カスィーリー首長国ほか

      東アデン保護国・東アデン保護領(2)

                      南イエメン共和革命以前

キーワード:

近代南イエメン 英国のアデン統治  東アデン保護国・東アデン保護領

カスィーリー首長国   ワーディー・ハドラマウト  ハドラマウト王国

セイユーン・タリーム・シバーム

「ハドラミー」(ハドラミ人)   インドや東南アジアへの出稼ぎ

聖廟カブル・フードQabr Huudの年祭

クアイティー首長国との葛藤   セイユーン奪回記念切手

最近のニュース  2008年ワーディー・ハドラマウトの大洪水

ハウラーウ首長国  「上・下ハウラーウ」 英国との保護条約内容

テオドール・ベンTheodore Bentの旅行記   上ハウラーウ宮殿の訪問

            イルカ首長国   ワーヒディー首長国領

 

アデン保護国・東アデン保護領は、下の両図が示すのように両アデン保護国のうち、「西アデン保護領」には細分された17の首長国が加わっていた。しかし「東アデン保護領」には結成時1937年、7首長国が連合として参加した(参加させられた)。大きく広くハドラマウト地方の諸首長国、西から上ヤーフィウ首長国、クアイティー首長国、カスィーリー首長国、マフラ首長国、それにアラビア海に面する港町を擁するイルカ首長国、ハウラーウ首長国である。

イルカ首長国、ハウラーウ首長国、この二国は、小さな港湾都市国家であり、ワーヒディー首長国領の中にありながら「西アデン保護国」には入らず、より軋轢の少ない「東アデン首長国」連邦の方を選んでいる。両首長国は下図で示されているが、アデン湾に沿っており、向かって左図では、海の中にはみ出して記されており、右図では左下海岸線に沿って書き込まれているので、こちらは分かりやすいように鉛筆で丸く囲ってある。結成時はこの6首長国から構成されていた。なおソコトラ島はマフラ首長国が伝統的に管理していた。

前回は上ヤーフィウ首長国、クアイティー首長国を概略した。

今回は残りの4首長国を採り上げることになるが、マフラ首長国に関しては記すこと多く分量が多くなり、次回に回さざるを得ない。したがってマフラ首長国を除いた3首長国を扱うこととする。

カスィーリー首長国と小国ハウラーウ首長国、イルカ首長国である。後者の二つは結成時は首長国として独立を保っていたが、元来ワーヒディー首長国の領土内の飛び地、両首長国は1950年代にはワーヒディー首長国に併合されている。この短期な小国も地名だけは残っているが、縮尺が小さい地図ならば、記載されていない。現代のグーグルマップで拡大しても記載がない。

 

 

 

 

 

    3 カスィーリーKarhiirii首長国    

        英語  the Kathiri State of Seiyun in Hadramaut,

        アラビア語 al-Salṭanah al-Kathīrīyah - Sayʾūn - Ḥaḍramawt

現在の南北統一されたイエメン共和国の中で、ハドラマウト県の中にあり,そのほとんどを占めるのが、かつてのカスィーリー首長国領であった。もっともクアイティー首長国に大分ぇずる採られてしまってはいるが。このカスィーリー首長国もそれゆえ、別名は「ハドラマウト首長国」であった。セイユーンやタリームの歴史ある都市がワーディー・ハドラマウトに沿って並んでいる。近代化される以前の首都はセイユーンに置かれていたが、共和革命以後、クアイティー首長国と統合されてしまった。、ハドラマウト県の県都もまたはムカッラー市に持って行かれてしまった。しかしセイユーンも健在で繁栄しており、にも飛行場が設置され、内陸の空の便の離着地となっている。

最近のニュースとして、ワーディー・ハドラマウトには、豪雨によって2008年大サイル(洪水)が起こり、何千人もの人々から家や建物を奪ったばかりか、歴史的建造物の多くが損傷を受けた。これについてもう少し詳しく本ブログ最後で引用しておく。

 

イエメンのこの地域は、歴史が古く紀元前の古代文化にさかのぼる。南イエメンがその頃は主体で、シバームを王都とするハドラミー人のハドラマウト王国(紀元前8世紀 - 3世紀)が栄えた。このようにイスラム以前の時代からアラブ人による王国も存在し、交易の中継地として栄えた。

ハドラマウト一帯は、7世紀中葉イスラム教を受容した。そしてその後は、ムスリム王朝の興隆と文化の華が咲いた。イエメンに起こった諸王朝(ラスール朝など)や北イエメンを中心に活動するザイド派のイマームの支配を受けたが、南イエメンでは大分事情が異なる。砂漠地帯を擁する南イエメンでは、遊牧部族がもともと強大であった。すでに16世紀に土着のカスィーリー王国が起こった。19世紀にはさらに新興のクアイティー王国が起こり、ハドラマウト地方は両王国の支配地域に分かれて対立することになる。

 

アラビア半島南部、イエメンの東部ハドラマウトの大部族カスィーリーKathiirii。その大部族が近代に一時的に作った土候国、「カスィーリー・スルターン国」とも、また首都を入れた「セイユーンのカスィーリー国」the Kathiri State of Seiyun、Dawlah al-Kathiiriyyah、アラビア語ではal-Saltanah al-Kathiiriyyahとも称した。首長はスルターンSultaan を王号とした。

 

大部族カスィーリーKathiirii は、15世紀には内陸部のワーディー・ハドラマウト及び海岸部を支配しており、シバームとサイユーンとを本拠地にして、その周囲では農耕を行い、北側のルブウ・ル・ハーリー大砂漠へはラクダやガナム(羊やヤギの群れ)の大遊牧を行っていた。牧民気質旺盛で、武勇と荒々しさとを備えていた。またキャラバンも仕立てて。内陸の交易をおこなった。

 

19世紀にはサイユーンを本拠地して、繁栄をみた。そしてすでに1847年には聡明な族長ガーリブGhaalib ibn Muhsin Al-Kathiiri(在位1847-70)は独立国家の体裁を整え、「セイユーンのカスィーリー国」the Kathiri State of Seiyun、アラビア語ではal-Saltanah al-Kathiiriyyah fii Say’uunとの国名と、自らをスルターンと称するに至っている。

スルターン・ガーリブは死亡する1870年まで政権を握り、「セイユーンのカスィーリー国」の礎を築いた。

カスィーリー族が「カスィーリー・スルターン国」を形成した時、その首都としたのは本拠地サイユーン(正式にはサイユーン, アラビア語 Say’uun)であった。ワーディー・ハドラマウトの中央にあり、西方にはシバームがあり、東方にはタリームの町があった。

1462 年にはカスィーリー家のスルターン・バドル・イブン・トゥワイリクが海港シフルを領有していたことが知られている。1522 年にはポルトガル軍と戦い、勝利をおさめた。1610 年にはオランダの東インド会社が設立され、インドとの交易が盛んとなった。18世紀半ばにブライキー家のスルターンがセイユーンに宮殿を築いた。

 

上図向かって左は「カスィーリー・スルターン国」の国旗。黄色を上下に真ん中を緑にした三色旗。砂漠と農地を表しているのであろう。旗の左隅に三角を入れ赤地に白の三つ星を配する。三ツ星のうち二つは首都セイウーンとタリームであることは間違いない。三つ目星は、ワーディー・ハドラマウトに平行して並ぶシバームであろう。1917年ごろ製作されたものであるから、シバームもカスィーリー族のものであった。しかし1946年、海岸部の膨張するクアイティー族との戦闘で敗れ、奪われてしまった。その後国旗を変えればよかったのであるが、そのままであるのは、いつかは取り戻そう、失地回復の祈願が籠ったものとなってしまった。1967年共産革命によって「カスィーリー・スルターン国」は解体されるが、その滅亡の時まで用いられていた。

右図は「カスィーリー・スルターン国」の旅券。1942年ごろ発行されたもの。大きく三日月を描き、その上に五芒星。イスラム教の象徴である。三日月と五芒星の間に交差する剣。その下にアラビア語でジャワーズjawaaz(旅券)、その下にダウラ・カスィーリッヤal-Dawlah al-Kathiiriyyah(カスィーリー国)、三日月の中にハドラマウトHadramawtと記されている。

 

 

カスィーリー首長国は強大な部族であって、海港ムカッラーもシフルも支配していたが、本拠地の首都サイユーンを内陸ハドラマウトに置いたため、陸上交易も海上交易も盛んにおこなった。陸上交易では多くのカスィーリー族の支族は遊牧を生業とすることを自己の誇りとしていた。それ故ラクダのキャラバンを組み、ワーディー・ハドラマウトを東方のズファール、オマーン、西方のアデン、タイッズ、サヌアを、まさに香料道・スパイス・ロードの主役として、西隣のマフラ族同様、活躍した。

海上交易もまたムカッラー及びシフルを良港としてを持っていた。今ではムカッラーの方が発展しているが、時代をさかのぼるほどシフルの方が重要な機能を果たしていた。東はインド方面、ペルシャ湾、西はアフワル、ジンジバール、アデンを経て紅海方面へ、そして南へはソコトラ島を経て、東アフリカの、モガデシュ、ザンジバル、キルワ、コロモ諸島、マダガスカル島に至るまで、広く航海を行っていた。

 

ただし、クアイティー首長国に海港は奪われても、旧来の伝統は引き継がれ、港までのルートまでは確保されており、その後一層海外に目が注がれて、インドや東南アジアへハドラミーとして出稼ぎを多く出しており、またタリームの東方にある太古のアード族の預言者の聖廟カブル・フードQabr Huudがあり、その年祭には、地元だけでなく、他部族の信者、海外(インドネシアまで)の信者や出稼ぎの多くの参詣があり、情報交換がされていた。いち早く国家を作る意識の高さもこうした移住者の情報が促していたものと思える。

 

英国との接触は19世紀中葉から始まり、1869年英国のアデン保護領となる内密を行う。

1918年には、1870年から父に代わりスルターンを務めていたスルターン・マンスール      al-Mansuur ibn Ghaalib Al- Kaathirii (d.1929)は、第一次大戦以降使用され始めた飛行機による空爆の威力を十分知っており、また海岸部での英国の軍艦からの艦砲射撃の威力も経験していた。異人嫌いではあっても、英国保護領に入ることを拒否したら空爆を受けるのは避けられなかった。それゆえ、英国の保護領に入ることを公にして、英国との協定で結ぶ。保護国の名称も従来通りの「セイユーンのカスィーリー国」the Kathiri State of Seiyun、アラビア語ではal-Saltanah al-Kathiiriyyah fii Say’uunの名称が用いられた。

1939年には当時のスルターン・ジャアファル(上述のマンスールの孫)は英国との新たな友好条約を結び、英国との距離を近くした。この時「東アデン保護国」の連邦として参加を余儀なくされた。

1963年からさらにアデンとの関係、北イエメンの革命の影響などから、英国「南アラビア保護領」となった。当時、この調停に当たっていたのは1949年から国王となっていたスルターン・フサイン al-Husayn ibn “Ali Al- Kathiiriであった。

 

上で述べた、これらの海陸の主邑はいずれも長らく、この雄族カスィーリー領であった。が、近代になって海岸部が新興のクアイティー族が勢力を増し、削り取られてゆく。1866 年に沿岸部の古い海港都市シフルが、また1881 年により大きな海港ムカッラーが奪取され、カスィーリー族は内陸へと追い払われた。勢力が増すときは何度か奪回に成功するものの、上ナーフィウ族の援軍や、後には英国を味方につけて、クアイティー族が領有し、時代が新しくなるたびにカスィーリー族の反撃もなくなっていった。

 

敵対するクアイティー家の初代スルターン、ウマル・ビン・アワド・アル・クアイティーは、機を見るに敏で、インドにまで船旅をして、デカン地方のハイデラバード王国では、ジャマダールに任命され、ハドラマウトに戻り支配権を握ったという経緯をもつ。

しかし繰り返すが、新興のクアイティー族によって、上ヤーフィウ族と英国を後ろ盾にして、海岸地方が奪取される。ムカッラーもシフルも奪われてしまう。そして次第に内陸の領土までを侵食されてゆく。カスィーリー族はクアイティー族の膨張を抑えきれなくなった。後者はさらに領土拡大を狙い、北方のカスィーリー領を犯し始めた。高楼の大都シバームも落とされてしまう。そして一時的であるが、ついには本拠地のハドラマウトのサイユーンまでを奪われたこともあった。

このことは前回のブログで触れた如く、クアイティー軍は1946年シバーム征服に成功する。またカスィーリー国の首都サイユーンも余勢をかって一時的に奪いとった。

興味深いのは1946年の両者の争奪戦で、クアイティー族がシバームを奪取して、それを記念切手にした。その戦勝記念の切手は1946年6月8日の日付であった。このことは前回触れた。しかしカスィーリー族側でもほどなく首都サイユーンを奪回したことである。

本拠地で首都であるサイユーンはしかしすぐに奪回した。それを明示するのがカスィーリー国の切手であって、下に見る如く切手の上にスタンプで押され、記念としたものが残されていることである。注目すべきはその奪回記念の日が1946年6月8日とある。すなわち、奪取されたその日に、奪回したことになる。これをどう解釈するか。名誉挽回で同日にした可能性もあろう。下図参照。

 

上はカスィーリー首長国の郵便切手。切手に描かれた首都サイユーンはクアイティー首長国に短期間奪われていたが、そう時を置かずに奪い返した。1946年6月8日、カスィーリー軍が奪回して、一時的に首都機能を東方のタリームに移していたわけであったが、サイユーンに戻すことに成功した。向かって左が通常の切手であるが、右が奪回時を記念して、切手の上に押されたスタンプで、奪回時の歓喜が表わされている。図は当時のサイユーンの光景で、都の北方にあり、中央奥の小高い丘の上にある角型の白亜の高層建築がカスィーリー王族の居城であった。1220 年に創建され、15 世紀にはカスィーリー家のスルターンが住まうようになった。今では博物館になっている。右上の肖像は当時のカスィーリーのスルターン。1938年からそのスルターン位にあるジャアファル・イブン・マンスールJa“far ibn al-Mansuur Al Kathiirii であり、クアイティーとの闘争に明け暮れたことであろう。1949年に死亡するまでスルターンを務めた。

その頃の切手には、「サイユーンのカスィーリー国("Kathiri State of Seiyun")」と刻まれている。原語アラビア語は左右の両端にあり、向かって左隅にDawlah al-Kathiiriyyah (カスィーリー国)、右隅にHukuumah Say’un Hadramawt(セイユーン・ハドラマウト政府)としてあり、クアイティー首長国の切手の体裁と同一である。

 

 

 カスィーリー族の支配する内陸ハドラマウトはスパイス・ロード(香料交易路)として、歴史的にはインドや東南アジア、東アフリカなどと繋がっており、したがって交易商人や移民として海外に居留するものを多く生み出している地域でもある。ハドラマウト出身者やその子孫達は「ハドラミー」(ハドラミ人)と呼ばれ、独自のネットワークを形成している。現在でも故郷であるハドラマウトと移住先の移民社会の間には人的・物的を含めた様々な交流があり、このようなハドラミーのネットワークは環インド洋諸地域において大きな影響力を与える存在になっている。

18 世紀以降、インド洋沿岸地域に大規模な移民を行ったハドラミーは、海外からの資金や技術によって故地ハドラマウトに豪華な邸宅、モスク、宮殿を建設した。

カスィーリー家の支配の下に、治安が安定していた。同時に交易においても繁栄期を迎えており、シバームを例にとれば1930 年代には、隊商交易のために毎月400 頭から 1000 頭のラクダが当地を訪れていたという。

カスィーリー首長国の首都として繁栄してきたサイユーンであったが、1967年の共産主義革命で首長国自体解体され、首都機能は失ったが、ハドラアウトの中心地としての繁栄はその後も続く。サイユーン近郊には空港ができ、ハドラマウト地方の空の玄関口となっている。

 

1967年南イエメンに共産革命が起こり、英国も撤退したため、国家が崩壊して「イエメン

民主共和国の一属州となった。「セイユーンのカスィーリー国」の最後のスルターンとなったのはフサインal-Husayn ibn “Alii Al- Kaathirii (上述のジャアファルの孫)であった。

この革命により、「南イエメン人民共和国」として統一され、独立すると「セイユーンのカスィーリー国」は無くなり、その一部になり、さらに1990年の南北イエメン統合後は「イエメン共和国」のハドラマウト県になっている。

(Robin Bidwell: Arabian Personalities of the Early Twentieth Century, the Oleander Press (G.B.),1917,pp. 44,66,274-75、他)

 

 下の郵便切手二枚は、カスィーリー首長国発行のもので、図柄は古いサイユーン宮殿である。本拠地であり、政治的拠点を置いたカスィーリー家の宮殿である。カスィーリー家の宮殿は、古くは 西側の斜面地にあったが、現在の場所に 1920 年代に建設され、1967 年までは宮殿として機能していた。この敷地は、元々 は城砦として建設されていたが、その後アル・カスィーリーの所有する宮殿として増築が重ねられていった。

向かって左が1967年以前の「カスィーリー首長国」時代のもの。右は67年革命によって併合されて国名も「南アラビア共和国」となり、通貨単位も変わったので、印紙の上にスタンプで押されている。上の保護国であったアデンの大きな文字が黒く塗りつぶされている。

 

 

  最近のニュース:筆者が最後のイエメン調査に出かけたのは2004年2-3月であった。その時も外務省から再三待ったをかけられ、またイエメン大使館も全く非協力になっていた。その後2009年から政情が一転して大変な破壊と混乱が続いている。その前年の2008年ワーディー・ハドラマウトには大洪水があり、あらゆるものに被害を与えた。文化遺産にも多大な被害を出し、我が国からも被災文化遺産の調査団が政情不安の中、現地に出かけて、報告書が出された。その序文をいかに紹介する。調査報告は写真や図入りで説明されており、この偉業は讃えられねばならない。今となっては、調査も叶わぬ混乱状態となっている。一読をお勧めする。

 

 2008 年 10 月末にイエメン共和国のハドラマウト地方を襲った洪水は、各国のメディアを通して世界にいち早く伝 えられました。洪水は、多数の死傷者および行方不明者、そして 2000 人以上の避難民とともに、家屋の倒壊や産業・ 交通の各方面にわたる社会的な基盤施設の崩壊を地域にもたらしました。その被害は、この地方に広がる土構造物を 主とした歴史的建造物にも及び、特に「砂漠の摩天楼」といわれる都市シバームが被災したことは広く報道されるところとなりました。  国連をはじめとした国際機関および世界各国と並び、わが国は外務省をはじめとする各省庁および国際協力機構 (Japan International Cooperation Agency)を通じ、イエメン政府に対してハドラマウト地方復興のための支援を 実施しました。文化遺産に関しては、シバームにおいて長期的支援活動を継続してきたドイツ技術協力公社(Deutsche Gesellschaft für Technische Zusammenarbeit)によって世界遺産シバームに関する被災状況が明らかにされました。  本報告書では、世界遺産シバームを含めハドラマウト地方に広く散在する建造物に対する被災状況調査結果を報告 します。  最後に、この調査実施にあたりご尽力賜りました関係者の皆様、ならびに文化庁、外務省、在イエメン日本大使 館、ユネスコをはじめとする関係諸機関に深く感謝申し上げます。また、イエメン文化省ではムフラヒー文化大臣 (Muhammad Abu Bakr al-MAFLAHI)文化大臣閣下、アフマド・サード・アル・ラウディー氏(Ahmad Saad Al Rawdy 文化省サナア歴史・建造物課課長)、アブドゥルラフマーン H.O. アル・サッカーフ氏(Abdulrahman H.O. Al-Saqqaf 文化省古物・博物館・文書局ワーディー・ハドラマウト支部長)の各位に厚く御礼申し上げます。 独立行政法人 国立文化財機構 東京文化財研究所  文化遺産国際協力センター長  清水 真一

 

 

   4ハウラーウ首長国   

       英語 Sheikhdom of al-Hawra

           アラビア語 Mashyakhah al-Hawraa’

 

 ハウラーウ首長国を述べるにあたって類似した地名が近くにあるので一言しておく。同じハドラマウト地方であるが、冒頭の絵地図のシャブワ・シバーム街道のシバームの南西30KmのところにハウラHawrahがある。ここで述べるハウラーウから直線距離にして100km。もっとも街道は蛇行しているのでもっと距離と時間を要しよう。ハウラーウよりも大きく、また歴史を持つ町があるので注意されたい。地名表記が厳格でない場合、同じハウラで通してしまうことが多い。これから述べるのは、正確にはハウラーウ al-Hawraa’である。

 

ハウラーウal-Hawraa’の位置は、南の海岸部にあり、アデン・ムカッラー街道のアデン湾の沿岸に沿ってアフアルの東方約40Kmにあるのが、イルカIrqahであり、またその20Km先にあるのがハウラーウHawraa’である。あまりに小さいので、冒頭の地図では左図は海の上に記され、右の絵地図には鉛筆で地名表記の上に丸で加えておいた。いずれも漁業中心の町であり、海岸部にあって英国に対して何らかの、海賊行為などの捨ておけない理由があって、またこの領主が英国に取り入り、アデンへの表敬訪問も頻繁に行い、英国もしかたなく保護領としたとみられる。

共にワーヒディー首長国の中にあり、取り囲まれたように存在する。強国ワーヒディー首長国の領内にあるため、その統制が緩い時を狙って、英国と交渉して一時的に独立したものと思われる。ワーヒディー族と全く血縁がないか、その一支族かは不明である。

両首長国とも1951年ワーヒディー首長国に征服され、併合されてしまう。

 

ハウラーウの支配部族名はバー・シャーヒドBaa Shaahidといった。この部族名は何処にも資料が見当たらないし、ハウラーウ首長国の部族名は普通記されていない。19世紀に新たに興った部族で、初代のシャイフ・アブドッラー“Abdullaah ibn Muhammad Baa Shaahidは, 1858ごろから動きを活発化して、1895年死亡するまでハウラーウ及びその周辺の独立を維持発展させたことが知られている。

 

後述するイルカ首長国よりはハウラーウ首長国の方が領土も大きかったので、先に説明する。

ハウラーウは海岸部が「下ハウラーウ」Hawraa’ al-Suflaaと、また内陸の丘陵地に宮殿や住宅地を持ち、「上ハウラーウ」Hawraa’ al-“Ulyaaといわれた地域名まで存在する。上の絵地図を見ると、結構な城塞があり、宮殿にも見える。後でのBentの記述を参考。暑い時期には王族や富裕なものは「上ハウラーウ」の宮殿や別荘地で避暑をしていたことも考えられる。

 

19世紀末から英国との接触があり、初代シャイフ・アブドッラーは1888年には条約を結んだが、その際「ハウラーウ首長国」The Sheikhdom of al-Hawraa (アラビア語: Mashyakhat al- Hawraa’) との独立国として興し、その確立を目指した。

そして1900年第4代シャイフとなったサーリフ(Saalih ibn “Awad Ba Shaahid)は、1902年に英国と正式契約に臨んだ。そして条約を結び「英国保護領」となり、正式に「ハウラーウ首長国」と名乗った。国王の称号はシャイフShaykh (長老)のままにした。周りを囲む強大なワーヒディー首長国も自国領であるので、独立を認めたくはなかったろうが、英国の後ろ盾があるので、仕方なく認めた、といったところか。

繰り返すが、こうして1902年、ハウラーウにおいて両者で正式契約が結ばれた。ハウラーウ首長国の方は第4代シャイフに当たるシャイフ・サーリフShaykh Saalih ibn”Awdhであった。英国の方の相手はアデンの政治局顧問である准将ペルハム Pelham James Maitland, C.B.であった。

条約内容も幸い残っており、その条約内容も明らかとなっている。貴重なので、ここに訳出しておく:

 

第1条 英国政府は、この条約の署名者シャイフ・サーリフの要望に応諾するものとして、ここに保証する:ハウラーウの地が拡大して、独立を保つことを。署名者のその正統性と司法権を認め、その国王権に便宜を図り、保護する。

第2条 国王シャイフ・サーリフは、己自身の大義のために、彼の世継ぎ、後継者について一致をみて約束する。どんな外国との交流、約束、条約を、英国の承諾及び権威無しに行うことを差し控えること。何かそのような事態になったら、直ちにアデンの英国当局、ないしは英国の(ムカッラーにある東アデン保護領監督庁の)駐在官に通報すること。他の外国勢力がハウラーウ国に干渉したり、独立を脅かすようなこともあれば、同様連絡を取ること。

第3条 前記のシャイフ・サーリフは、彼自身、親戚、後継者、部族員全員に以下のことを固く守らせること:英国以外にはどんな外国勢力に対しても、どんな時においても、また領土のどんな一部であれ、ハウラーウ首長国の領土を割譲したり、売却したり、貸し付けたり、借地としたり、賃借したり、授与したりしたりしてはならないこと。

第4条 上記の条項は、今日をもって発効し、下に署名した者の承認のもと、1902年4月7日アデン政庁に保管されること。

署名 ハウラーウ首長国シャイフ・サーリフShaykh Saalih ibn”Awdh

   アデンの政治局顧問、副将パルハム Pelham James Maitland, C.B.

 

 

1917年から第5代シャイフとなったアワド“Awad ibn Saalih Ba Shahidは1951年までの長きにわたって、ハウラーウ首長国を保持してきた。とはいえ1946年ごろの、その人口は300人余りであった、という。

そしてワーヒディー首長国の圧力に抗しきれずに。1951年に併合されてしまう。

上の条約にある通り、本来ならば、英国が援助の手を差し伸べるはずであった。この意味で条約違反は英国の方であるが、もともとワーヒディー首長国領であって、その圧力が絶えずあり、シャイフ・アワドは耐え切れずにハウラーウ首長国としての独立を断念したのであろう。

したがってハウラーウ首長国は1951年までで、それ以降は存在しないことになる。したがって、「アデン保護領」とはなって、1937年の「東アデン保護国」の連邦には参加しているので、その首長国名が残っているわけである。

1972年に南イエメンの共産革命の実現と、英国の撤退のため、ハウラーウ首長国の名残は跡形もなく消え、現在では人口も少なく、さびれた漁村となっている。

ハウラーウの地名も、イエメン全体の普通サイズの地図には記載もされない、現在のグーグルマップのイエメンの中にも載ってはいない。

                            (Robin Bidwell:pp.66,69、ほか)

 

テオドール・ベントTheodore Bentはアラビア半島がまだ半ば未知であったころの1893 年と 1897年,妻マーベル Mabel Bentと何回かハドラマウト地方を探検旅行して旅行記を残した。そして港町, ハウラーウから上ハウラーウにある宮殿を訪れることがあり、わずかな記録がある。冒頭の絵地図にもこれから記される城塞の絵が加えられているので参照。

上ハウラーウには大きな城塞がある。周囲は貧相な家々が囲んでいた。城塞は広く大きく日干し煉瓦で築かれており、高いところは7階に及んでいる。宮殿には城塞も兼ねて、屋上他には銃眼付き胸壁、塔、出し狭間などの備えもあった。ベント一行はスルターンに温かく迎えられた。スルターンが貢物を求めたので、ベントはインドルピー20枚を差し上げた、ということである。

Bent, Mabel; Bent, Theodore (1900). Southern Arabia. BiblioBazaar. pp. 106, 107

 

 

 

  5イルカ首長国   

    英名     The Sheikhdom of al-Irqa

    アラビア名  Mashyakhat al-Irqah 

アデン・ムカッラー街道のアラビア海の沿岸に沿ってアフアルの東方約40Kmにあるのが、イルカIrqahである。またそれからさらに東方の20KmにあるのがハウラーウHawraa’である。もともと漁業中心の町であり、海岸部の町であったことが、英国と接触の機会が容易で、「首長国」になれた理由として大きい。また初代のシャイフとなった人物が漁村を国家に押し上げられるほどの器量を持つ相当の傑物であったことも指摘できよう。

イルカ地域は素性の知れないバー・ダースBaa Daas(ブー・ドゥースBuu Duusとも)の一族が住む単なる漁港に過ぎない。ここもワーヒディー族の領土内であり、独立となると、その圧迫と攻撃が増したことは容易に想像される。

 

19世紀末、英国との接触があり、1890年英国のアデン保護領となり、「イルカ首長国」を建国。王号はシャイフ(族長)とした。初代シャイフはアワド・イブン・ムハッマド “Awad ibn Muhammad Baa Daasという人物であった。ワーヒディー首長国に囲まれ、その圧力と脅威を受けながら国体維持と対外交渉が大変であったろう。1901年まで首長国の王・シャイフとして尽力した。

第2代シャイフとなったのは、その息子アフマドAhmad ibn “Awad であり、1930年代まで首長国を堅持した。シャイフ・アフマドは毎年のようにアデンに表敬訪問して、英国とは親密性を保つ。というよりは首長国維持を頼みこんだものと思われる。彼は読み書きはできなかったけれども、快活な友好的な性格であった。周りを囲むワーヒディー首長国との軋轢があり、かろうじて独立できたのはこうした英国との協調が認められたからと思われる。

この首長国に人口は1946年当時では800人そこそこであったらしい。

こうしてかろうじて独立を保ってきたが、1951年ワーヒディー首長国の攻勢に耐え切れず、その支族バルハーフBaa al-Haafに征服されて、前記ハウラーウ首長国とほぼ同時期に併合されてしまった。最後の首長となったのは、1949年から治めていたシャイフ・アフマド・イブン・アブドゥッラー Ahmad ibn “Abdullah ibn “Abdullah ibn “Awad Baa Daas であった。

英国はムカッラーにも「東アデン保護国」の総領事を置き、イクラ首長国の情勢を把握していたものの、その価値の値踏みと趨勢を見通して、もはや動かし難いものとして、見限った判断を下したものと思われる。

しかしハウラーウ首長国と同様、「アデン保護領」となって、1937年の「東アデン保護国」の連邦には参加しているので、その首長国名がこのように残っているわけである。

現在の普通の地図では地名も載らない方が多いような、かつての漁村になってしまった。         

                (Robin Bidwell:P.63、ほか)