南イエメンの共和制以前  英国保護領時代

     「南アラビア首長国連邦」の結成(中)

                「クライシュの鷲」、「サラディンの鷲」(16)

キーワード:

南イエメン 英国保護領時代 「南アラビア首長国連邦」   西アデン保護国 

首都はラヘジュ   17首長国で結成  英国のインド洋制覇   スエズ運河開通

アデンの植民地化   アデン事情  タウィーラ・タンク(ダム、貯水池)

ポール・ニザン著アデン・アラビア

周辺諸族の懐柔    英国保護領    首長国化  

首長シャイフ・スルターン・アミール

1アデン独立行政府    

2.アクラビー首長国 Mashyakhah al-“Aqrabii(Aqrabii Sheikhdom) 

3. アラウィー首長国 the Alawi Sheikhdom(Mashyakhah al-“Alawii)

カート(覚醒剤)の中毒首長

4.アウザリー首長国 the Audhali Sultanate(Salṭanat al-‘Awdhalī) 

 


    「南アラビア首長国連邦」を構成する首長国

英国はアデンを植民地としてからは、アデンおよびその周辺のアデン保護領を、より有効に機能させるために、統治方式を二分した。重要拠点と位置付けるアデンそのものは直轄運営とし、その周囲及び東方に続くアデン湾の望む諸部族をアデン保護領として、それらの首長たちとの協議で進める間接運営とであった。

さらにこの「アデン保護領」をも英国は、アデンとその周囲の保全を考慮して、アラビア海に面し東に続く広大なハドラマウト地域も広く「アデン保護領」としていたのであるが、広域であるため、管理や監視の行政を滑らかに運営するため二分することにした。広い「アデン保護領」を、アデン運営に直接影響する、より近い諸部族を「西アデン保護領」とした。またより離れたハドラマウトや(現在では)オマーンのズファールも含む属州を「東アデン保護領」として、それぞれ首長国として認めて独立させて間接統治することにした。

 

これから述べるアデンに近い「西アデン保護領」は各首長の連合する「南アラビア首長国連邦」として、17の首長国からなり、首都機能をラヘジュにおいた。その総督は1937年英国顧問Stewart Henry Perowne ( 1901 - 1989)が務めた。最後の顧問は1963 から1967年まで務めたRalph Hinshelwood Daly(1924 - 2006)であった。

 

より離れた東のハドラマウト地域は、ソコトラ島も含まれ「東アデン保護領」として、同じく首長国として独立させ、間接統治に当たった。首都機能はマカッラーに置いて英国顧問官が処理に当たった。

 

アデン保護国として英国が特に重視した首長国にはラヘジュ、ファズリー、クアイティー、マフラー(後二者は東アデン自治領)の四首長国であり、別の優遇がなされた。マカッラーの総督府の顧問を務めたのは、初代は不明だが二代目はPeter C. Davey( 1914 - 1947) であり、1938から1947年まで務めた。また最後の顧問はGeorge Henderson (1921 - 1963)であったことが知られる。

 

 結成に参加した首長国の代表は英国との協定によって、1937年から定期的な協議を行った。英国総督の運営のもと、各自、様々な協議や協定を結んでいった。英国は大まかには各首長たちの自治にまかせていたが、アデン総督府から顧問官を送り、英国の意向の伝達と首長たちとの意見の相談を受けていた。

 

下図は1959年に「南アラビア首長国連邦」17の首長国構成図である。

 

 

 

ここでは1959年に誕生した、アデン及び西アデン保護領で作り上げた「南アラビア首長国連邦」の結成に参加した構成国の17の首長国を見てゆく。順番は多少の前後があるがABC順であり、上の地図で確かめて戴きたい。長くなるの、ブログの許容量からして2回にわたって述べてゆく。アデンに関してはその重要性から記述が長くなってしまう。

 

1 アデン独立行政府

アデンは、イエメンのアデン湾に突き出た半島で、先端が広がった岩山なので、その内側の湾は荒れた波を受けることなく、港湾として利用できる適地であり、古来海の街道、陸

の街道の結節点として利用されていた。

 

下図は1980年代のアデン港。港湾施設はシャムサシャーン山を背景にしており、中央の建物は税関と思われる。海上にはスエズへ向かう船、インドやアフリカへ向かう船で賑わっている。筆者所蔵の絵ハガキより。

 

 

アデンは突き出た半島になっており、その中核は標高551mの火成岩の岩山、シャムシャーン山であった。半島の南西にあり、居住地はそれを囲むような沿岸部の三日月形の地域である。中心はクレーターと言われているように、シャムシャーン山の溶岩が南東方向の海に流れ込む地域である。

アデン市一帯はその地形、不毛の火山岩地帯で、切り立った岩山が街並みの背後にそびえている。その岩山の稜線に沿って古い時代の城壁やトルコ軍の砦の遺構が見える。また要塞として用いるには格好の場所であった。

 

アデンは自然風土的には、インド洋から湿った熱風が吹きつけ、年間を通じて気温は高く、1月の平均25度あり、7月は32度もある暑熱地帯のため、今日中には適さず、さらに年間降雨量は約40mmであるため、水にも不足する。火山島、岩山であるので農業にも適せず、住民は食料、水とも近隣に頼った。

しかし地理的好条件から、アデンは古くは紅海・インド洋航行の要衝として、通過する船から航行料を徴収した。20世紀まで乳香・石炭・木炭・塩・モカ・コーヒー・小麦の生産・積出し基地と国内生活物資の輸入基地であった。近年ガス田が発見されたことから液化天然ガスの輸出基地となった。

このアデンは半島であるから、そこに通ずるアクセスは陸伝いに東に延びる道一本しかなく、防御するには容易である。水は岩山伝いにおおきなタンクが古くから作られ、貯水されているが、それでも足らず、本土から食料品や日常品と共にもたらされる。

 

下の図は、1980年代のシャムシャーン山の中腹にあるダム。サハーリージュ・タウィーラ(タウィーラ・タンク)と呼ばれる。岩場をくりぬき。幾つもの貯水池を作り、上流から下流に行くにしたがって貯水池の幅が広くなってゆく。七つほどの貯水池があったように記憶する。行き着いた下流の平地がクレーター地区であり、そこの住民の水源として使用されている。整備され遊歩道も作られ、一般人も訪れることができる。筆者蔵。

 

 

アデンの重要性をもう少し深く掘り下げよう。紅海とアラビア海に突き出たアラビア半島、その最南端にあり紅海の出入り口にも当たっていたアデンは、古くから海洋船舶で、西の地中海世界と東のインド、東南アジアとを結ぶ通商の要衝として重視されていた。また陸上でもメッカやエルサレム、ダマスカスを東西に結ぶ隊商航路の出入り口にも当たり、水陸双方で重要視された。

イスラム時代には、イスラム商人がアジア、アフリカ、ヨーロッパの交易品を大々的に扱い、インド洋はイスラム商人の内海でもあった。アッバース朝(750年 - 1258年)の時代にパックス・イスラムカスの安泰のもと、イブン・バットゥータなどが大旅行して、イエメンからアフリカの方の足を伸ばしている。シーア派のザイド朝やスンニー派のラスール朝(1229年 - 1454年)などがイエメンの文化的重要性を高まらせた。15世紀には明の鄭和(彼もムスリムであった)が寄航している。アデンは中国語で「阿丹」と記されている。

 

しかし16世紀に始まる西欧の大航海時代の波に飲まれて、アデン及び紅海の重要性が失ってしまう。バスコダガマのアフリカの喜望峰回りのインドへの航路が開拓される。イスラム商人の活躍の場が極端の縮小されてしまう。

ポルトガルやスペイン、オランダがインド洋航路を確保して、さらにその先のアジア諸国との交易、侵略を狙う。そして寄港地として拠点を、圧倒的軍事力を伴う艦船が軍事占領してゆく。

アデンは16世紀にポルトガル、次にオスマントルコ帝国の侵略を受け、統治されていた時期があった。ポルトガルははるか沖にあるソコトラ島をも占拠して軍事利用した遺構がその島に残されている。

 

アデンはポルトガルに軍事占領されたのち、後発の英国がポルトガルを破り、アラビア湾一帯を手中に収める。19世紀初頭から英国がインド洋の支配を果たすため、最西端にあるアデンを植民地化した。インド総督の配下にあったアデン植民地も英国は1839年から海軍基地をアデンに置き、インド支配のための港湾都市や船舶を略奪や海賊から守った。

 

英国のアデン支配は1839年から本格化する。アデンは植民地とされて、海軍基地が置かれ、インドまでの航路のためのインド洋の西部、紅海、アフリカ東岸の船舶の航行をより安全に保とうとした。

地中海と紅海を結ぶエズ運河の安全渡航を実現するためにも、次第に支配の統治力を強めていった。

スエズ運河の運営は、アデンと緊密に行われた。運河の開通は、1869年フランスが竣工したものであったが、英国は運河会社の持ち株の半分以上を保有していた当時のエジプト王国政府の窮状を察知して、その保有の運河会社株を買収して、英国所有にしてしまう。こうしてスエズ運河会社の英国運営となってから、英領アデンはさらに紅海に至るまで管轄が拡大して増すことになる。地中海、紅海、インド洋と英国の海の道を通してしまった。それゆえ関門となるアデンの重要性はますます増すことになる。

 

ところが、1956年にスエズ運河に関して、エジプトがナセルの主導のもと、国有化されてしまう。そのため一時的にスエズ運河は閉鎖されたため、アデンでの対応が急がれた。アデンには急遽製油所がつくられるなどその基地としての重要性は更に増した。

 

英領時代のアデンには、英国の行政官や軍人で人口の多くを占めていたが、英国占領が終わって久しい現在は90%がアラブ人で構成され、そのほかは出稼ぎのインド人、パキスタン人、ソマリア人等である。

 

このアデンは半島であるから、そこに通ずるアクセスは陸伝いに東に延びる道一本しかなく、防御するには容易である。水は岩山伝いにおおきな貯水池が古くから作られ、貯水されている(Sahaariij al-Tawiilahタウィーラ・タンクと呼ばれている、上図参照)が、それでも足らず、本土から食料品や日常品と共にもたらされる。

英国もこの半島に地の利を見逃さず、前にも述べた通りオスマントルコや現地の部族勢力を圧倒して支配して植民地としてしまった。以降着々として要塞化を進められた。

 

フランスの作家、哲学者であるポール・ニザン(1905年- 1940年)は、第一次大戦後のすさんだ西欧を離れ、1926年から1927年まで、このアデンで家庭教師として滞在した。その間、対岸のジプチや、サウジの外港ジェッダにまで旅をしている。そして帰国してから翌年、あの名著『アデン・アラビア』を著した。ある一説を紹介しよう;

 

「回教の学校の子供たちは商店のように開けっ放しの教室でコーランの一節を叫んでいるが、そんな教室でもいっこう平気なものだ。乞食たちが街をめぐり歩いている。いたるところで、沈黙のうちに商取引が行われている。指を使ってする決まった合図に仕方があって、衣の垂れの下で互いに指を触れ合わせるのだ。叫び声は商談が決まってから、あげられるのである。こうして生活の上に、甘酸っぱく、バターを塗ったような、胡椒がきき、香りのかおる、香木のような匂いが、花と開くのだ。あのすばらしい、忘れがたいオリエントの匂いが。自分たちの衛生的な隠れ家に身をひそめている白人やバンヤン人(英国人のもとで働くインド人)は、事務所に出てくると、送風機の翼の下で仕事をし、黙りこくった現地人たちはその事務所の机のあいだを裸足で歩き、タイプライターは休むことなく数少ない黒い記号を打ちこんでいる。』昭文社1966年、篠田浩一郎訳、82頁

 

現地の具体的記述は少なく、ところどころに上のようなオリエンタリズムを彷彿とさせているような記述もある。ただし、この西欧とは宗教はじめあらゆる面で対極にある文化の地で、民族問題、社会問題、宗教と人生との関係などを否応なく自覚させられている。彼の留まったアデンの家はそのまま保存され、二階建ての瀟洒な建物(ホテルであったか?)の一室であり、訪問見学できるようになっている。

 

 

英国はこうしてアデンの機能を充実させる一方で、周到に周囲の地域事情に目を配る。アデンの近隣の部族と友好関係を築いて、アデンの安全と生活上の必要物資を入手していた。そして有力部族や誇り高い部族などを半ば独立やで1963年「南アラビア連邦」の成立後に、新たに連邦に加わる必要性を感じて、連邦を構成する一因となった。代表は委任統治を預かる英国特別弁務官であった。

 

下はアデン(首長)国としての国旗。1963年製作。青・白・青の三色旗の体裁。青は海のブルーを、挟まれた白はアデン半島を、左端の台形の赤は陸続きのアラブの大地を表しているのであろうか。中央の白地は少し狭めにして、その中央に緑の五芒星、これがアデンの立ち位置を示すものであろう。アラブが好む天国の色、緑が星にだけ用いられているところに興味が引かれる。恐らく支配者英国人の作であろう。アラブ人ならば赤と白の部分は緑とするであろうと推量する。

 

 

2.アクラビー首長国 

          Mashyakhah al-“Aqrabii(Aqrabii Sheikhdom) 

港湾都市アデンの北部の外周地域の部族。アクラブ族のアクラブ"aqrabとは「サソリ」のことである。一見、勇猛そうであるが、好戦的というより和平を好む部族であった。地域も部族構成員も多くは無く、遊牧および農業が生業であった。水も食料も不足するアデンの後背地の役割も果たした。

アクラブ族は、英国がアデンを保護国とするとき、真っ先に周囲の安全のため折衝の末1888年アデン保護領に包括された。もとは大きな州都ラヘジ(Lahj)の一部とされていたが、英国の庇護を得て独立した首長国アクラビー首長国となった。英語ではThe Aqrabii Sheikhdom、原地のアラビア語ではMashyakhah al-“Aqrabiiと言われる。首都はアクラブ族の本拠地ビイル・アフマドBi’r Ahmadに置かれた。

こうした英国との良好関係は他の首長国よりも深く、1959年の「南アラビア首長国連邦」の結成には率先して構成国となった。最初期基本構成国、9首長国の一つとなる。1957年の建国の初めから首長を務めていた Mahmud ibn Muhammad al-`Aqrabiがそのまま首長国の国主となった。首都ビイル・アフマドには族長の邸宅があって、アデンの小高いところから北東に遠望できた。63年の「南アラビア連邦」にも加わった。

しかし1967年の共和革命で、首長国ではなくなり、「イエメン民主共和国」の行政区では第3州ラヘジ州に組み込まれた。  (Robin Bidwell: Arabian Personalities of the Early Twentieth Century, the Oleander Press (G.B.),1917,pp.248-49,他)

 

 

3. アラウィー首長国 

         the Alawi Sheikhdom、Mashyakhah al-“Alawii

ラヘジ州の北方に位置するアラウィー(“Alawii )族の支配する地域である。アラウィ―族の領土は大きくはなく、主邑がスライクSulayqでアデンから北北東約55マイルのところにある。西南をハウシャビー族、東北をザーリウ族に挟まれた小国である。もともとはザーリウ族に支配されていたが、1839年自治を獲得、自らの領土とした。

 

アラウィー族は北方に強大な勢力を張るクタイバ族(北イエメン領)と仇敵の仲となっていた。当時の首長シャイフ・アリー“Alii ibn Naashir ibn Shaa’ifは、カシャウに居住していて、クタイバ族と小競り合いを繰り返していたが、部族の忠誠心はよく引き付けていた。

19世紀末英国との接触が始まり、1895年協議を重ねた結果、広くアデンの英支配権を受け入れ、アデン保護国の一員となり、アラウィー首長国 the Alawi Sheikhdom、Mashyakhah al-“Alawii として立ち上げられる。首都はカシャウal-Qasha‘とされた。首長は同時に国王となり、当時の族長シャイフ・イブン・サイ-ドがなった。その後 1940年からは族長であった Saalih ibn Sayiil al-“Alawii が務めている。また一説ではスライクを本拠地とするシャイフ・アリー・イブン・ナーシルであるとも。

クタイバ族との怨恨も英国との仲裁により抑え込まれたが、シャイフ・アリーは重度のカート(qaat)飲用者であったことが玉に瑕。カートは覚醒作用があり、意識はあるけれども夢中にるような身分にさせる。中毒にかかりると、その覚醒作用は自制心を奪う。シャイフ・アリーはカートの中毒にかかることがしばしば。恨みと憎しみを時に増殖させる。その対象が英国ともクタイバ族に向けられ、武力衝突を起こし、協定違反を起こすこともあった。しかし1913年クタイバ族とは最終的和平を結んだ。

そして英国の仲裁で、1914年近隣諸族との和平条約を結び、交易ルートの安全、隊商や行商、旅人の往来の保証の締結に至った。その協力金は年間600リアルから倍の1200リアルを受取ようになった。

アラウィー首長国も1959年の「南アラビア首長国連邦」の構成国として、最初期9首長国の一つであった。首長は1940年から族長であった Saalih ibn Sayiil al-“Alawii が首長となった。1967年の共和革命で、首長国ではなくなり、「イエメン民主共和国」の行政区では第3州ラヘジ州に組み込まれた。(Robin Bidwell p.249、他)

 

 

 

4.アウザリー首長国 

         the Audhali Sultanate、‎ Salṭanat al-‘Awdhalī 

 

アウザリー首長国は北方をルブウ・ル・ハーリー大砂漠に連なるラムラ・サブアタイン砂漠を内包する地域に当たり、アウザリー族が主として領有している。古代イエメン王国のヒムヤル王国の主舞台であった。アウザリー族もその自覚を持っており、遊牧民としての誇りと独立不羈の精神は強いものがある。この部族の族長クラスの家系はアシュラーフ(Ashraaf高貴な者達)と敬われ、部族の意向を主導していた。もっとも遊牧民的な部族であった。

本拠地はザラZarahとされて、首長国になってからもそこが首都とされていた。しかし遊動していて、どこと明確には位置が同定し難い。それで英国との交渉上、ラウダルLawdarとされた。ラウダルは現在では大きな幹道上の町となっている。西方に行けば丘陵を超えてバイダーウに出てサヌア街道となる。東に向けばアタクに出て、シャブワに通じハドラマウト街道となる。それに南にアデン湾に通じるシャクラ街道の結節点となっている。

英国とは他の保護領となった諸部族より接触が遅かった。1890年代には接触があったとの説もあるが、交渉に入ったのは1910年代に入ってからであり、英国のアデン保護領となったのは1914年であった。アウザリー首長国the Audhali Sultanate、‎ Salṭanat al-‘Awdhalīの誕生である。首都は上に述べた通りザラでは不便なので、ラウダルとした。

その後も英国との親和政策を保持し、1959年の「南アラビア首長国連邦」の最初期のメンバーに列している。最後のアウザリー首長国の首長は1928年以来首長となっていたスルタン・サーリフ Saalih ibn al Husayn ibn Jabil Al Audhaliであった。1967年の南イエメン人民共和国の革命によって、首長国は廃絶された。    (Robin Bidwell: p.273、他)

上の2枚の切手はアアウザリー首長国の切手。高原を背景に鷹が木の枝に止まっている。鷹は据えるだけでも威厳があり、狩りの勇壮な振る舞いもアラブの気性にあったもので、アラブ諸国、とりわけ鳥の渡りのルートの当たる地域ではシンボル化された。

切手にはアラビア語も入っていないし、単位はルピーであるからインドで製作されたものであろう。左上の卵形の空白の中には、おそらく首長の顔が入る予定であったろう。恐らく未完成のまま、また未使用のまま中断されたものと思われる。