南イエメンの共和制以前 英国保護領時代(上)

        イエメンに「クライシュの鷲」、「サラディンの鷲」登場

                     「クライシュの鷲」、「サラディンの鷲」(15)

キーワード:

南イエメン  英国保護領時代  アデンの重要性

首長国Sheikhdom・マシュヤハMashyakhahの結成

南アラビア首長国連邦

北イエメン「イエメン・アラブ共和国」の脅威・波及

南アラビア連邦」の国旗と国章

星と三日月   イエメンの象徴「短刀ジャンビッヤ」

郵便切手

 

 

 

前回のブログで述べたように、北イエメンでは1962年、共和派が王政を転覆させて、「イエメン・アラブ共和国」を成立させる。

 

一方南イエメンでは、事情がずいぶん異なり、英国の影響力が強く働いていた。英国はスエズ運河とインドを結ぶインド洋の防衛ラインとしてアデンに拠点をおいて重要視していた。アデンを1839年以来英国の保護領下に置いた。

 

イギリスは1830年代からアデン港の保持に全力を注ぐことになった。その後背地である「アデン保護領」「ハドラマウト保護領」については、資源の乏しい乾燥地、山岳地であり、植民地化するメリットはなかったが、アデンの護持のため、後背地となる周辺、および東部のハドラマウトにかけて、沿岸部を主として、重要な都市部や広大で強大な部族の族長たちに働きかけを行っていった。

こうして国体の体裁をとり、大部族の族長を首長(Sahikh)として、またスルタン(Sultan)やアミール(Amiir)として資格化して「首長国」が続々と出来上がっていった。自治のの権限をある程度認め、武器供与はないものの経済補助を提供しながら間接統治を行った。

 

英国は、その後1850年代からアラビア半島南部に関しては、アデン港周辺の安全の確保を狙い、南アラビアの隣接する地域を、財政援助を行いアデンとの和平を前提に、次々と懐柔して和平を進めた。支配領域の広く、強力な大部族の族長を誘って、独立国並みの待遇をして首長国Sheikhdom (アラビア語ではシャイフshaykh(族長)から由来するマシュヤハMashyakhah)に仕立て上げていった。シャイフの称号よりももっと位階の高いスルタンSultaanやアミールAmiirと称していた首長もいたが)。

 

 

南アラビア首長国連邦の結成

こうして1959年英国は「南アラビア首長国連邦」の結成に成功する。アデンを始め、南アラビアのハドラマウトの諸首長国と順次、交渉を始め、緩い規制ながらも、イギリスを後ろ盾として相互不可侵とイギリスとは敵対しないことが盛り込まれた相互協定であった。

 

しかし1962年北イエメンでの革命政権の誕生は、直ちに南イエメンへも波及した。英国は、アデンを死守したいため、北イエメンの独立闘争が実を結んだことに危機感を抱いた。直ちに動き、首長国たちに働きかけ、現在の「南アラビア首長国連邦」よりもさらに結束を強化するため、新たな連邦案を作成した。受け身の立場から積極的防衛を目指して、アデンの周辺や東部のハドラマウトの各首長たちに働きかけ、連動した独立国、連邦を立ち上げらせた。

こうして1963年13首長国が構成する「南アラビア連邦」が誕生した。

 

またアデンの確保も必要との政策から、1963年末、イギリスは直轄するアデン保護領をアデン地区にとどまらず、周辺の西北に拡大して、南アラビア保護領(1963年 - 1967年)と改称して、確保に努めた。

さらに北の革命運動の盛り上がりの連鎖反応を恐れた英国は、「南アラビア連邦」での中核が必要との配慮から翌年、直轄植民地のアデン領も同連邦に加盟させた。そのうえで外交と防衛を除く自治権を与えたうえで、1968年までに独立させる約束を交わした。

 

「南アラビア連邦」Ittihaad al-Januub al-“Arabiiの成立 

1962年の北イエメンでの革命政権の誕生は、直ちに南イエメンへも波及した。1963年英国は、アデンを死守したいため、北イエメンの独立闘争が実を結んだことに危機感を抱いた。英国は直ちに動き、「南アラビア首長国連邦」よりもさらに結束を強化するため、新たな連邦案を作成して、アデンの周辺や東部のハドラマウトの各首長たちに働きかけ、連動した独立国、連邦を立ち上げらせた。

 

こうして1963年17首長国が構成する「南アラビア連邦」 Ittihaad al-Januub al-“Arabiiが誕生した。

さらに北の革命運動の盛り上がりの連鎖反応を恐れた英国は、「南アラビア連邦」での中核が必要との配慮から翌年、直轄植民地のアデン領も同連邦に加盟させた。そのうえで外交と防衛を除く自治権を与えた妥協の産物であった。1968年までに独立させる約束を交わした。

 

またアデンの確保も必要との政策から、1963年末、イギリスは直轄するアデン保護領をアデン地区にとどまらず、周辺の西北に拡大して、南アラビア保護領(1963年 - 1967年)と改称して、確保に努めた。そしてアデン保護領として、これから述べる「南アラビア連邦」の構成国に加えて、さらに東の海岸部を占めるハドラマウトに広がる雄族諸族の国家体裁をとって、「東アデン保護国」を結成していった。

 

 

 

上図は南イエメンの、「南アラビア連邦」の国旗と国章である。向かって右は国旗であり、

三色旗を変形させ、黒・緑・青を基調として中央の緑の両端に細い黄線を加えている。その中央にはイスラム教のシンボルである「星と三日月」を白色で中央に位置づけるデザインで、なかなか明るくて見栄えのする国旗である。

左は「南アラビア連邦」の国章であり、イスラム教のシンボルである「星と三日月」を上下に位置づけ、その間にイエメンの象徴の短刀ジャンビッヤを配する。三日月に絡まるように長幡が基部を下にして上に伸びて先端を五芒星の横で終わらせる。幡の配色は緑を真ん中にしてその両端に白、黒を配する。幡の基部をよく見ると、緑の先頭には星が、白の先頭には三日月が象られている。すなわち国旗のデザインをそのまま長く伸ばした幡に舌もベアることが分かる。しかも基部の三日月に工夫が凝らされていて、その三日月の先端が白地としてそのまま伸ばされていることである。

その中央の隙間にイエメンの象徴の短刀ジャンビッヤを配する。三日月に絡まるように長幡が基部を下にして先端を五芒星の横で終わらせる。幡の配色をよく見ると、緑を真ん中にしてその両端に青と黒を配している。この配色は国旗に倣ったものであることが分かる。というのは、緑の基部、先頭のところを見ると五芒星が配されている。黄色地の先頭には三日月が象られている。この部分を旗の形に切り離すと「南アラビア連邦」も国旗となっている。「南アラビア連邦」興味深いのは、、長方形の旗をさらに長くリボン風に伸ばしたデザインであることが分かる。さらに先頭の三日月の、その先端を黄色地にそのまま伸ばされていることが分かる。

また上の郵便切手は筆者の手許にあるものであるが、かつては南アラビア連邦で使われていたもの。デザインは上の国章を映したもの。向かって左の青色が5フィルス、右の薄茶色の方が30フィルス。その上から朱色の字で書きこまれたいるが、その後起きた革命運動で成立した「南イエメン人民名和国」が、そのまま使用するため、切手の上に国名を上にアラビア語で、下に英語でスタンプを押して通用させていたものである。

 

 

南アラビア連邦 Ittihaad al-Januub al-“Arabiiは1959年から1967年までの間、現在のイエメン南部に存在したイギリス保護領地域の連邦国家(半独立国)である。アラビア半島南西部のイギリス保護領であった首長国が加盟して成立した。1967年にイエメン人民民主共和国として完全独立するまで存続した。首都はアデン。連邦の元首はアデンの高等弁務官が務めていた。

 

初の連邦は前身となる「南アラブ首長国連邦」主体の15の首長国(Shaykhdom)であった。その後首都のアデン州と上アウラキ・スルターン国の加入によって17ヵ国となった。一方、連邦へ加入しなかった他の英保護国は南アラビア保護領の一部として残された。(次回に続く)