「南アラビア首長国連邦」成立(下―1)

    南イエメンの共和制以前  英国保護領時代

             「クライシュの鷲」、「サラディンの鷲」(17)

キーワード:

南イエメン  英国保護領時代  「南アラビア首長国連邦」

アンワル・アウラキー   「アラビア半島のアル・カーイダ」(AQAP)

上アウラキー・スルターン国

Upper ‟Awlaqii Sultanate,  (亜)Mashyakhat al-‟Awālaq al-‘Ulyaa

下アウラキー・スルターン国

the Lower Aulaqi Sultanate 、(亜)Salṭanat al-‘Awālaq al-Suflaa

上アウラキー首長国

The Upper Aulaqi Sheikhdom、(亜)Mashyakhat al-“Awlaaqii  al-“Ulyaa

ベイハン首長国

the Emirate of Beihan、 (亜)Imaaraat Bayḥaan)

シャリーフ(pl.Ashraaf)家、「お家の人々Ahl・al-Bayt」の仲介

ワーヒディ・バルハーフ・スルターン国

Wahidi BalhafSultanete、(亜)(亜)Saltanah Wāḥidī Bālḥāf

バルハーフLNG(液化天然ガス)プラント工場  日本の会社が請け負い、完成

ダーリウ首長国

the Emirate of Daaliu‎(亜)Imaarat aḍ- Daali

 

 

本ブログでは「南アラビア首長国連邦」に参加した17の首長国のうち、前回に続き5番目の「上アウラキー・スルターン国」から10番目の「ダーリウ首長国」までの概要を述べる。

 

下図は「南アラビア連邦」を構成する17首長国図である。なお向かって右図の番号に沿って、各首長国の概要を述べてゆく。おおよそはABC順になっている。今回は5番目の首長国からである。左図では領土が大きい首長国は国名が直接書き込まれている。

 

 

なお本ブログの冒頭5,6,7番目として述べるアウラキー族のことは、現在ではそこの出身者である、アンワル・アウラキー(Anwar al-Awlaki、亜Anwar al-‘Awlaqī)の名前で、一躍世界に知られてしまった。アンワル・アウラキーはイエメンのイスラーム過激派カーイダ、「アラビア半島のアル・カーイダ」(AQAP)の指導者の一人で、主要メンバーであった。

アンワル・アウラキーは、両親がこの故郷からアメリカ合衆国に移住して、アンワルは米国ニューメキシコ州ラスクルーセスで生まれる。親子ともインテリで、アンワルは大学院博士課程まで出ている。イスラム研究を深め、世界各地にいるイスラムコロニーに説教者として飛び回っており、イスラームの教義や実践を誰よりも深く説いて、聴衆を感動させていた。同郷ハドラマウト出身のビン・ラーディンの思想行動に感銘を受け、その幹部となる。資本主義、その最大の敵として米国を上げ、敵視する政策を変えていない。イエメンでの「アラビア半島のアル・カーイダ」(AQAP)のリーダーとなっていた。

 

[2004年にイエメンに帰国し一族(アウラキー)の故郷であるアタクで妻と5人の子供と暮らし始めた。大学で講義を行う一方で、誘拐事件を起こしたとしてイエメン警察に逮捕され18ヶ月間投獄された。2007年に釈放されると北方シャブワ県の山岳地帯の寒村に移住した。2009年11月に発生した米陸軍基地銃乱射事件の被疑者ニダル・マリク・ハサンや同年12月のデルタ航空機爆破テロ未遂事件を起こしたウマル・ファールーク・アブドゥルムタッラブもアウラキの説教を受けていた。

2010年4月にバラク・オバマ大統領は、アメリカ国家安全保障会議の同意の下にアウラキの殺害計画を承認した。アメリカ国籍保有者がCIAの暗殺リストに載ったのは歴史上彼が初めてである。アウラキはアメリカ国内においていかなる罪についても逮捕状が出ておらず、人権団体の中には政府の決定に疑問を投げかける者もいる。2010年11月にアウラキはイエメンにおいて外国人殺害容疑で被告人不在のまま起訴され、イエメンの裁判所からもアウラキの逮捕命令が出た。2011年5月にアメリカ軍はアウラキーの乗っていると思われる車にミサイルを発射したが、殺害に失敗した。その後アウラキーはイエメン南西部に潜伏していたとみられる。

2011年9月30日、イエメン中部マーリブ州でCIAの無人機による攻撃を受けた際に死亡した。40歳没。]  以上[ ]の引用はインターネットより。

 

上図向かって左が説教を行うアンワル・アウラキー、40歳で米国の無人飛行機の追跡、砲撃により死亡。右が彼のイエメン滞在中に住んでいた居城。恐らく親族アンワル一族の邸宅であったろう。インターネット画像より。

 

 

5. 上アウラキー・スルターン国 

Upper ‟Awlaqii Sultanate,  Mashyakhat al-‟Awālaq al-‘Ulyaa 

アウラアキー族は広大な面積を領有しており、南はアデン湾に面しており、北はルブウ・ル・ハーリー砂漠に達していた。上の4アウザリー族とは、北東に連なる長い丘陵地帯が境であった。また広大なだけに、他の異部族も点々として存在した。

アウラアキー族の歴史は古く、イスラム化以前の古代イエメン王朝であるミネア王朝の末裔であった。この王朝の後に起こったのがシバの女王で知られるシバ(サバ)王朝であった。ミネア王朝最後の王マアンMa”anが亡くなった後、シバ勢力の圧迫が激しく、追い出されるように故郷を追われ、南方の砂漠を超えて、現在地に落ち着く。

しかしそことてワーヒド族の領地であり、ラーヤ(寄留民)として一定の税を払わねばならなかった。こうして拘束されたラーヤとして暮らすうちにも、もともとミネア王朝を興した高貴な部族であったから、次第に体制を整えてゆく。部族員を増やし勢力を増強してゆく。また既得権、自治権を増大させ、領土の確保も小さなものから次第に広げてゆく。

 

アウラアキー族のうち、アフル・マアン支族が主流で、さらにその中のアハル・アブドゥラー一族が強大であった。定住に固執せず、ラクダを伴って遊牧生活を送り、次第に強大化してゆく。一方定住にとどまったアフル・サーリフ,アフル・アリー他の支族は、領主であるワーヒド族ウンム・ルサース族長から過酷な税の徴収にあって苦しんでいた。

そして1590年、ついに決起する。定住民として暮らしているアフル・サーリフ支族ほかアウラアキー族は、遊牧で強大化したアハル・マアン族ら主力の遊牧親族に、ともに戦ってワーヒド族を追い出し、解放されて自国領を獲得しようと訴える。

結束力の強いアウラアキー族は、一致団結して戦闘態勢に入った。特にアハル・マアン族の中のアハル・アブドゥラー支族は、遊牧で培った機動力や戦闘力を生かして、ワーヒド族の首都であったナサーブに総攻撃をかける。こうしてワーヒド族を東に追い払い、アウラアキー族は領土を実力で勝ち取ったのである。

この勢いに乗り、次第に領地を広め、今に至る広大な領土を持つに至った。こうしてニサーブを得て本拠地として、そこの領主として収まったのが、もっとも戦功のあったアハル・アブドゥラー一族であった。今に至るまでニサーブの領主はアフル・マアン族のアハル・アブドゥラー一族が務めている。

 

一方、こうした勢いに乗じて、他の二つのアウラアキー支族も領土を獲得してゆく。南部の海岸に至るまで、後に英国との関係で「下アウラキー・スルターン国」となる地域を、東方は主邑であるアタクを包含して、後に「上アウラキー首長国」となる地域を収めてゆくことになる。この両首長国については続いて述べる。

             

アウラキー族の構成員の多くは遊牧を主としていた。北へ行くほど伝統的遊牧民が多くなるが、ワーディー(涸れ川)地域では農業も盛んに営なまれている。いくつかの強大な支族を有していたが、団結力が強く、事に当たるときは、外部部族に頼るよりも、血筋の繋がった同族間で対処することが多かった。支族連合といってよかった。しかし領土が広大であったためか、最終的には本家から分離して下アウラキースルターン国および上アウラキー首長国とが独立することになる。

したがって本家は上アウラキー・スルターン国Upper ‟Awlaqii Sultanate,  Mashyakhat al-‟Awālaq al-‘Ulyaaとの称号が正式名称となった。本家はアフル・マアン族のアフル・ブー・バクル支族であって、首都はアウラキー族が本拠としていた内陸中央部ニサーブNisaabであった。ニサーブは東方のアタク“Ataq(アタクももう一つの「上アウラキー首長国」に属し、今や発展し都会となっている)へのハドラママウト街道に通じていたし、西にはベイハーン経由でマアリブに抜ける幹線にあった。またその南東のサイードal-Sa”iidも主邑であった。

 

アウラキー族は、17世紀にはすでにスルターン国となっていた。その頃は「アウラキー・スルターン国」the ‟Awlaqii Sultanate,  Mashyakhat al-‟Awālaq と統一した名前であった。

しかし近代になって、広大なアウラキー部族領は、英国との19世紀末からの接触、交渉があり、1904年当時の族長スルターン・サーリフSultaan Saalih ibn “Abdullaahは英国と条約を結んだ。「アデン保護領」となること、首長国となることなどが取り決められた。その結果「アウラキー・スルターン国」は三分され、それぞれが首長国となる。本家は「上アウラキースルター・スルターン国」となるのであるが、国都をニサーブと定め、それを守護する当時の首長サーリフSaalih ibn “Abdullaahが国王スルターン・サーリフとなる。そしてアデン保護領となり、「上アウラキー・スルターン国」Upper ‟Awlaqii Sultanate,  Mashyakhat al-‟Awālaq al-‘Ulyaaの名称となる。下アウラキー支族も東部のアウラキー支族も合意をして、独自に英国と折衝をしていたからである。

そして1963年、英国と協定を結び、「南アラビア首長国連邦」の結成に至る。

1967年の共和革命により、首長国も廃絶される。「イエメン民主共和国」となってからも、大きなシャブワ州の中心部の一角を占めている。

最後のスルターンを務めたのはアワド・イブン・サリハルであった。彼はアデンを訪れた最後のスルターンでもあった。

(Robin Bidwell: Arabian Personalities of the Early Twentieth Century, the Oleander Press (G.B.),1917,pp.112-261、他)

 

6.下アウラキー・スルターン国

           Aulaqi Sultanate 、Salṭanat al-‘Awālaq al-Suflá

下アウラキー・スルターン国は, 上アウラキー・スルターン国から分かれ出た首長国で、湾岸部を含めた南部地方を領土とした。上アウラキー首長国が確立したころ、こうした勢いに乗じて、他のアウラアキー支族も南に北に領土を広め、下アウラキー・スルターン国、上アウラキー首長国を誕生させてゆく。

アウラアキー支族のうち、アフル・アリーとバー・カージム一族は、海岸部のある南部を狙い、ザイド朝が治める港湾都市アフワルを襲った。そして奪取に成功した。ザイド派の一族は追放されるか、残ってラーヤ(寄留民)となるかを選んだ。

 

勝ち取ったアウラアキー族であるが、領土分割において、またどちらが領主となるかで紛糾した。両者の話し合いでは決着がつかず、同族で敬虔な修道者として高名であったシャイフ・アベイドに仲介を頼んだ。(この人物の名は今に至っても、このあたり一帯では語り草になるほど、記憶に留められている)

こうして争点の和合の話し合いがもたれ、アフル・アリー族が首都アフワルを収め、首長となる。バー・カージム一族はアフワル地域の農地の四分の三を受け取る。残りの農地四分の一をアフル・アリー族に割り当てることで一致をみた。

およそ17世紀ごろから、主家とは別に下アウラキーとして自治を始めていた。首都は海岸部、ワーディー・アフワルWaadii Ahwar の流れ込む港町アフワルAhwarであった。

19世紀後半、英国との接触があり、協定を取り決め敵対行動をとることはしなくなった。1888年英国アデン保護領の一員として、正式に「下アウラキー・スルターン国」 the Lower Aulaqi Sultanate 、Salṭanat al-“Awlaaqii al-Suflaa として独立国家になった。

当時の族長はスルターン・アブー・バクルSultaan Abu Bakr ibn “Abdullaah al-“Awlaaqiiであった。したがってアブー・バクルが初代国王となった。国王名も「上アウラキー・スルターン国」に倣ってスルターンの称号を用いた。

こうして「下アウラキー・スルターン国」も1959年には「南アラビア首長国連邦」の結成に参加して、また63年の「南アラビア連邦」にも参加した。

ところが、1967年「イエメン民主共和国」の成立によって「下アウラキー・スルターン国」は廃されてしまう。その最後の首長はスルターン・ナーシルSultaan Naasir ibn `Aydarus al-`Awlaqiであった。              (Robin Bidwell pp.112-261、他)

 

下アウラキー・スルターン国の国旗

アラブの発想としても珍しいデザインである。黒と青の二色旗を基本に左端に緑色の三角を配している。二色の暗い色の中に丸い白色を入れ、その円の中に灯火を握る丈夫そうな手が描かれている。全体に明るい色でないこと、灯火が描かれているのが珍奇である。

 

 

7 上アウラキー首長国 

The Upper Aulaqi Sheikhdom、(亜)Mashyakhat al-“Awlaaqii  al-“Ulyaa

 「上アウラキー首長国」の名称は5の「上アウラキー・スルターン国」と紛らわしいが、紛らわしい通りで、この首長国も、6の「下アウラキー・スルターン国」同様、18世紀に上アウラキー・スルターン国から分立して、東北部を拡大してゆき自治を行っていて首長国となったのであるから。アウラキー族の領土の北東を次第に分立させ、拡大させていった。

首長はシャイフまたはアミールAmiirを名乗った。

首都は古都シャブワの近郊サイードal-Sa”iidであったが、1946年頃にはヤシュブム(Yashbum )にあった。

他の二つのアウラキー族同様、19世紀になって英国との関係を築いて、1903年、アデン保護領の一員となり、「上アウラキー首長国」The Upper Aulaqi Sheikhdom、Mashyakhat al-‘Awālaq al-‘Ulyā として独立。

1959年の「南アラビア首長国連邦」、63年の「南アラビア連邦」に加わった。67年の「イエメン民主共和国」の成立において他の首長国同様、上アウラキー首長国も廃絶された。最後の首長はアミール・アブドッラー Amir Abd Allah ibn Muhsin al Yaslami Al Aulaqi

であった。

.(Robin Bidwell pp.112-261、他) 

 

 

8. ベイハン首長国

 the Emirate of Beihan、 ( 亜)Imaaraat Bayḥaan)

ベイハン首長国は北イエメンに接する、北部の地域にあり、時には遺跡で有名なマアリブまで勢力範囲とするほどである(上図黄色で示してある)、

首都ベイハーン(元の名はSuuq “Abdullaah)はワーディー・ベイハーン(またの名はワーディー・ジャンナ)が南北に貫流しているところから、新たに作られた町である。元はカサーブQasaabといった。今では飛行場もある。

1946年頃首都がヌクブal-Nuqubに移されたこともある。

ワーディー・ベイハーンは南方はるかバイダーウ高地から北に流れ下り、ラムラ・サブアタイン砂漠に流れ込んで消える大きなワジである。このワジに沿って灌漑も行われ水に恵まれ、農業も盛んである。砂漠に近いのでラクダや羊などの遊牧も行う。もっとも遊牧民的性格を帯びていよう。

 

一方、地理的にも優れた位置にあり、ラムラ・サブアタイン砂漠の砂丘と砂原の端を超えてマアリブと向かい合い、南東にアタク”Ataqu、南にバイダーウal-Baydaa’と通ずる街道を持っており、交易も盛んであった。

有力部族は北方の砂漠に近いハジーラHajiirahを拠点とするムーサベインMuusabeynと北方のナージー・アラウィーNaajii “Alawii(al-Faatimahとも)とであった。が、両者は歴史的にも不仲であり敵対の間柄にあり、紛争が絶えなかった。

そこでおよそ1600年ごろ、権威と人望のあるサヌアのイマームから、交易や治安の維持のため、シャリーフ(pl.Ashraaf)家、「お家の人々Ahl・al-Bayt」(預言者の血筋を持つ血縁者)が派遣された。これがフサイン・アブー・アル・カイシー(Husayn Abuu al-Qaysii al-Abiilii)であり、以降この一家は「アビーリーのハーシム家」al-Abiilii al-Haashim、略してハビエリ(al-Habieli)一族と尊称された。両部族の中間に領地を安堵され、緩衝帯となり、両者を執り成した。アシュラーフ(血統高貴な者、貴族、名士)として信任を得ると、両部族をやがて従え、1680年ごろにはベイハーン国として独立することになる。

 

18世紀英国と接触があり、1903年当時のシャリーフ・アフマドSharif Ahmad ibn Muhsin al-`Abili al-Hashimi はわざわざアデンまで交渉に出かけ、その援助を受け入れ、友好国となり、協定を結び西アデン保護国となり、ベイハン首長国 the Emirate of Beihan、Imaaraat Bayḥaan)が正式に樹立された。シャリーフ・アフマドは国王となり、称号がアミールとして、アミール・アフマドと称された。

1944年、英国との新たな協定が結ばれ、こうして1959年の「南アラビア首長国連邦」の結成にも、また62年の「南アラビア連邦」の結成にも参加した。しかし1967年の「イエメン民主共和国」の成立に伴って「ベイハン首長国」は消滅した。ハビエリ一族の子孫はナクブNaqubに居住し、Al Amir Talal Saleh Hussein Al-Habieliの「お家の人々」の家系が引き継がれている。           (Robin Bidwell pp.262-63、266、他)

 

      ベイハーン首長国の国旗

茶・緑・黄の三色旗に左隅に赤色の三角形を配して、その中に白地の三日月を入れ込んでいる。

 

 

9. ワーヒディ・バルハーフ・スルターン国

The Sultaate Waahidi Balhaf‎、(亜)Saltanah Wāḥidī Bālḥāf

ワーヒディ・バルハーフ・スルターン国は、略してワーヒディー・スルターン国 Wahidi Sultanate‎、Saltanah Wāḥidīとも呼ばれる。また部族名はアブドルワーヒド“Abdul-Waahidと前節語アブドを入れて呼ばれることも多い。

国境は、南北に広くアデン湾に面しており、アウラキー首長国が西に、カアーティーの首長国が東に、北はルブウ・ル・ハーリー砂漠の抜けてゆく。元来はもっと西に在り広大な面積を領していたが、アウラキー族に次第に東部を脅かされて西に移動させられた。アウラキーとはしたがって仇敵の仲となっている。

 

ワーヒディー族もいくつかの支族に分かれており、1830年ごろ有力支族が独立して三つの首長国を作った。サーリフSaalih ibn ”Abdullaahが治める海岸部の港湾都市バルハーフを要するワーヒディ・バルハーフ・スルターン国もそのうちの一つで最も強大であった。アデン総督府からもサーリフは一目置かれ、ワーヒディー族を統率するリーダーとみなされ、助成金も授けていた。

ハッバーン支族はバルハーフからアタク経由でマアリブへ出る街道の町ハッバーンHabbaanに本拠を置いた。アウラキーと境界が近いところである。ワーヒディーの諸支族はアデンに行くにも、放牧や行商に行くにも、アウラキーの属領を避けて通った。アデンへはバルハーフ経由で海路を採って出かけたものである。

バルハーフに建設されたLNG(液化天然ガス)プラント工場。設計・調達・建設すべて日本企業(イエメンLNG社)が請け負い、2009年完成した。しかし,「アラビア半島のアル・カーイダ」(AQAP)によって、2016年12月5日,このバルハーフ港に接続する石油パイプラインが,何者かにより爆破された。実行犯はAQAP所属とみられている。

 

副スルターンとしてサーリフ Saalih家が治めていた。しかし族長ナーシルNaasir ibn Saalihの時、アッザーン“Ajjaan支族は、この両者の中間の領土を持ち、アッザーンの町を本拠とする。アッザーンからは東北部に道が開けており、ハドラマウトの主要都市に通じている。20世紀になってからは、バルハーフ支族より権威ありワーヒディーの族長=スルターンとなっている。

ただし19世紀初め族長であったムフセンMuhsin ibn Saalihは悪名の浮名を残している。領民の良心を踏みにじるような悪行を犯し、盗賊も働き、ついには領民から追放されてしまった。ムフセンはアデンに脱出して、その後対岸のアフリカのジプチに、そして北イエメンの港町ホデイダに、とさ迷った。そして首都サヌア経由で故郷に戻った時には、経験豊かな中庸な君主として迎えられ、復職した。そして彼の代になって、ワーヒディーのスルターンとして扱われ、他の支族もそれを承知した。アデンの総督府からは年720リアルの協力金を受け取るようになった。

英領アデン保護国の一つになり、「南アラビア首長国連邦」にも参加、「南アラブ国連邦」にも参加した際は統一したワーヒディー・スルターン国としてであった。首都は海港バルハーフBalhaafであり1962年、ワーヒディ・バルハーフ・スルターン国は他の同族の首長国を統一して「ワーヒディースルタン国」とした。

が、1967年の南イエメン共和革命によって廃絶された。1967年8月、最後のスルターンとなったのはアリー `Ali ibn Muhammad ibn Sa`id al-Wahid首長であった。

この首長国の人名には特徴としてサーリフSaalihの名前が多く、部族自身にとって尊崇する祖先がいたのであろうが、紛らわしさが付きまとう。

  (Robin Bidwell p.247,他)

 

ワーヒディー国の旗

向かって左に、縦長の赤地に三日月と五芒星の月星を白色で入れる。右に緑・黄・青の三色旗としている。

 

 

 

 

10. ダーリウ首長国 

                the Emirate of Daaliu、‎ Imaarat aḍ- Daali“

ダーリウ首長国は山岳地帯にあり、アデンから北に伸びる北イエメンと国境を接する領国であった。北イエメンの南の首都タイッズとは東方の高峰3268mのヒシャー山(Jabal Hishaa)及びそれに連なって国境をなすジハーフ山(Jabal Jihaaf)を越えた東方にあった。したがって、タイッズには大回りせねばならないが、タイッズを迂回して北上する近道にもなった。西にアデンーイッブ、北にアデン―ヤリームーサヌア街道の幹線上にある。

 

ダーリウ首長国の実質上の主体部族はアーミル族。アーミル(”Aamir)族が主体であったためアーミル首長国the Emirate of “Aamir、‎ Imaarat al-“Aamirとも呼ばれた。が、アーミル族はその出自が卑しいとされているため、後者の名称は避けられた可能性がある。元を糺せば、首都サヌアでムワッラド(元奴隷、解放奴隷)であった一族が、ここで働かせられており、サヌアの支配者が代わり、その支配力が緩んだ隙に、その主であった勢力を追い払い、自治を獲得したのが始まりだといわれる。こうしてアミール族として周囲に認められる存在になった。

 

オスマントルコの支配に二度甘んじた(1873-78、1915-18)が、自力で独立を回復した。

英国の進出に対しては19世紀末に接触があり、英国との協力関係に入り、協定も結んだ。1904年アデン保護国となり、ダーリウ首長国  the Emirate of Daaliu、‎ Imaarat aḍ- Daali“ になった。首長は国王となり、アミールAmiirと名乗った。時の首長はアミール・シャーイフAmiir Shaa’if ibn Sayf “Abudul-Haadii であった。アミール・シャーイフは国境紛争をかかえ、解決すべくインド政庁まで出かけている。そして1959年の「南アラビア首長国連邦」の結成にも、また63年の「南アラビア首長国連邦」の結成にも参加した。南北の境界にあるだけに、1967年の「イエメン民主共和国」の成立に対しては激しい戦闘を伴ったが、敗戦して「ダーリウ首長国」は消滅した。最後のアミール(首長)は1954年から職を務めていたシャファーウル Shafaa’ul ibn Alii Shaif Al-‟Aamiriiであった。 

                             (Robin Bidwell pp.249-50、他)

 

   

ダーリウ首長国の国旗

上を赤、下を緑の二色旗として、その真ん中にイスラームのシンボル三日月を黒色で入れてある。