、ついにリビア第一の都市トリポリを陥落させる。一方将軍ウクバ”Uqbah ibn Naafi”の率いる別動隊は、内陸地方のファッザーン地方の遠征に出かけ、征服を敢行する。

トリポリで合流した両者はさらに西チュニジアに向かう。そして670年フェニキア時代からの古都カイラワーンを陥落させる。これは大ニュースとして、早馬でメディナに届けられた。カイラワーンはマグリブ全体を統括するアフリカ総督府になってゆく。さらにアルジェリア、モロッコと大遠征は続くのであるが、指揮官は将軍ウクバ”Uqbah ibn Naafi”が引き受けることになる。マフラ族軍団も、メフリ―ラクダに騎乗して遠征に加わり、ついに711年、ジブラルタル海峡を渡ってスペインに入る。このころはカイラワーンに総督府ができ、初代総督にムーサ―・イブン・ヌサイルが就任し、ベルベル人ターリク(Taariq ibn Ziyaad)を総大将にスペイン征服を命ずる。

 

ムスリム軍は、マフラ族とその軍駝メフリ―と共に、モロッコのセウタから地中海を渡り、ジブラルタルからスペイン征服にも参加して勇名を馳せた。マフラ族はそれぞれの征服地に居住区域を与えられ、またメフリ―ラクダも故郷マフラから続々と送り込まれ、軍駝の中核となった。現在でも北アフリカでは、ラクダの中でもスマートでコブの低いラクダはメフリ―の末裔であるはずである。

 

スペイン・アンダルシアで名を馳せたマフラ族の末裔

 

   上図はイベリア半島の小国分立時代地図(同上書p.12)

  イベリア半島はアラブ・イスラム世界ではアンダルシアと呼ばれ、上で見たように711年からイスラム世界に入った。そして750年ウマイヤ朝が倒されアッバース朝が成立する。その折ウマイヤ家のアンダルシアの遺臣を頼って、様々なエピソードを生みながらもダマスカスからマグリブをひたすら西に目指して大逃亡に成功する。

そして756年にはウマイヤ家を再興させて「後ウマイヤ朝」を興す。東のアッバース朝と対抗するほどの勢力を築いた。イベリア半島にイスラム文化の花が咲き誇った。第8代カリフ・アブドッラフマーン3世(在位912-61)の治世に全盛期を迎える。そしてカリフを宣言して「西カリフ国」が成立する。しかし後ウマイヤ朝は11世紀に衰退してゆき、1016年年崩壊する。

しかしその後のイベリヤ半島はイスラム文化の方は爛熟し、大都市では王朝が乱立して、分立小王国時代(1016-1090)となってゆく(上図参照)。そうしたなか、セビリア王国(上図⑭)にマフラ族後裔の一人の栄華盛衰がみられる。

11世紀末、マフラ族出の行政官アブー・バクルAbuu Bakr Muhammad Ibn Ammaar Al-Mahri、その人であった。イベリア半島アンダルシア地方に、遠征に参加したマフラ族の子孫アブー・バクルAbuu Bakr Muhammad Ibn Ammaar Al-Mahri の活躍がみられた。彼は軍人としてではなく、政治家として頭角を現した。後ウマイヤ朝(756-1016)が滅んだあと、スペインのムスリム王朝が乱立して、小王国時代(1016-1090)となっていた頃である(上図参照)。グアダルキビル川の豊かな恩恵を受けていたセビリア王国はアッバード族の支配のもとに築かれていた。後ウマイヤ朝崩壊後、セビリアも独立して王国を築ていた。マフラ族の後裔アブー・バクルは大臣を務めていた。国王はムウタミド Al-mu’atamed Ibn Abbaad であった。アブー・バクルは有能さを発揮して、他の大臣の競争に勝ち抜いて、宰相の地位を掴んだ。政治的能力の際立ったアブー・バクルは国王とも意見で対立することが多かった。そこで彼は国王を排除して自ら政権を握ろうと企んだ。そしてついに自ら国王の位に就いた。しかし安閑としていられなかった。英雄でありムスリムにもなったエル・シドなどのキリスト教徒のレコンキスタの反乱があり、北方に向かいが鎮圧に失敗する。そして1084年、旧セビリア王族の一隊によって捕縛され、ついには処刑の憂き目にあってしまう。

 

  これら以外にもイスラム史の中でも、折々マフラ族の名が登場する。

例えば、13世紀にはイスラム化されていたインド西部のグジャラート王国では、1548 年に 13 年ぶりにメッカから帰国した官僚アーサフ・ハーン Aasaf Khaanが,専横なアミールたちに対してマフムード・シャー 3 世の王権を確立するために,同行してきた直属の部下 h. asham, mamālīk を含む 1 万 2 千人(?)からなるという外人 gharīb を宮廷や国庫 khizāna に常駐する親衛隊 khaassa として採用させた。この外人兵は,アデン北方のアラブ系山岳民ヤーフィゥ Yāfiʻ 族がもっとも多く,ほかにイエメン東部のマフラMahra 族,ハバシュ,アナトリアのトルコ人,西欧人 Faranj,ジャワ人 Jāwa などからなった。かれらは宰相の執行許可の必要もないハワーラを支給され,のちにはハバシュ出身のマムルーク,ウルグ・ハーン Ulugh Khān の指揮下に入った。([中世グジャラートの海港都市の自治とグジャラート王国のジャーギール制] 余部福三著、東京経済大学「文自然科学論集 第 144 号」